2019.03.11
今日の出来事ではないが、明日は式典等で忙しいだろうと、三年前に岩手県宮古市田老でお世話になったMさんに、昨日昼過ぎ、ショートメールを送った。
「年に一度の織姫と彦星のような便りで失礼します。また、あの日がやってきますね...」などと送ると、夕方、出先で電話をいただいた。
スマホの向こうから、相変わらず元気印のMさんが、よく響く声で話してくれた。私と出会った福祉施設を退職された後、ボランティアや地域の団体活動等で忙しく、震災が近づいた最近はまた、テレビの取材などをよく受けているという話、他に病後のご家族の話などをされ、互いに盛り上がった。
和歌山に移ってきて、ほぼ職場とアパートの往復だけの変化がない私だが、Mさんの声にこちらがまた励まされた。
宮古市田老といえば、震災取材などでもよく取り上げられる、甚大な被害が発生した地域の1つだが、その中でよく日に焼けた、人一倍大きな声の、辛い話をしていてもすぐに笑い声で辛さを弾き飛ばす肝っ玉母さんのMさんは地域の中でも有名人、皆の人気者だ。
そのMさんから、また今年も元気をいただいた...。
発災時刻、職場の廊下の片隅で1人、岩手の方角に向け合掌した。
2019年3月11日月曜日
2019年3月10日日曜日
花は咲く
2019.03.10
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう
どんなに悲惨な災害が襲っても、野にある花はやがて咲き始める。
それでは、私は(世の中に、家族に、周囲に)何を残せたのだろうか。
これほど、真摯な、辛い問いはあるだろうか。
これへの答えが出せるよう、問い続けていくしかないのかもしれない。
花は 花は 花は咲く
わたしは何を残しただろう
どんなに悲惨な災害が襲っても、野にある花はやがて咲き始める。
それでは、私は(世の中に、家族に、周囲に)何を残せたのだろうか。
これほど、真摯な、辛い問いはあるだろうか。
これへの答えが出せるよう、問い続けていくしかないのかもしれない。
8年前のあの日
2019.03.09
今日が66歳の誕生日。
随分年をとったなと思うが、一人暮らしでそれを分かち合う人もおらず、息子と1人の知人からメールをいただいたことを、深く感謝した。
しかしそんなことより、また今年もあの日がやってくる。
今日午前中は仕事だったので、帰ってきてテレビを点けると、「花は咲く~ピョンチャンバージョン」が放映された。この曲を聞く度、涙を堪えることができなくなるが、私が58歳を迎えた2日後に発災したあの東日本大震災。
その翌月初に慌てて被災地に駆けつけたが、永遠と何十キロも続く三陸海岸の、ほぼ礎石しか残らず見渡す限り地平線まで跡形もなく洗われた大地、その土砂の下に埋もれている遺体を捜索するため大型ヘリからロープで降下し、長い棒で地面を突きながら進んでいく自衛隊の隊員たち、地上4,5階の高さになる神社の石段に引っかかっているワゴン車、気仙沼の海岸線から離れた道路に打ち上げられた大型漁船、釜石の商店街の細い路地にうず高く積み上げられたありとあらゆる瓦礫の山、路上にころがる海から飛散した魚の死骸、消毒のため道路沿いにずっと撒かれた消石灰の臭いと巻き上がる煤塵等々、今でも私の脳裏に焼き付いて離れないし、これからも決して忘れない。
あれ以降、日本では震度6弱以上の主だった地震だけで、同年(2011) 4月に再発した福島県浜通りの地震、2016年4月に頻発した熊本地方地震、2018年6月の大阪府北部地震、同年9月の北海道胆振東部地震、今年1月に再び起きた熊本地方地震などがある。
それだけでなく、先日のテレビの報道で、私が移った和歌山県の南部のいくつかの海岸町では、地震発生から2~4分後には津波が襲うと予測され、既にある程度の市民が内陸部に移住を始めていると伝えていた。
こういう地震の国に住んでいる私達は、津波を含めその被害を覚悟の上で暮らしていかなければならないだろうが、あの壮絶な光景を目の当たりにするとそう簡単ではない。そして、その被害を受けた方々の実態を知ると涙が止まらない。
その悲惨さを少しでも埋めようと支援活動をしたが、10回や20回、1年2年しても、どうだったのだろう。支援する側の自己満足ではなかったろうか?
被災した方の想いを理解することは、私にはできない。したことは、被災した方が何を大切にしようとしているかを察して、その想いを共に感じ合いたいと願ったこと。そして、その方の<今>に共鳴しようとした。その方が悲しみに満ちていれば自分も悲しみ、明るく歩もうとしていれば一緒に前向きになる、そういうことだった。
それがどの程度できたかは、ある意味で重要でない。被災した方に寄り添おうとする気持ちが、大切だった。そうすることが、自分にとって重要だった。
それは、よく言えないが<人としてつながる>ということだったのだろうか。そうすることで、被災した方に少しでも寄り添えると思った。<寄り添う>ことが、生活や営みの大切なものを数えきれないほど多く奪われた人に対して、人間としてすべきこと、<人の務め>のように思えたからだ...。
そんな<あの日>がまた来る。
今年も田老のあの方と連絡取り合おうと思うが、今年は仕事をする日なので、その時間に職場のどこかから、被災された方への祈りと、悲しみを抱く方へ慰めを発しようと思う。
今日が66歳の誕生日。
随分年をとったなと思うが、一人暮らしでそれを分かち合う人もおらず、息子と1人の知人からメールをいただいたことを、深く感謝した。
しかしそんなことより、また今年もあの日がやってくる。
今日午前中は仕事だったので、帰ってきてテレビを点けると、「花は咲く~ピョンチャンバージョン」が放映された。この曲を聞く度、涙を堪えることができなくなるが、私が58歳を迎えた2日後に発災したあの東日本大震災。
その翌月初に慌てて被災地に駆けつけたが、永遠と何十キロも続く三陸海岸の、ほぼ礎石しか残らず見渡す限り地平線まで跡形もなく洗われた大地、その土砂の下に埋もれている遺体を捜索するため大型ヘリからロープで降下し、長い棒で地面を突きながら進んでいく自衛隊の隊員たち、地上4,5階の高さになる神社の石段に引っかかっているワゴン車、気仙沼の海岸線から離れた道路に打ち上げられた大型漁船、釜石の商店街の細い路地にうず高く積み上げられたありとあらゆる瓦礫の山、路上にころがる海から飛散した魚の死骸、消毒のため道路沿いにずっと撒かれた消石灰の臭いと巻き上がる煤塵等々、今でも私の脳裏に焼き付いて離れないし、これからも決して忘れない。
あれ以降、日本では震度6弱以上の主だった地震だけで、同年(2011) 4月に再発した福島県浜通りの地震、2016年4月に頻発した熊本地方地震、2018年6月の大阪府北部地震、同年9月の北海道胆振東部地震、今年1月に再び起きた熊本地方地震などがある。
それだけでなく、先日のテレビの報道で、私が移った和歌山県の南部のいくつかの海岸町では、地震発生から2~4分後には津波が襲うと予測され、既にある程度の市民が内陸部に移住を始めていると伝えていた。
こういう地震の国に住んでいる私達は、津波を含めその被害を覚悟の上で暮らしていかなければならないだろうが、あの壮絶な光景を目の当たりにするとそう簡単ではない。そして、その被害を受けた方々の実態を知ると涙が止まらない。
その悲惨さを少しでも埋めようと支援活動をしたが、10回や20回、1年2年しても、どうだったのだろう。支援する側の自己満足ではなかったろうか?
被災した方の想いを理解することは、私にはできない。したことは、被災した方が何を大切にしようとしているかを察して、その想いを共に感じ合いたいと願ったこと。そして、その方の<今>に共鳴しようとした。その方が悲しみに満ちていれば自分も悲しみ、明るく歩もうとしていれば一緒に前向きになる、そういうことだった。
それがどの程度できたかは、ある意味で重要でない。被災した方に寄り添おうとする気持ちが、大切だった。そうすることが、自分にとって重要だった。
それは、よく言えないが<人としてつながる>ということだったのだろうか。そうすることで、被災した方に少しでも寄り添えると思った。<寄り添う>ことが、生活や営みの大切なものを数えきれないほど多く奪われた人に対して、人間としてすべきこと、<人の務め>のように思えたからだ...。
そんな<あの日>がまた来る。
今年も田老のあの方と連絡取り合おうと思うが、今年は仕事をする日なので、その時間に職場のどこかから、被災された方への祈りと、悲しみを抱く方へ慰めを発しようと思う。
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