2019年5月2日木曜日

念願

2019.5.2

 昨年始め、東京から移ってきた時の、当初の願いが叶った。
 この4月から、東京から移ろうと思う契機となった高野山内の寺院に勤め始めた。
 仕事の内容は寺院敷地内の清掃業務であるが、広大な敷地ゆえ、複数人で区域を分担し業務に当たる。その一人の分担範囲は結構広く、今の時期で言うとひたすら落ちてくる杉の葉っぱや枝との格闘である。
 当初は、やっと落ち葉を集め綺麗にしたエリアが、酷い時にはその午後に、そうでなくても翌日には、また同じ場所に落ち葉や枝が散乱する状態に呆れて、「これではやってもやってもキリがないな...」と少々嫌気もさした。しかし、毎日毎日、すっかり綺麗にした後に繰り返し落ちてくる葉や枝を見るうちに、「この繰り返しでいいんだ」と思えるようになってきた。

 雨に濡れ重くなって、その杉の葉や枝が風に吹かれて下に落ちることは自然の道理である。それを、奥の院に来られるとても大勢の参拝者のために、参道や周辺を綺麗に掃除することが私の仕事である。

 掃除を綺麗にすることに、終わりはない。それは、同院に勤められる前に1年間働いた事業所での用務の仕事で学んだ。
 用務員の仕事は、誰か監督者がずっとついて回り、仕事の出来を評価することはない。そんなことは人件費の無駄で、意味がないからだ。だからこそ、その仕事の出来は、用務員自身の自覚にかかる。
 掃除にはキリがないので、手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。要領よく、よく見える所を綺麗にして裏側や後ろの見えない所には手を抜けば、一見きちんと掃除したかに見える。しかし、それでは、裏側に回った時、抜いた手のいい加減さが分かってしまう。
 そうすると、どこまできちんと綺麗にするかは、自分の自覚、自分の良心との闘いになる。それは、他の誰からも指示されたり注視されることはない。結局、自分だけが知る、自分との闘いだ。
 しかし、それを<闘い>と感じる内は、まだまだ自分の気持ちに無理を強いている状態で、自然に無理なくその<繰り返し>を受け入れられるようになりたい。

 そうした用務や清掃業務をこの1年以上経験して、今、憧れであった同院で、その清掃業務に従事できるようになり、たった1年少々で念願が叶い想いが近付いてきたことに感謝している。

 トイレでも、建物内でも、境内でも、それを掃除するということは、自分の気持ちを綺麗にすることなんだと思う。その綺麗にした自分の気持ちの後に、どんな想いを植えていくかがその人の人生を決めていく。それでも、その地盤となる自分の気持ちを綺麗に整えることは意外に簡単ではなく、掃除などの日常生活に欠かせない当たり前の行為に、まず自分の気持ちが無理なく向き合えることが始まりだと思う。
 そうした摂理を、同院の清掃業務は教えてくれる。

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