2021年7月2日金曜日

命の値段

 2021.07.02

今日もまた、高野から富貴への路を辿った。

いつも通りに食事を届け、空いた食缶を受取り帰途に着く。

そして、高野の手前数キロの地点を登り続けている時、切立つ斜面を一面に覆っている擁壁に大きな亀裂を見つけた。

その擁壁は、岩肌などの凹凸に沿って金属メッシュを全面に張付け、規定量の砂にプレミックスセメントを投入する「吹付け工法」と言われるもの(和光コンクリート工業k.k記事を参照)のようだが、その擁壁の地上から2.5~3mほど高い所に、1m程の大きな亀裂が走り、中の地盤が見えている。

その時はまだ配送車で高野町に戻る途中だったので、町に戻る時間を測りながら通り過ぎた。そして、センターに戻りその旨報告し、勤務終了と共にその地点に戻り、この写真を撮った。

折からの雨で、この亀裂内部で土塁が膨張し、一気に亀裂を押し破るようなことがあれば擁壁は路面に向けて破裂散在する。それによる大事故など起こらぬようにと、急いで高野町の交番に状況を報告した。

交番に詰めていた数名の警官は、私が写した複数のスマホ写真や、カーナビにマークした地点を何度か確かめ、「然るべき所管に報告します」と答えてくれた。

やれやれと思い、自室に戻って2時間ほどすると、先程の交番の警官から電話があり、以下を報告された。

①当該斜面を管理監督する所管は県の○○局で、早速当該箇所に確認に行ってくれた。

②その箇所はかねてから損壊していることを所管も把握しており、以前と比べて損壊はさほど変わっていないらしい。

③また、損壊している箇所は県内に幾つもあり、当面、当該箇所を補修する予算措置は取れない、との返答であった。


この回答を聞き、私は「財政事情が厳しい地方では、山林管理や環境保全の費用も十分取れないから仕方ないな」と納得しそうになったが、「まてよ、これが東京や首都圏周辺であったら絶対同じようにはならない」と思い直した。

私が知っている東京都の各所管は、仮に当該補修に予算措置が厳しいとしても、それを補修しないことで起こり得る人身事故、特に生死に係る重大事故が発生すると予想されれば、その損害賠償に1つも2つも桁が違う金が動かざるを得ないことを充分承知している。

そうなれば、今のうちに「ない金」を引っ張ってきて、「住民から指摘があった損壊箇所を補修する」方が得策であると考える行政マンが殆どであると予測される。

それは、多くの企業が集合し人の堝である首都圏の行政が、各種の住民交渉や訴訟から学んだ<知恵>なのかもしれないが、目先の予算措置では考えないリスクマネージメントが働いているのは確かだろう。

対して、地方の行政は「ない袖は振れない」ということだろうが、先の擁壁工法を参照した企業の記事によれば、同工法による「補強擁壁工事」は1㎡当たり1~1.3万円で済むらしい。勿論、この面積費用だけで損壊箇所の補修が済むとは思えないが、仮に数百万円かかったとしても、人命が失われれば、どう考えても「死亡慰謝料」だけで最低2,000万円は下らない。

こうした金の損得勘定で、<人身事故が見通せる>補修工事の要否を論じることは不謹慎に相違ないが、では、目先の予算措置が取れないことを理由に、<起こり得る重大事故>に目を瞑っていて良いのだろうか? それとも、殆ど車の交通量がない地域だから、滅多に事故など起こらない、とでも考えているのであろうか。

仮に、高野~富貴路の損壊箇所と同様のものが東京郊外にあるとすれば、そこを通る東京郊外の「人や車の割合」と、高野~富貴路のその割合は、比較にならないほど違うのは確かだ。その比率を、「東京郊外100」対「高野~富貴路1」であるとしたら、では高野~富貴路で事故が起こる確率は、東京郊外の「1/100」と言えるだろうか。

答えは明らかにNoである。

事故が起こる確率を、目下ある人流や物流の割合から推し量ることはほぼ不可能で、それこそ、日本中のあらゆる専門家が様々な優れた検証を行っても尚、あの「東日本大震災」を予測できなかった所以でもある。<事故>の発生とは、人智の及ぶところではないからだ。


そんなことを今日の斜面亀裂から考えていると、そういえば、つい4日前、千葉県八街市で通学路にトラックが突っ込み、小学児童2名が死亡、他数名が負傷する事故が起きた。

運転していた者からは基準値以上のアルコールが検出されたというが、事故現場となった市道はセンターラインも歩道もない上に、速度規制の標識もなかったとのこと。そのため、以前から付近住民は不安を募らせ、テレビでは4年程前から何らかの対策を取るよう市に求めていたと報じた。

これに対して、ニュース画面に映った同市長のコメントは、「付近住民からの要望もあり、市も事故現場を危険箇所として認識していたが、市の財政事情は厳しく、対策の予算措置は今も取れない」というものであった。

この報道を見て、私は「それはウソだよね!」と強く思った。

上述の東京都ではないが、斜面亀裂であろうが市道の交通危険箇所であろうが、人命が脅かされる危険性のある要因への対処は、何にも増して優先されるべきである。

行政の立場に立って考えても、後に起こり得る人命損失の賠償対価を思えば、発災前に数百万の補修費を捻出するほうがよっぽど合理的だと考えるリスクマネージメントは、今の時代によりフィットしている。

また、通常の県や市レベルの財政管理団体であれば、数百万円規模の予算は某かの他予算を補正すれば持ってこれるはずである。むしろ、それを可能にできなければ、当該行政の経営能力は低いということになる。

そのため、『危険回避の予算措置を講じる財源猶予がない』などの釈明は、私に言わせれば自らの自治管理能力の低さを露呈しているようなものである。

賠償対価と補修費用を天秤にかけるリスクマネージメントは、<命の値段>を計っているようで何ともイヤラシイが、それでも自治体管理に要する財源配分を検討すべき立場であれば、こうした判断もあって不思議ではない。


但し、元より、人の<命の値段>を計ることなど、誰にもできない。

危険箇所の補修や整備が、市民、町民の人身保全に必須であるという<認識>は、言い換えれば、"人の命は何ものにも代え難い"という<道理>を、自治体管理のトップがきちんと理解しているか否かの試練といえる

それは、残念ながら、今の時代に一番失われつつあり、経済合理性を優先させてきた現代資本主義社会の<ツケ>に相違ない。

何れにせよ、損得勘定で計るリスクマネジメントでは最後は通用しなくなることは明らかだが、それでも、そのリスクマネジメントにも及ばない行政感覚では、市民、町民の生活リスクは如何ともし難い。


そんなことなどつらつら考えさせられる出来事だったが、あの高野~富貴路の斜面亀裂を思えば、この梅雨の最後の大雨で崩壊し、人身事故など招くような惨事にならなければと願う。

亀裂崩壊すれば、何より私の富貴への給食配達ができなくなり悲しい。

高野町に生まれ住む人々に対して、新参者の私が言うのは無礼に違いないが、お山の傷はすぐ労っていただきたい。それこそ、高野が守るべきアイデンティティー>ではないだろうか。


P.S. これを書き上げ一眠りしていた深夜3:00過ぎ、強い雨脚の音で目が覚めた。

思わず窓のカーテンを開け、外の降りを確かめたが、結構な雨脚は30,40分経ってもまだ続いている。私の不安が杞憂に過ぎないことを祈るばかりだ。


2021年7月1日木曜日

天上天下

 2021.07.01

曇天の空幕の下、今日も高野から富貴へ。

867メートルの天界から550メートルの山間へ下り落ちる路は、クネクネと幾重にも曲がり、今日のようにどこまでも厚い雲が山塊を包むと、それらを繋ぐ谷間からは白煙のように霧が立ち籠める。

今朝からの強い雨は、山路に切立つ斜面の数カ所に岩清水を吹かせ、その水は僅かな小川のように坂路を流れ落ちる。

やがて水は「丹生」と呼ばれる川に流れ落ち、川は土を飲み込み茶の濁流となって、飛沫を上げる。

雨で脆くなった岩壁は路のあちこちに尖った石片を転がせ、車は時速40キロを超えて下り落ちながらも、それらを避けながら進まないと危うい。

ただ、山肌に繁茂する苔は新たな翠を蓄え、山上から滴る水を得て生き生きと映える。

木々の緑の上には新たな翠がそれに負けじと芽吹き、また濃い緑界を重ねていく。

その路の途中で、小さな鳥が車の行く手を遮るように突然横切ると、また路面を舐めるように車の前に飛び込んできて、スイスイと、小さなジャンプを繰り返しながら路を先導する。

それは、まるで路先案内をするかのように何時までも何十メートルも飛び、やがて諦めたように進路を逸れる。

この路を通いだして既に半年が過ぎるが、何時通っても新鮮だ。


聞けば、昔から高野山と富貴の間には何某かの確執があるようで、中々関係が回復されないとのこと。しかし、そんなことには関わりなく、高野と富貴の山は何時も私を包んでくれる。きっと、お山は『愚かな人間どもめ』と嘲笑っているだろう。

お山は深い。

そのお山の懐に抱かれ、蝋燭が消えるように果てられたら...いいだろうが、篠田桃紅さんの境地には中々届かず、独りでいることが試される。

それでも、明日も高野と富貴を通おう。

お山はいつも私を迎えてくれる。