2021年8月14日土曜日

五輪はこれでいいの?

2021.08.14

先月、五輪・パラ大会開催について、思い余って購読している新聞朝刊の読者投稿欄に投書したことがあった。それは無事採用されずに?「投書した」という自己満足に終わったが、今朝の朝刊の下記記事を読んで、やはり思いを抑えられずに再び投書した。

投書内容は以下である。

 昨日の朝刊記事『スケボー「新たな世界」開く』を読んだ。コロナ禍での五輪開催の是非は一旦置いて、冒頭の女性柔道選手の自責振りなど読むと、五輪のあり方に大いに疑問がある。即ち、各種競技を熾烈に行い、結果として1~3位の順位を決め優劣を競うやり方が何故必要なのか。
 それは五輪誕生期から同様らしいが、今や国別対抗や国威発揚などの手段となり、他国のどの相手にも勝ることが五輪出場の絶対目的化している。相手に僅かでも勝った結果をメダルで差別化するその「栄誉方式」は、何とも人間の闘争本能だけが美化されているようで心にしこりが残る。
 そうではなく、各種目に鍛錬を重ね出場した選手が、自分の運動能力や種目技術、精神力・勇気などの発揮に挑み、その優秀さを世界中が讃え合う方法で実施したらどうだろう。それは、相手に勝ることではなく、最高記録に勝ることを目的とした競技のあり方だが、それを称賛し合う人の質が大切ではないか。若きスケボーアスリートたちは、それを素直に示してくれた。有難う。



書いたことは以上だが、漠然とテレビ画面に映る各選手たちの競技振りを見ていて、自然に日本選手を応援している自分に気付きはするものの、優勝した選手はともかく、破れた(=決勝で金メダルを取れなかった、予選などで敗退したなど)選手たちの映像を見るのは正直辛かった。
それは、競技後力尽きて独り静かに振り返る時間に浸っていたい時、あたかも無理やりコメントを聞き出すかのようにマイクの前に立たされ、それも判で押したように『開催できるかどうか分からない中で、この困難な大会を何とか開催していただいた関係者の皆様に心から感謝します』と声を震わせながら言っている<負けた>選手たちの心情を慮ると、私自身も針のむしろの気分だった。

金メダリストは、五輪種目の各競技最終時に<優勝(1位)>すればなれるが、それは各種目の世界水準(=世界記録)を更新することとは必ずしもイコールではない。
例えば、私が小学校5年生(1964年)の時に開催された東京五輪の陸上100m走では、アメリカ合衆国の選手が10秒06というタイム(世界タイ記録)で優勝した。しかし、その前の準決勝で、同選手は9秒9の記録を出したが追い風であったため公認されなかった。
そして、世界で初めて10秒を破る記録が公認されたのは、1968年のメキシコ五輪でアメリカ選手が9秒95を出した時であった。以後、100m走の世界記録は1989年に9秒8台が、1997年には9秒7台が、2006年にやっと9秒6台が出て、遂にあのウサイン・ボルトが2008年に9秒58の記録を出した。以後、13年以上経ってもそれを破る記録は出ていない。世界記録を出すというのは、それほど並大抵のことではない。

故に、五輪で優勝(=金メダル)でなくても、世界記録を出すことで競い合うのであれば、それはそれはスゴイことだと思う。
そうではない五輪での熾烈なメダル争いや優劣付けは、何の意味があるのだろうか?
優勝者はいいとして、その影で、SNSなどでの優勝できなかった各選手への誹謗中傷を始め、それまでの労苦を労う話題など全く起こらない世間の冷たい目線は、やはりこうした<優勝絶対化>が至上命題とされる五輪のあり方から生まれてくるのではなかろうか。

こうしたことを考えれば、ボンヤリと五輪競技を眺め、ただ優勝できたかできなかったかに一喜一憂している自分の愚かさは、きちんと反省されるべきだと思い知る。
今回の五輪は、そんな重たいお土産を残していってくれた。

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