2022.09.08
9月4日の毎日新聞朝刊に、人に勧められ観た「PLAN75(早川千絵監督映画)」の紹介と共に、テーマとなる人の生と死を改めて考える旨の短い記事が載っていた。
その記事は、主演女優が最後に決断した「答え」を観客には示さない映画の作りもあり、『わかりやすい作品ではない。だから私は、ずっと考えている』とくくっていた。その映画の設定もさることながら、記事のまとめも中途半端に感じたので何となく気持ちが引っ掛かり、何故かほぼ6年以上振りに映画を観に行くことにした。
そして、上映館をネットで探すと、自主独立系の名画座のような小規模映画館でしかやっていないのか、この近辺では大阪でも上映館がないどころか近畿地方で1か所だけ。それは、兵庫県宝塚市のミニシアターだった。それでも何とか観ようと、ネットでその劇場を確かめると、評判が良いのか(カンヌ国際映画祭出品予定作品)結構連日ほぼ予約が一杯状態。しかも、上映は9月8日で終了。私は数日前に、9月7日のチケットをネット予約した。
そして、公共交通機関の経路を調べてみると、この高野山から片道約3時間半もかかる。ゲ、ゲェと思いながら、1日1本しかない正午からの上映時間に合わせると、自室を午前8時には出なければならない。上映所要時間1時間50分ほどの映画を観るためにほぼ片道4時間を往復。しかも「シニア料金1,200円」に対して交通費は往復4,400円。
東京や神奈川にいた頃に比べ、これだけ「疎」な都市文化って何だろうと思いつつもとにかく上映館に向かった。地方の小規模都市と思われる兵庫県宝塚市売布(めふ)の決して大きくないショッピングビルの上階にある映画館は、全席50席の規模だったが当日は完全満席。予約なしで直接来られチケットを買えずに帰った方も数名いたが、一番後ろの壁際に臨時でパイプ椅子を数個出し鑑賞していただくほどの人気映画だった。
さて、その映画は、近い将来の日本社会で、「高齢者層の増加に伴う社会的負担の大きさに鑑み、75歳以上の者には生と死を選んでもらう。その選択は何時でも変更可能とされるが、死を選んだ者には自由に使える見舞金?を支給し、最後は薬剤処置で安楽死を行う」という設定。主演の倍賞千恵子は相応の年齢になっているのだろうか。演技も自然で巧み。画面は誰もが惹きつけられる仕上がりで、確かに考えさせられるテーマと作りだった。
全国の上映館全てで上映終了となっていないので詳しい設定や内容を明かせないが、78歳になる主人公を演ずる倍賞千恵子が「生か死か」の決断をするに当たり、下した結果は映画上明らかにされていない。しかし、その決断に至るプロセスをもっとしっかり描けなかったか、というのが私の率直な感想だ。
どんな場合であっても、「生か死」を自分で選ぶ必要があることなど極めて稀で、もしその決断が避けられないとすれば例えようがなく厳しい判断になることは間違いない。これまで難病を含む重度の身体障がいがある方の入所施設での生活支援や、インド「死を待つ人の家」で数ヶ月行ったボランティアなどを通して、人の死や臨終にかなり多く接してきた私は、<人は、最期は、案外に静かに息を引き取っていく>と理解している。それはロウソクの火が燃え尽きる時の、大きな<揺らめき>を伴いながらも程なく静かに消え入る様に酷似している。そうした場面が、私の経験では多かった。
それは、何かを大きく訴えることができないほど体力を失ってしまったからか、最期を峻別させるほどの意識が既にその人の體から失われているからなのか、それとも<生と死>の<境界>はそこに立ち入る者を否応なく無言にさせるからなのか...私には分からない。
しかし、私が知る多くの人のそうした<最期>を思うと、その<静かな最期>に至るまでの心的過程には、他人には到底視えない七転八倒の苦悩、葛藤があったことは言うまでもない。勿論、私は特定の方の容態悪化から最期までに四六時中付き添い、つぶさに看たわけではない。ただ、認知障害のあった方を除くと、最期を迎えるまでには、泣いたり笑ったり、怒ったり絶望したり、無理難題を言い張ったり、信じたり悲観したり、楽観的になったり客観視したり、或いはこちらを慰めてくれたり...と、様々な感情暴露や想いの吐露があったことは事実である。それも一人二人ではない。程度の差こそあれ、<潮の満ち引き>を繰り返すように、誰もにそれらは現れたり消えたりしたが、やがて皆、次第に<静けさ>を増していった。
今、私は、40数年やってきたこれまでの仕事の締めくくりのつもりで、ある国家資格取得のための受験勉強をしている。和歌山に移ってきてこれで2度目の挑戦だが、そのせいもあり、一人で自室に籠もることが多い。そのため、<独り>の時間に嫌でも向き合う。まして、部屋を出て10分歩くか歩かないうちに何件ものコンビニや商店があるような都会であればまだしも、地方の小都市にはそんな散歩を兼ねた身近な生活ポイントは決して多くない。
そうでなくても、高齢者は<孤独>である。
若い時のような家族構成ではなくなり(子供の独立・結婚、伴侶との生・死別等々)、若い頃のように遊びや趣味に打ち込める積極性やバイタリティ、体力は希薄になり、定年退職後の社会的活動への参加の機会は激減し、アルバイト・パートを含む就労機会からも排除される...。つまり、歳とともに家族・知人・友人等との人間関係や社会環境からは疎外、財力・資力は減失、体力・気力は衰退、身体機能は悪化というのが、平均的な高齢者の実像である。
これらの状況が行き着く先は、高齢者の<孤独/孤立化>しかない。
そういう<光景>は、私もこの歳(69歳)になるまで殆ど想像できなかったが、まさに映画の倍賞千恵子のように、追い出される間際の団地自室の薄暗いキッチンで、ポツンと椅子に独り座り不安を噛み締めている<老人の姿>そのものである。映画については、そのあたりの<高齢者の苦悩>を、倍賞千恵子にもっと訴えてもらいたかった。否、もっと<苦悩>が視えなければ、この映画のテーマに迫り得ないと感じた...。
しかし、それは<高齢(になった)者>にしか、実は分からない。
誰もがやがて辿る路であるにも拘わらず、<若い>人には<高齢者>はほぼ<視え>ない。その歳(生理体経過年数)と体力(身体機能年齢)、気力(精神力維持年齢)、加えて厳しい経済水準に至らなければ、<高齢者の苦悩>を捉えられる可能性は極めて低い。何故なら、若ければ<使える力>が有り余っていて、それが<使えなくなる>ことなどほぼ誰も考えられないからだ。
それでも、そうした若者にもできることは、<高齢者>の実情を<想像>することである。<高齢(になった)者>を<想(い巡らす)像>(する)ことで、やがて自らが主体となり担う社会が否応なく取り組まざるを得ない本質課題を、<考え>始められる。
だからこそ、高齢者はもっと社会にその実情を強く訴えなければいけないのかもしれない。それを受け、社会は<訴え>を感知するアンテナ=<センシビリティ>を研ぎ澄ませ、多様な人を包摂する<キャパシティ>を拓げられるのかもしれない。
そうしたことを改めて感じさせる映画ではあったが、今回の上映館の観客のほぼ8割以上は中・高年齢層で、若い人はほんの数人だけであった。巷でどれだけ評判が良い映画であっても、若者が中心となる今後の社会の関心事の実態が<これ>であると教えられた機会でもあった。
それを思うと、路はまだまだ遠い...
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