2018年3月11日日曜日

7年目の今日

2018.3.11

 東日本大震災が発災して7年目の今日、支援に入っていた岩手県の友人に電話した。
 またやってきた今日の日を迎え、心穏やかにお過ごしくださいとの思いと、自分の近況を伝えあった。
 変わりなく声のその女性は、今朝、避難訓練に参加してきたことやご家族の状態などを話され、互いに電話を終えた。

 今日の日をどう過ごそうかと考えた末に、やはり今日こそ高野山にお参りに行こうと思い、発災時刻のお祈りに間に合うように、高野への路を急いだ。途中の山道は、日曜ということもあり車やバイクで普段よりずっと混んでいて、祈りの時刻にあと10数分を残し、ようやく奥の院の近くに着いた。

 そのまま車を留められないと困るので、いつもなら「一の橋」から入るところを、今日は「中の橋」近くの路上の駐車スペースに急いで車を停め、奥の院燈籠堂まで走った。
 途中、構内のスピーカーから、東日本大震災の発災時刻が迫っていることや皆でお祈りを捧げられたい旨の放送が流れたが、人混みをすり抜け、燈籠堂(拝殿)に滑り込んだのがほぼ5分前だった。
 燈籠堂には、遍路の白衣を纏った集団が案内人を先頭にちょうど堂内に入るところだったが、何とか脇を抜け社殿入口にある塗香(ずこう)を手に擦り合わせて、急いで中に入った。

 ここ1ヶ月、燈籠堂に参拝に入った時は、私は構わず堂内の中の僧侶の方が行き交うエリア(一般人が入り参詣できるエリアのはずだが...)に靴を脱いで上がり、お大師様が祀られる眼の前の香炉に進み出て、焼香し、お祈りをあげるということを繰り返している。それは、昨年の12月末に、奥の院の「生身供(しょうじんく:お大師様がおられる御廟に早朝食物をお届けする儀式)」に同席させていただいて以来していることだが、傍にいらっしゃる僧侶の方から特に咎め立てされることもないので続けている。


 そして、午後2時46分が来る前から堂内内側の隅で手を合わせ、被災された方々のご冥福の祈りを続けていたが、その時間になっても堂内では何の合図もなかった。「あれ、そろそろ時間のはずだが...」と思い腕時計を見たが、既にその時刻を僅かに過ぎている時間だった。

 「高野山では、発災時刻に特に何もしないのだナ」と思ったが、静寂を重んじる堂内では、その種の放送は元より、鐘の音もたてないのが流儀だと思い直した。

 そして、小一時、祈りを続け燈籠堂を後にした。


 高野山奥の院には、東日本大震災犠牲者の方を祀る慰霊碑があるが、それだけでなく、阪神・淡路大震災や関東大震災の慰霊碑もあり、多くの方々の霊を弔っている。私も「中の橋」への帰り道にその慰霊塔により、やはり祈りを捧げてきた。


 家に戻ってから、各テレビ放送で東日本大震災から7年目の今日の特集をやっていたが、某放送局では高野山での様子も映していて、その慰霊碑の前で多くの僧侶の方たちが祈りを捧げている様子が出ていた。

 そうか、奥の院では「御廟の橋」から先は、撮影・飲食・喫煙などが禁止されている神聖な聖域なので、放送局なども一切立ち入れなかったのだと改めて気付いた。しかし、特に中の静寂なエリアにいて目を瞑り祈っていたこともあるが、私には燈籠堂内で参拝される方たちにはその時刻になっても改まった気配は感じられず、いつも通りに時間が過ぎていったことが解せなかった。
 その後10分ほどで燈籠堂を出てからも、大震災の慰霊碑の前で参拝などされている方はどなたもいらっしゃらなかった。
 それは、私の勝手な推測ではあるが、あれほどの被害が出た東日本大震災のことも、既に多くの日本人の記憶の中から薄らぎつつあるのじゃないか、と思えた瞬間だった。

 先ほどの某放送局の特集でも、政府は後2年ほどしたら、国としての支援策は全て終了することを報じていた。それとは逆に、被災地に残る方たちの暮らしの衰退ぶりは更に進んで、国は新たな支援策を講じることが必要とも研究者は言っていた。しかし、その具体策のかけらも、今はない。あるのは、個人を中心とした民間の支援だけではないか。

 
 一昨年、僅か7ヶ月ほどではあったが、岩手県で住込みの被災地支援就労をした。それを決意したのも、2011年4月2,3日に車で駆けつけ出くわした、三陸海岸一帯の見渡す限り家の基礎と瓦礫だけになったあの光景が、目に焼き付き離れないからだった。
 電子媒体でいくら凄まじい映像を見ても、文章で限りなく悲惨な状況を読み尽くしても、映像の枠を越えた360度スケールの煤塵立ち込める壮絶さや、舞い上げられた魚や生活雑貨、それに消毒用に撒かれた消石灰の混じり合った異臭は感じることはできない。
 それやこれやを思い出しながら、今日を過ごした。

 被災地に行こうと思った時も、自分がどうしたら良いか分からないので、まず行ってみようと決めた。状況も事情も違うが、自分に迷ったのは同じで、四国遍路も、高野山詣もまず実際にやってみようとの思いから、現に実行した。その結果が、今の現実になっている。

 これはこれでいいのだ!と自分を納得させながら、今はここまで導いてくれた弘法大師(お大師様)に感謝している。熱心であるわけではなく、信者ということでもないが、心情としてはお大師様に象徴される<何か>に導かれた、と自分で思っている。
 そういう気持ちでいると、今日のこの日を高野山で迎え、そこに行き交う人々の様子を見て、私達はもっと想いを行動に移さなければならないのではと感じる。
 そうしなければ、まして記憶はどんどん風化し、劣化する。それではいけないと改めて思った。

2018年3月5日月曜日

今日の大雨

2018.3.5

 今日、こちらに移ってきて初めて、滝のような大雨が降った。こちらとは、高野山に行くのに車で40~50分かかる、お山への登り口になる「かつらぎ町」のある町である。

 東京から移ってきたのは1月の末だったから、かれこれ1ヶ月半が経とうとしているが、この大雨は日本列島の上空で寒気と暖気がぶつかって低気圧が発生し、大荒れの天気を全国的に起こしているようだ。きっと、2日前に尋ねた高野山の裏通りに残っていた道端の雪溜まりも、溶けてなくなったことだろう。

 こちらに移ってきた事情は、その内、少しずつお話するとして、私にとって心の拠り所となる高野山にいつでも通える状況になってから、大分気持ちのゆとりが生まれつつある。そのため、雨が一時上がり少し晴れ間も見えてきた時、その天気に誘われ、暖かくなってきたこれからの陽気にも着られるラフなコットンシャツを買おうと、車で30分ほど離れた街に買物に出かけた。

 この辺りでシャツを買おうとすると近くでは1ヶ所しか店がないため、安価で好みのシャツを買うために、最も近くにあるユニクロに行った。そう、こちらが地方の中小都市とは言え、全国展開しているユニクロはしっかり出店していて、東京の規模と遜色ない。
 そのユニクロが期限限定でコットンシャツを売っていることをネットで見たので、急いで買いに行ったというわけだ。目当てのシャツを2枚買い、その横にあるケイヨーディツーでも少し買物をして、また京奈和自動車道(無料区間)を走って地元に戻ってきて、今日の夕飯用にと、やはり地元スーパーである「松源」という店に寄った。
 
 その駐車場に入った時は、また小雨が降り出していたので、車に積んであるビニール傘をさして店に入ろうとすると、東京の店舗なら雨天時はほぼどこでもある傘を入れるビニール袋がない。あれ?と思い、右側の小さな入口に行くと脇にそれがあったので、ビニール袋に傘を入れて店内に入ると、既に店内にいるお客さんの大半が、その傘を持っていない。全員が傘を持っていないようで、買い物している。きっと、他のお客さんは、傘を入口において店内に入っているのだろうと気がついた。
 東京ならば、入口に傘を置いておけば、店を出る時、傘がそこにあるとは保障できない。それが、東京とこちらの違いの1つ、と今日分かった。

 もう1つ。私が部屋を借りたアパートは敷地内に2棟あり、私の部屋がある棟は4世帯の造りとなるが、どの部屋のドアや郵便受けにも、どなたの名前も書かれてなく、表札もない。それが最近のマンション等の慣習なのかもしれないが、それでは郵便や宅急便の配達の人が困るのではないかと思えるほど、どの部屋にも名前がない。

 私は今までその表札をかける余裕がなかったので、時間ができるようになった今日、ようやくプリントアウトし名前を書いた紙に台紙を貼り、玄関ドアと郵便受けに付けたが、他のお家は全く名前がなく、引越し挨拶しても名前を言い自己紹介してくれた家は1軒だけだった。そんなに簡単に名前を名乗らないのがこちらの習慣なのか分からないが、不慣れな私には少し違和感がある。
 それでも、江戸幕府時代は別として、京都から東京に遷都されてからまだ150年余しか経っていないことを考えると、それ以前の圧倒的な歴史は主に関西にあり、そのお膝元に近いこの地域の文化、風習の東京との違いは、これからいくらでも知ることになるであろうことを考えると、違いって多いんだナと気付かされた1日であった。