2021年3月23日火曜日

再会

 2021.03.23

 18時までの勤務を終え、3日前に久し振りに作ったカレーライスを温めていると、珍しく携帯電話がなった。慌てて出ると、宮古市田老のMさんからだった。今年もMさんと話ができることを嬉しく思いながら話を聞くと、昨年10月からMさんの周辺には色々がことが起こったようだった。

 アルコール性肝炎を患っていた息子さんが片足を切断し義足になったこと、そのため家の中をあちこちリフォーム、バリアフリーにしたこと、知り合いの方がお2人ほど亡くなったこと、私も被災地支援中に何度も通った商店の女将さんが癌になりお店をたたみ加療中であること等々、いつもどおりのMさんらしく、全て笑いながら話してくれた。

 私より僅かに年上のMさんご自身は相変わらずお元気だそうで、声の調子も決して悪くはない。それがMさんの<生きる秘訣>なんだろうなと、お声を聞くたび思う。


 Mさんが住む岩手県に入る時、私は三陸海岸をずっと辿っていくのが通例だが、やはり甚大な被害に見舞われた宮城県南三陸町を越えると「鹿折」という地区がある。

 その地区に、海岸から数百メートルも内陸に打ち上げられた「第十八共徳丸」という巨大漁船が、遂に解体処分されたというニュースを先日聞いた。震災遺産として保留しようとする市の意向はあったが、多くの被災者の反対があったためだという。

 その解体処分は、あの震災を目の当たりにした<余所者>として多少無念に思うが、それが被災者の<想い>なのだろう。



 一方、その鹿折から更に進むと、岩手県釜石市の「唐丹町小白浜」という唐丹湾を一望できる場所がある。そこは、3度目になる被災地訪問を5月初にした時、立ち寄った場所で、湾から町への津波の侵入を防ぐためにそびえ立っていた堤防があっけなく崩れた地域だ。

 そこには、盛岩寺という地元漁師の方が中心に祀っているお寺がある。そのお寺も屋根が崩れ落ちるなど大きな被害にあったが、その荒れた境内にお参りした時、何本かの慰霊碑があった。

 その碑には、江戸時代以前から何百年以上にも亘ってこの地を襲った津波の数々の歴史が書かれてあった。その歴史を見ると、如何にこの地が<厳しい海>との闘いの連続であったかがよく分かる。

 でも、その時、何故、この地で、ここの人たちはずっと生きているのだろうという素朴な疑問が湧いた。<その地>は、彼らにとって、先祖から受け継ぎ、ずっと以前から生き続けてきた土地に違いない。それでも何故、「津波」という何時起こるか分からない、急な大悲劇を常に身近に置きながらこの地で生き続けるのか、不思議でならなかった。

 実は、今もその疑問は解けていない。

 土地への愛着、などという生易しいものでないことだけは確かだろうが、<そこ>に生き続ける<訳>は、結局、その土地の者でなければ<余所者>には分からないのかもしれない。

 

 私が電話をいただいたMさんに感じることは、その<明るさ>だ。そのMさんも、田老という昔から津波との闘いを続けてきた土地にずっと住んでいる。

 <知り合いの死>や<ご子息の不運>さえ笑い飛ばしてしまう彼女の根本にも、どこかで唐丹町小白浜に住み続ける人達にも共通するであろう<地への執着>を感じる。

 「地震」と「津波」の上に立つ日本だが、その<悲劇>を決して忌避すべき、或いは逃避すべき対象としていないように見えるのが、三陸海岸の人たちの暮らしなのかもしれない。

 そんな<暮らし>がこの国の中にある、ということも、東日本大震災は教えてくれた。


 私が垣間見た「小白浜」は、グーグルマップで「盛岩寺」を引いてもらえば、その辺りがすぐ出てくる。添付した写真と現在の町の違いを見ていただき、感じていただければと願う。




2021年3月11日木曜日

合掌

 2021.03.11

 去年もそうだったが、今年もこの日が来てしまった。心重い日が、数日続いていた。

 そのせいか、今週月曜夜から喉が痛くなり、痛みは収まる気配がなく身体がだるくなってきたので、誕生日の9日管轄の保健所に連絡すると、山下の病院でPCR検査を受けるよう指示された。同日夕に結果は陰性であると連絡をいただいたが、体調戻らず、今週は大人しく休ませていただくことにした。

 今年もあの時間が来てしまい、この高野山で何もできないまま、東北に向かってお祈りを捧げた。また、宮古市田老でお世話になったMさんにメールを送った。

 思い起こせば、あの震災が起こってから、TVなどでその規模の大きさや被害の甚大さが刻々と伝えられるにつれ、全く連絡が取れなくなった東北地方の障碍者支援施設が心配になり、いても立ってもいられず、4月に入った最初の休日(4/2,3)に毛布一枚を車に積み彼の地に向かってひた走った。

 高速の東北自動車道を上るにつれ、次第に「災害救援車」などと書かれた自衛隊の車両が目につくようになり、仙台に入った時、少し食料を買おうと立ち寄ったコンビニには、食料品は本当に何もなかった。何十台も並ぶスタンドでガス補給してから、三陸海外沿いに道を走ると、石巻に近づいた辺りから次第に道沿いに転がった車や潰れた家屋などが見えるようになってきた。

 後は、気仙沼、陸前高田などに近付けば近づくほど被害は一層酷く、確か大船渡を過ぎる辺り(釜石手前?)で、海外線の高台にある地点から道を下ろうと車が傾いた瞬間、海外線を一望できる広大なエリア一帯が全て何も無くなっている、信じられない状況が運転席にいる私の眼に飛び込んできた。

 そこに近付けば近づくほど分かってきたのは、津波で全て洗い流され礎石だけが残っている海外線一帯で、その所々にはかろうじて瓦礫が引っかかり、空には自衛隊の大型ヘリコプターが数台ホバリングを続け、そこからロープで降りてきた自衛隊員何人もが長い棒を持って地面を突き、地下に埋もれているであろうご遺体などを探している凄ましい光景だった。

 皮肉なことに、標高の違いにより津波の被害に遭ったエリアとそうでなかったエリアの差で、それははっきりと命運を分けた。そして、海岸線に近いエリアに降りてからはもう、道などない所も多く、洗い流された諸々の残骸や瓦礫を自衛隊員が押し分け造った






僅かな通路を走り、更に上に向かったことを記憶している。

 それもこれも、以後、私が勤務していた障碍者支援施設の全国加盟団体と行った支援活動の記録(写真媒体を含む)と共に残してある。

 震災の記憶を風化させてはならない。

2021年3月8日月曜日

GOLD

 2021.03.08

いこう 遠くまで二人きり

捨てよう 何もかも笑いながら

いこう 真夜中に出る舟で

今日までの二人に 手を振って

見知らぬ街 僕らは 別々の場所に振り

はぐれそうになったら 追いかけるのは止めて

思い馳せよう 星屑と地の果てへ

あの頃の二人に 辿り着くから

黄金色に輝く 天使に導かれて

独りぼっちで寂しかった その手に舞い降りるさ

だから

いこう 星屑と地の果てへ

もう一度 もう一度 生きられるから

笑いながら

いこう...


 これは、歌手の玉置浩二が作詞作曲したGOLDという曲の歌詞だ。

 この歌を始め、彼の歌には心揺さぶられるものが多い。

 かつて神奈川県某市にある身体障害者療護施設(現、障碍者支援施設)の運営をしていた頃、法人理事に頼まれて白梅学園短期大学で介護概論などの講義をしたことが数回あった。その講義には数十名の女子学生が出席していたが、授業が終わる前、質問などを伺う紙を配り確認したところ、その中に『先生は玉置浩二に似ていると言われたことがありませんか?』と書かれた紙があった。

 講義内容に関する質問票であったにも拘らず、そんな質問が書いてあり思わず苦笑したが、その玉置浩二は私が大好きな歌手である。特に、彼が書く歌詞は心の奥深くに触れられ、聞いていていつも泣けてくる。

 また、明日、10年目の東日本大震災がやってきてしまう。

 私はここ高野山で、何をしたら良いのだろう。

 岩手県の田老に行きたいがそれは叶わず、ここで彼の地の皆さんの心情を思い図ろう。

2021年3月3日水曜日

お礼と訂正

2021.03.03

  約4ヶ月かかって書き上げた友人たちへの便り「遺言プロローグ」を、2月末にようやく郵送できた。友人各位には長(超?)駄文ではあるが、我慢して読んでいただけるよう願うばかりだ。

 さて、その便りの中で「日本の自死率は世界最高である」旨の記事を書いたが、私のデータ確認ミスで、正しくは「G7加盟国中で最高」と訂正していただきたい。私が確認できたデータでは、世界最高の自死率はどうやらロシアのようで、次いで韓国、ラトビアと続き、日本は7位となっている。何れにせよ高い自死率であるのは変わりなく、このままで良いはずはない。

 そう思っている今日のTVニュースで、政府は先月「孤独・孤立担当大臣」を設定し、孤独・孤立に対応していく方針を示したとのこと。しかし、その担当大臣誕生の背景には、2018年に世界で始めてイギリスで同担当相ができた理由と同じく、自死による「経済的損失」が大きくあるらしい。

 「自死」という、人間の生存や暮らしにとって最も重大な事態に対する対応の背景にも「経済的損失」が大きく存在するというのは、如何にも現代の資本主義社会の効率が見え隠れし、朝から嫌なニュースを見たなと落胆した。

 さあ、気分を変えて、今日は富貴小への給食配達を楽しむぞ!