2021.03.11
去年もそうだったが、今年もこの日が来てしまった。心重い日が、数日続いていた。
そのせいか、今週月曜夜から喉が痛くなり、痛みは収まる気配がなく身体がだるくなってきたので、誕生日の9日管轄の保健所に連絡すると、山下の病院でPCR検査を受けるよう指示された。同日夕に結果は陰性であると連絡をいただいたが、体調戻らず、今週は大人しく休ませていただくことにした。
今年もあの時間が来てしまい、この高野山で何もできないまま、東北に向かってお祈りを捧げた。また、宮古市田老でお世話になったMさんにメールを送った。
思い起こせば、あの震災が起こってから、TVなどでその規模の大きさや被害の甚大さが刻々と伝えられるにつれ、全く連絡が取れなくなった東北地方の障碍者支援施設が心配になり、いても立ってもいられず、4月に入った最初の休日(4/2,3)に毛布一枚を車に積み彼の地に向かってひた走った。
高速の東北自動車道を上るにつれ、次第に「災害救援車」などと書かれた自衛隊の車両が目につくようになり、仙台に入った時、少し食料を買おうと立ち寄ったコンビニには、食料品は本当に何もなかった。何十台も並ぶスタンドでガス補給してから、三陸海外沿いに道を走ると、石巻に近づいた辺りから次第に道沿いに転がった車や潰れた家屋などが見えるようになってきた。
後は、気仙沼、陸前高田などに近付けば近づくほど被害は一層酷く、確か大船渡を過ぎる辺り(釜石手前?)で、海外線の高台にある地点から道を下ろうと車が傾いた瞬間、海外線を一望できる広大なエリア一帯が全て何も無くなっている、信じられない状況が運転席にいる私の眼に飛び込んできた。
そこに近付けば近づくほど分かってきたのは、津波で全て洗い流され礎石だけが残っている海外線一帯で、その所々にはかろうじて瓦礫が引っかかり、空には自衛隊の大型ヘリコプターが数台ホバリングを続け、そこからロープで降りてきた自衛隊員何人もが長い棒を持って地面を突き、地下に埋もれているであろうご遺体などを探している凄ましい光景だった。
皮肉なことに、標高の違いにより津波の被害に遭ったエリアとそうでなかったエリアの差で、それははっきりと命運を分けた。そして、海岸線に近いエリアに降りてからはもう、道などない所も多く、洗い流された諸々の残骸や瓦礫を自衛隊員が押し分け造った
僅かな通路を走り、更に上に向かったことを記憶している。
それもこれも、以後、私が勤務していた障碍者支援施設の全国加盟団体と行った支援活動の記録(写真媒体を含む)と共に残してある。
震災の記憶を風化させてはならない。



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