2023年1月16日月曜日

高野山 参

 2023.01.16

 『アンポ~粉砕! 闘争、ショーリ!』

 53,4年前、ノンセクトラジカル(無党派の新左翼系グループ)の象徴と考えられていた銀ヘル(銀色にスプレーされたヘルメット)を被り、手には必要ないのに竹竿を握って、全共闘(全学共闘会議)の何たるかもよく分からないまま、私は高校の校舎内を友人数名と練り歩いた。さすがに、授業中にそれをしていたら当時でも問題になったろうが、放課後、サークル活動をしている生徒だけが残っていた校舎内だったので、教師たちも大目に見たということだろうか...。


時事通信社1969.01.18写真より
 世の中は、70年安保闘争(1970年で期限が切れ自動延長となる「日米安全保障条約」を阻止し、ベトナム反戦等を掲げる、1960年代後半の左翼系の社会運動)の真っ盛り。あの「東大安田講堂事件(東京大学本郷キャンパス安田講堂を新左翼系学生が籠城占拠。排除しようとする機動隊との間で熾烈な抗争となった)」も、私が高校1年の時に起こった。講堂に立て籠もった学生たちは屋上から次々と火炎瓶を投げ投石し、下にいる機動隊は強烈な放水や地上・上空からの催涙弾攻撃で応戦した。その一部始終は日本全国にテレビで生中継され、国中が騒然となった。

 時代は、そういう状況だった。


 私が産まれ育った長野県(長野市)は「教育県」を自負していて、当時は「信濃教育会(学校教員の資質向上を目的とした職能団体)」の活動がとても活発であった。特に、私が小学校5年生から転入し上がった中学校は国立大学の付属校であったせいか、文部省指定の教科書は買わされたが、授業はほぼ教員たちが毎回自主作成したプリントや選定した書物などを用いた、極めて自主独立性の高い画期的な教育が行われた。

 私が小学校6年か中学に入った頃、その教職員たちの労働組合である「信濃教育教組」は、全県下を対象に「教育研究集会」を開催した。教職員たちが会議をする傍ら、同時に参集した県下の生徒代表たちも、自主的な討論などを行った。その場に私も参加したが、数十名の生徒たちと校内規則や生徒会活動などを遅くまで話し合い、集会後も文通などして交流を続けた。

 そうした経験などもあり、私は高校に進むと、制服自由化のため全校生徒が参加する自主集会を教師公認で設けたり、前述した<全共闘かぶれ>行動、時折、県内外の政治集会やデモにも顔を出すなど、政治的、社会的な活動に憧れるような時代を過ごした。


 しかし、物心ついてから小学生半ばに至る頃には、私は自分の家庭が時としてかなり荒れることを怯える少年でもあった。それは、私の父親が短気で自分本位な性格の上、放蕩の末に「別宅」を作るなど、家庭を顧みないことが原因だった。その「別宅」から父親がたまに帰ってきては、何かにつけて母親や子どもたちをすぐ怒り、殴る、激すると刃物を持って外まで追いかけ回すなどを続けた。

 それを怖れ、子どもたちは父親が帰ってきても自室に潜み顔を合わせないと、その態度が気に食わないとまた怒り、血を見る暴力が起こることもままあった。

 父親の家業は祖父から受け継いだ文房具卸商だったが、1955年からの「高度経済成長」期に乗じ市の新庁舎のオフィス家具類装備を一手に受託したり、県内に複数支店を設ける、住居・店舗一体型の3階建てビルを建設するなど、一時はかなり栄えて裕福だった。そのため、私が幼い頃は、買い求めた高級な大型国産車で家族温泉旅行や遊びに出かけたり、他の贅を尽くすなども確かにあった。

 しかし、家庭の内情は、<悲惨>の一字だった。


 私は随分小さい時から、これだけ荒れる家庭をずっと続け、父親と別れようとしない母親に対しても、いつしか憤りを感じるようになっていた。今考えると、母にしてみれば、家業は手伝っても手に職がない自分では子どもたちを養っていけないと、ひたすら暴力的な父に耐えていたのかもしれないが、幼い私にはそうした<悲惨さ>を強いる母親は、時として父親の共犯者のようにすら映った。

 何れにせよ、そうした父親の影響で各自は籠りがちバラバラになって、母親や他兄弟姉妹たちとも良好な家族関係を営めなくなった幼い私たちは、<家族・家庭の愛情>というものと疎遠に育った。そのため、そうした養育期を過ごして大人になり様々な遍歴を経た私は、自分は<愛情>を失った存在なのかもしれないと思うようになった。


 『人が抱える悩みはさまざまである。うつ、不安・緊張、対人関係の問題、依存症、過食、気分の波、不注意、育児の悩み、恋愛問題、不倫、離婚、非婚、セックスレス、DVや夫婦関係の悩み、心の傷、子どもの不登校、ひきこもり、発達の課題、非行.....。ところが、これらすべてに共通する原因となり得る問題として、その関連が指摘されているものがある。それが「不安定な愛着」である。

 愛着とは、母親との関係によって、その基礎が作られる絆だが、それは他の人との関係に適用され、また修正されていく。愛着は対人関係の土台となるだけでなく、安心感の土台となって、その人を守っている。(中略)愛着が安定している人は、他の点で不利なことがあっても、それを撥ね除けて、幸福や安定した生活を手に入れやすい。しかし、不幸にして不安定な愛着しか育めなかった人は、安心感においても、対人関係や社会適応においても、生きづらさを抱えやすい。(中略)

 愛着は、後天的に身につけたものであるにもかかわらず、まるで生まれもった遺伝子のように、その人の行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など、人格の重要な部分を左右し、結果的に人生さえも左右する。

 ただ、幸いなことに、遺伝子とは違って、愛着は、ある程度可塑性をもつ。成人した後でさえ、不安定だった愛着が安定したものに変化することもあるし、その逆の場合もある。愛着が、幸福や社会適応に極めて重要だとすると、愛着が安定したものとなることは、人生を幸運なものにも不運なものにもする重大な決定要因だといえる(岡田尊司著「愛着障害の克服」"はじめに"から引用)』                                                                                    

 

 私が過去三度壊した家庭の有り様を振り返ると、自分の<愛情>というものが如何に歪なものであるかを認めざるを得ない。多分、私は結婚して一緒になった伴侶に、自分の<家庭>に対する<想い>や<理想像>を強く押し付けてきた。

 象徴的には、「結婚とは男女二人の結び付きなので、各々の<家(両親)>や親族などは関係ない。夫婦二人が世界を作るだけで充分」と考えた。そのため、妻の実家に行くことは余り好まなかった(土台、私には実家がない)し、ペアの男女がいれば、極論すると子どもさえいらない、という感覚が強かった。

大学時代

 「妻には自分だけを、時として自分たちの子どもよりも<自分>を見ていてほしい」という、偏狭で自己中心の<愛>を求めた。また、「自分の友人たちに妻を紹介することはあっても、妻の友人たちを殆ど知らない」「私が行きたい所にはよく連れ回したが、妻が行きたい所にどれほど行ったか分からない」「特に若い頃は妻のすぐ傍に始終いたがり、妻が自由にできる時間は余りなかった」等々、数え上げたらキリがない。

 それが、ある時、妻に『私は子どもが一番大事だから...』と言われ、改めて愕然とした。そこには産む性としての女と、その一部を司るだけの男の生理的な違いはあるかもしれない。

 しかし、「どれだけ無理難題を強いても、最後まで自分に寄り添い続けてくれる<愛>を求める」という歪な<愛情渇望>が、自分の中に永々と眠っている。それは、母親をも疎み、得られなかった(と思っている)母の<愛=絶対無二で裏切られない愛>を、代償的に妻に求めたということなのかもしれない。

 それやこれやが、「愛着障害」と言われる領域に属した心象であることを、私は数年前にようやく知った。それにきちんと向き合い、自分を<総括>することが、本当の<遺言>になっていくプロセスだと信じる。




2023年1月11日水曜日

高野山 弐

 2023.01.11

 四国札所12番焼山寺は、標高938m焼山寺山の八合目辺りにある奥深い山寺である。

焼山寺手前の遍路道(岩層)
 その焼山寺山は、頂上南方約2.5kmに「ふなと岩断層」と呼ばれる岩質を有する岩山で、藤井寺からの登り山路は勿論、13番大日寺に続く下り路もほぼ岩だらけである。
 いわば、岩層の上に堆積した土塁とそれに植生する樹木、草類、僅かな苔などが表面を覆っているが、風雨に晒される箇所は岩質がそのまま剥き出しになっている。

 それも、大小構わぬ大きさの岩が遍路道のあちこち、または道を塞ぐように露出しているので、所々雪まみれではあったが、雨の日にだけは歩きたくない路(滑る滑る!)の典型である。


 私は、5年前のあの時のように、その山路をひたすら金剛杖を突きながら登っていた。

 あの時、何を考え、何に悲しくて涙したかをしっかり思い出しながら、でも、今回もまた頬が涙で濡れた。勿論、登る苦しさのためではなく、かと言って5年前に感傷的になったからでもなくて、それは、多分、今再び路を歩けること、うまく言えないが、自分が改めてこの路に戻れ、ここをゼイゼイ言いながら登られることそのものが、<有り難い>と実感した。

焼山寺参道(右山上の札所に通じる)
 相変わらず、10歩程登っては一息付きながらも、この険しい山路を何とか登れる身体が今も維持できていること、この険しい山路を再び登ろうとする気力がまだあること、この険しい山路を歩いて灰色の土や枯れた樹木が生き生き凛々しく見えること、この険しい山路にまた戻って来られた暮らしの余裕を得られていること、この険しい山路が今も遍路道として残され自分も歩くことができること等々、それらの全てが有り難く感じられたと思う。

 今回私が歩いた路は、そんな<想い>で満たされていた。


 以前もブログで書いたが、私にとって札所を訪ねることは、それ自体が目的ではない。札所と札所を繋ぐ遍路道で、頭を行き交う愚考のあれこれや、それらが過ぎると次第に考えることすら無意味で<無>にのめり込んでいく。そこには、不思議と<抵抗>も<焦り>も<不安>もない。これが最も自然だと感じられる。そういう<歩き>を求めて、私は遍路道を辿っているのだと思う。ところが、今回のお遍路では、今までにないトラブルが起きた。


 お遍路出発前、大晦日の週、高野山では大雪、小雪が何日か続いた。軽く10cm以上は積もった箇所を雪かきしても、その2時間後には同じ所に4~5cmも雪が積もる勢いで、私は仕事でお寺の玄関、門前などを何度も雪かきした後、帰ってからも住まう団地のあちこちを雪かきしていた。

 広い舗装路に積もった雪かきと違い、狭い砂利道や石畳の上は雪をかいたシャベルは少しも滑ってくれず、多量の雪をすくう毎に持ち上げ、邪魔にならない所に放る動作を繰り返さねばならなかった。それを数時間も続けると、思った以上に身体や腰に負担がかかっていた。

焼山寺から大日寺への路

 登り始めて2時間ほど経った頃だったろうか。過去には起こらなかった右太腿の上部が妙に突っ張るようになった。それは焼山寺を打ち終える頃にははっきりとした痛みとなり、考えてみると「そうか、雪かきのせいか」と原因は理解できた。しかし、歩くには結構不便になり、時折、手で叩いたり揉みほぐすなどして歩いた。


 しかし、極めつけは、焼山寺から大日寺に下る、大分民家に近づいてきた斜面で起こった。

 横に鉄の手摺りが付いた、近所の人も通りそうな狭い砂利舗装の急坂路面は、盛り上がった雪氷でガチガチに凍っていた。私はしっかり手摺りを掴み恐る恐る斜面を降りたが、次の瞬間、砂利の突起でよく見えなかった薄い氷上を踏み出した右足がツルッと滑った。右足にはグッと力を込めたが、ザックの重さで前に転倒しないよう重心が後ろにかかり、左脚は「へ」の字に開いて、膝からガツンと地に落ちた。

 中学生の頃、やはり雪に埋もれた道の陥没に左足が落ち、膝を強く反対に捻った。歳を取りそれは正座屈曲を困難にしたが、今回はその左膝と同時にバランスを取ろうと捻った腰も強く圧迫され、大きな衝撃を受けた。転んだ瞬間、隣の木にいたカラスに『カッ、カッ、カッ...』と低い声で笑われたが、私は暫く動けなかった。

 左膝より腰の痛みは深刻になり、元旦予約した宿に着く頃には、腰の左側は角度によってかなり鋭く痛むようになった。それでも治療などを受けられる見込みはなく、熱めの風呂で温め、回復を待つしかなかった。腰の痛みは翌日後も続いたが、身体の角度に留意して歩き続けた。


 今回は、札所11番藤井寺から17番井戸寺まで歩いている。12番以降17番までの札所は比較的近在するため、元日に泊まった宿から1日で歩ける距離だった。しかし、17番を打ち終わる頃には捻った腰の痛みは寒さもあり限界に近付き、付近の宿に素泊まりで潜り込んだ。お遍路行程では、その後、11番藤井寺前に停めた車まで電車で戻り、車に乗って18番恩山寺を打ち終え、区切りとした。恩山寺を打ち終えた後、やはり腰の痛みは続いていたので、徳島駅前のホテルに宿を取り、翌日、フェリーで和歌山に帰ってきた。

 今回のお遍路では、上記のように腰を痛めたことで、今まで殆ど気を配らなかった自分の身体について、改めて考えさせられることになった。


 私はこの3月で70歳になる。この歳になるまで、1ヶ月以上寝ていなければならなかったことは、左大腿骨骨折(小学校1年時、交通事故)、鼻中隔修復(36,7歳頃)、急性肝炎(39歳時、インドにて)による入院の3回だけである。他にも小さな外科手術や短期入院などは幾つかあったが、幸いにも身体・内臓等機能が著しく減失するような事態は経験していない。

 仮に、私に著しい身体・内部障害などがあれば、確実に急坂な遍路道を辿ることはできなくなる。「それを登れないからどうなんだ!」ということではなく、今の私にとって、この遍路道を辿られることは、何にも増して重要なことに違いない。何故なら、そこを辿りながら、<自分>が<無>になれるからである。

 仏教思想に、「縁起(因縁生起)の理法」というものがある。この「縁起」とは、普段私たちが用いる同語の意味とは全く別で、『物事は全て「因」と「縁」が結びつき成立、消滅するものなので、この世に絶対的、恒久的、固定的、本体的なものは一切ない。諸行(現象)は時間的に変化(無常)し、諸法(万物)は不変に存在持続するものはない(無我)』

 『私たちの存在すら、因と縁により一時的に仮に現象しているに過ぎないので、私も無常であり無我である。ところが、人間は無常なるものの上に常住性を期待し、それが必ず裏切られるために、苦が生ずる。その苦を除くために菩薩を求める』という教えである。

『』内は、1)大谷大学「生活の中の仏教用語」162,167,186   2)エンサイクロメディア空海「空と縁起の一考察」から、部分・要旨引用

 

  私が歩き遍路をして次第に<自我>を失い<無>になっていくプロセスは、「縁起の理法」でいう<無常>や<無我>には程遠いながら、私にとって最も重要な心的な<導入路>に違いない。そのプロセスを突き詰められれば、教えを学ぶ方角を掴めるかもしれない。

 とまれ、その重要なプロセスが、もしかしたら今回の転倒事故などによる身体の損傷でできなくなってしまったら...という不安が一瞬頭をよぎった。

 身体機能や内部機能を減失するということは、今まで自分が可能であった、或いは自分が最も重要に考えている必要行動などができなくなるだけでなく、それにより、生活の仕方や自我の形成、自己の確立が極めて重大に影響されることだと、改めて認識した。


美しいお顔のお地蔵様(徳島市内の路傍にて)
 こういう事故経験と抱いた不安から、私は、四国の<歩き遍路>で自分が<無>になるプロセスに何を求め、何故重要と考えるのだろう、それを契機に移り住みだした<高野山>に、何の意味を求めているのだろう...と、改めて考え直さざるを得なくなった。

 特に、高野山に移り住み始めて既に2年半以上過ぎた。その日々の中で営まれる人間関係も数多くなったが、これまでの東京・神奈川での人間関係の有り様とも異なり、難しさに苦慮することも決して少なくない。それに、離婚してからずっと独り身でいて、自分が何に固執し、どのように心象が屈折するのか、等々を考え続けている。


 そうした離京してからの5年目を、少しずつ振り返ってゆくことになる...



2023年1月9日月曜日

高野山 壱

 2023.01.09

 まず初めに、無作法極まりない私に、変わらず賀状を送っていただく数少ない友人の方々に、心からの感謝と、共に新年が迎えられたご挨拶を申し上げたい。有難うございます。


 文章ブログとしては1ヶ月半以上振りになる今回の投稿は、今までより混乱を極めるかもしれない。予めお詫びする。また、皆さんにかつてお送りした「遺言プロローグ」の最後に、私はある就労支援事業所で働き出す旨お伝えしたが、今回お伝えしたい内容とも係るので、その後経過についても簡単に触れたい。

 経過で言うと、働き出した事業所は、ちょうど1ヶ月で辞めさせていただいた。

 私にとって福祉的就労はその利用者の生活過程の一部であり、就労以前に取組むべき生活課題が明確であれば、それらを含め支援する必要があると考える。そのために新たな事業が必要があれば、小規模でいいから着手すべしと思うのだが、民間企業の経営側とはその認識に大きな差が生じ、1ヶ月間各種の協議を重ねたが合意に至らず。身を退いた。

 以後、目指す国家資格取得の受験勉強を口実に定職には就かず、時々頼まれてアルバイトでお寺関係の掃除などを務めている。昨年はある事情から受験勉強を中止(今年受験はなし)し、今は某寺から頼まれた庭(掃除)師もどきを、週2~3回短時間している。その不定期収入と、老齢基礎年金、親から受けた相続などで生き永らえているが、後10年と考えている残り時間をそれらで過ごせれば、何とかなるだろう。それについても、徐々にお話したい。



 さて、昨年末から今年の年始は、掃除を手伝うお寺の宿坊もお休みで他の方も休まれるため、掃除(冬季は雪かき)は休止(仕事は私の判断で時間・時間帯・曜日・周期はほぼ随意)し予期せぬ時間ができた。どうしようかと考えたが、もう「寝正月」など無為な時間は使えないため、考えた末にネット検索で必要な予約を取った。その予約とは、何回目かになる「歩き遍路」の宿の手配であった。

 「年末年始に宿やってるんだ!」と喜んだが、大晦日は何と四室満床! 正月元日の予約を取った。その宿がある遍路コースは、5年前、私が初めて歩き遍路に取り組んだ区間で、「遍路ころがし」という難所の代表的な1つであった。

 当時、歩き遍路初心者だった私は、欲張って背負った荷の重さに苦しみ、肩が千切れそうになる痛みに耐えながら同山中を必死に登っていた。お遍路に出る少し前、離婚し家庭を壊してしまった己の愚かさや身の辛さが嘆かれ、つたう涙が降り出した小雪で冷たくなった頬をほのかに温めてくれたことを、今でもはっきり覚えている。

 その四国札所随一の難所として知られる12番焼山寺を、再び歩こうと思った。

 元日のご来光をあの焼山寺で!と思ったが宿手配が叶わず。そのため、今回は自家用車で和歌山港から徳島港を結ぶフェリーの「乗用車航送プラン」なるものを利用し、車共々徳島に渡ることにした。そして、そのまま車で札所11番藤井寺に向かい、同寺門前の有料駐車場で大晦日は車中泊。車はそのまま数日駐車し、元日未明に焼山寺に向け歩き始める。

 藤井寺~焼山寺は「健脚で5時間」コースなので、寺まで行けずとも山路途中でご来光を迎えられると考えた。


 ほぼ70年生きてきた私も、さすがに大晦日の夜に軽自動車(パジェロミニ)の狭い車内で車中泊するのは初めてで、より快適に寝られる工夫はしたが限界は明らか。また、高野山より僅かに温かい程度の四国山岳部の寒さに備え、車にシュラフマット、冬用シュラフ、ブランケット等を持ち込み、ユニクロやモンベルの防寒衣料を着ることにした。

 大晦日、有料駐車場に入る前に地元住民向けの湯場に浸かり、開いていたファミレスで食事を摂って、他に1台も停まっていない広い崖下に広がる駐車場の隅にパークイン。用意した就寝準備を広げ、22時前にはシュラフに入る。寝こんでからちょうど深夜0時に、除夜の鐘が遠くで聞こえたがそのまま寝続けた。



 12番焼山寺への山路は、11番藤井寺の境内隅にある脇道からいきなり傾斜が始まる。

 こうした山路導入もそれ程ないが、標高40mの藤井寺に対し焼山寺の標高は705m。同札所間の距離は12.9kmなので、単純計算で山路1km進む毎に標高51m以上を登る。人間の平均的な歩行速度は時速4kmと言われるので、ほぼ15分歩く間に高さ50mを上がるペースを数時間続けるに等しい。

 


加えて、焼山寺に至る遍路道にはほぼなくなっていたが、すぐ横の山肌にはしっかり雪が残っていて、標高938m焼山寺山の奥深さは、積雪夥しい標高約900m級の高野町とそれ程変わらないと思い知った。


 藤井寺を出る時、辺りは当然真っ暗で、ヘッドライトを点けながらの歩きでも少々危ういと思い、出立を6時半頃に遅らせた。

 その藤井寺から200mほど登った所に端山休憩所があり、そこからは遠く阿波市を望む吉野川流域がずっと開けて見える。辺りの暗い色調の中で、遠く吉野川周辺の家々の明かりだけがキラキラ輝いて見えだした頃、予報ではご来光は7時過ぎ(10分頃?)だったのでそろそろかなと思っていると予想通り景色が変わり、流域全体を新たな光が照らし出した。

 その眩しい光の動きは、ここまで登った者にしか見られない壮大な光景で、更に新年の到来を感じさせた。


それから30分も歩いたろうか、私が初日の出の眩しさを確かめられたのは、開けた休憩所を過ぎて、生い茂る木々の間からだった。それでも、「あ~、年が開けたんだ...」と実感して、先を急いだ。






私が拝めたご来光 (7:40am)




  ここ数年、コロナ禍の影響で、特に歩き遍路が道を辿ることは極めて少なくなったと感じている。昨年5月に香川を回り奥深い山路を歩いた時には、至るところに張り巡らされた蜘蛛の巣に閉口したが、今回は雪もさることながら、雪氷に塗れる落ち葉や岩肌、道を塞ぐ倒木などが目に付いて、遍路道の荒廃振りが気になった。




 それでも、焼山寺はまだまだ見えなかった。