2023年1月11日水曜日

高野山 弐

 2023.01.11

 四国札所12番焼山寺は、標高938m焼山寺山の八合目辺りにある奥深い山寺である。

焼山寺手前の遍路道(岩層)
 その焼山寺山は、頂上南方約2.5kmに「ふなと岩断層」と呼ばれる岩質を有する岩山で、藤井寺からの登り山路は勿論、13番大日寺に続く下り路もほぼ岩だらけである。
 いわば、岩層の上に堆積した土塁とそれに植生する樹木、草類、僅かな苔などが表面を覆っているが、風雨に晒される箇所は岩質がそのまま剥き出しになっている。

 それも、大小構わぬ大きさの岩が遍路道のあちこち、または道を塞ぐように露出しているので、所々雪まみれではあったが、雨の日にだけは歩きたくない路(滑る滑る!)の典型である。


 私は、5年前のあの時のように、その山路をひたすら金剛杖を突きながら登っていた。

 あの時、何を考え、何に悲しくて涙したかをしっかり思い出しながら、でも、今回もまた頬が涙で濡れた。勿論、登る苦しさのためではなく、かと言って5年前に感傷的になったからでもなくて、それは、多分、今再び路を歩けること、うまく言えないが、自分が改めてこの路に戻れ、ここをゼイゼイ言いながら登られることそのものが、<有り難い>と実感した。

焼山寺参道(右山上の札所に通じる)
 相変わらず、10歩程登っては一息付きながらも、この険しい山路を何とか登れる身体が今も維持できていること、この険しい山路を再び登ろうとする気力がまだあること、この険しい山路を歩いて灰色の土や枯れた樹木が生き生き凛々しく見えること、この険しい山路にまた戻って来られた暮らしの余裕を得られていること、この険しい山路が今も遍路道として残され自分も歩くことができること等々、それらの全てが有り難く感じられたと思う。

 今回私が歩いた路は、そんな<想い>で満たされていた。


 以前もブログで書いたが、私にとって札所を訪ねることは、それ自体が目的ではない。札所と札所を繋ぐ遍路道で、頭を行き交う愚考のあれこれや、それらが過ぎると次第に考えることすら無意味で<無>にのめり込んでいく。そこには、不思議と<抵抗>も<焦り>も<不安>もない。これが最も自然だと感じられる。そういう<歩き>を求めて、私は遍路道を辿っているのだと思う。ところが、今回のお遍路では、今までにないトラブルが起きた。


 お遍路出発前、大晦日の週、高野山では大雪、小雪が何日か続いた。軽く10cm以上は積もった箇所を雪かきしても、その2時間後には同じ所に4~5cmも雪が積もる勢いで、私は仕事でお寺の玄関、門前などを何度も雪かきした後、帰ってからも住まう団地のあちこちを雪かきしていた。

 広い舗装路に積もった雪かきと違い、狭い砂利道や石畳の上は雪をかいたシャベルは少しも滑ってくれず、多量の雪をすくう毎に持ち上げ、邪魔にならない所に放る動作を繰り返さねばならなかった。それを数時間も続けると、思った以上に身体や腰に負担がかかっていた。

焼山寺から大日寺への路

 登り始めて2時間ほど経った頃だったろうか。過去には起こらなかった右太腿の上部が妙に突っ張るようになった。それは焼山寺を打ち終える頃にははっきりとした痛みとなり、考えてみると「そうか、雪かきのせいか」と原因は理解できた。しかし、歩くには結構不便になり、時折、手で叩いたり揉みほぐすなどして歩いた。


 しかし、極めつけは、焼山寺から大日寺に下る、大分民家に近づいてきた斜面で起こった。

 横に鉄の手摺りが付いた、近所の人も通りそうな狭い砂利舗装の急坂路面は、盛り上がった雪氷でガチガチに凍っていた。私はしっかり手摺りを掴み恐る恐る斜面を降りたが、次の瞬間、砂利の突起でよく見えなかった薄い氷上を踏み出した右足がツルッと滑った。右足にはグッと力を込めたが、ザックの重さで前に転倒しないよう重心が後ろにかかり、左脚は「へ」の字に開いて、膝からガツンと地に落ちた。

 中学生の頃、やはり雪に埋もれた道の陥没に左足が落ち、膝を強く反対に捻った。歳を取りそれは正座屈曲を困難にしたが、今回はその左膝と同時にバランスを取ろうと捻った腰も強く圧迫され、大きな衝撃を受けた。転んだ瞬間、隣の木にいたカラスに『カッ、カッ、カッ...』と低い声で笑われたが、私は暫く動けなかった。

 左膝より腰の痛みは深刻になり、元旦予約した宿に着く頃には、腰の左側は角度によってかなり鋭く痛むようになった。それでも治療などを受けられる見込みはなく、熱めの風呂で温め、回復を待つしかなかった。腰の痛みは翌日後も続いたが、身体の角度に留意して歩き続けた。


 今回は、札所11番藤井寺から17番井戸寺まで歩いている。12番以降17番までの札所は比較的近在するため、元日に泊まった宿から1日で歩ける距離だった。しかし、17番を打ち終わる頃には捻った腰の痛みは寒さもあり限界に近付き、付近の宿に素泊まりで潜り込んだ。お遍路行程では、その後、11番藤井寺前に停めた車まで電車で戻り、車に乗って18番恩山寺を打ち終え、区切りとした。恩山寺を打ち終えた後、やはり腰の痛みは続いていたので、徳島駅前のホテルに宿を取り、翌日、フェリーで和歌山に帰ってきた。

 今回のお遍路では、上記のように腰を痛めたことで、今まで殆ど気を配らなかった自分の身体について、改めて考えさせられることになった。


 私はこの3月で70歳になる。この歳になるまで、1ヶ月以上寝ていなければならなかったことは、左大腿骨骨折(小学校1年時、交通事故)、鼻中隔修復(36,7歳頃)、急性肝炎(39歳時、インドにて)による入院の3回だけである。他にも小さな外科手術や短期入院などは幾つかあったが、幸いにも身体・内臓等機能が著しく減失するような事態は経験していない。

 仮に、私に著しい身体・内部障害などがあれば、確実に急坂な遍路道を辿ることはできなくなる。「それを登れないからどうなんだ!」ということではなく、今の私にとって、この遍路道を辿られることは、何にも増して重要なことに違いない。何故なら、そこを辿りながら、<自分>が<無>になれるからである。

 仏教思想に、「縁起(因縁生起)の理法」というものがある。この「縁起」とは、普段私たちが用いる同語の意味とは全く別で、『物事は全て「因」と「縁」が結びつき成立、消滅するものなので、この世に絶対的、恒久的、固定的、本体的なものは一切ない。諸行(現象)は時間的に変化(無常)し、諸法(万物)は不変に存在持続するものはない(無我)』

 『私たちの存在すら、因と縁により一時的に仮に現象しているに過ぎないので、私も無常であり無我である。ところが、人間は無常なるものの上に常住性を期待し、それが必ず裏切られるために、苦が生ずる。その苦を除くために菩薩を求める』という教えである。

『』内は、1)大谷大学「生活の中の仏教用語」162,167,186   2)エンサイクロメディア空海「空と縁起の一考察」から、部分・要旨引用

 

  私が歩き遍路をして次第に<自我>を失い<無>になっていくプロセスは、「縁起の理法」でいう<無常>や<無我>には程遠いながら、私にとって最も重要な心的な<導入路>に違いない。そのプロセスを突き詰められれば、教えを学ぶ方角を掴めるかもしれない。

 とまれ、その重要なプロセスが、もしかしたら今回の転倒事故などによる身体の損傷でできなくなってしまったら...という不安が一瞬頭をよぎった。

 身体機能や内部機能を減失するということは、今まで自分が可能であった、或いは自分が最も重要に考えている必要行動などができなくなるだけでなく、それにより、生活の仕方や自我の形成、自己の確立が極めて重大に影響されることだと、改めて認識した。


美しいお顔のお地蔵様(徳島市内の路傍にて)
 こういう事故経験と抱いた不安から、私は、四国の<歩き遍路>で自分が<無>になるプロセスに何を求め、何故重要と考えるのだろう、それを契機に移り住みだした<高野山>に、何の意味を求めているのだろう...と、改めて考え直さざるを得なくなった。

 特に、高野山に移り住み始めて既に2年半以上過ぎた。その日々の中で営まれる人間関係も数多くなったが、これまでの東京・神奈川での人間関係の有り様とも異なり、難しさに苦慮することも決して少なくない。それに、離婚してからずっと独り身でいて、自分が何に固執し、どのように心象が屈折するのか、等々を考え続けている。


 そうした離京してからの5年目を、少しずつ振り返ってゆくことになる...



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