2021年4月28日水曜日

<原点>

2021.0428

 この4月の半ば以降に、神奈川の友人2人からそれぞれ連絡があった。

 1人は一昨日のブログにも書いた、神奈川県某市にある障害者支援施設のナース。

 その施設は、旧名称で「身体障害者療護施設」という種別で、重症心身障害児者の施設を除けば、障がい系施設の中で唯一「診療所(入院病床を併設しない、または19床以下の診療機関)」を併設する施設である。

 そこは医者の常駐こそないが、医師と看護師数名を抱える診療所が併設された、常時介護を必要とする身体障がいや難病のある利用者をケアする入所施設である。とかく医療職と介護職の対立が起こりがちな施設の中で、施設ナースとして次第に数多くの介護職と強力な連携を組んで、しっかり役目を果たしてくれた。

 ご本人は当時、馬主でもある(今もそうかな?)乗馬好きで、中々の切れ者、ハキハキした口調で鋭く意見する姿は小気味よく、カッコよかった。現在は私が勤めていた施設の隣市の同種施設でナースをしているとのこと。

 ただ、彼女が私に連絡してきた理由は、一昨日私がブログに書いたような「事情を心得た裏技」を聞きたかったなどという不心得なものではなく、彼女が送ってくれたメッセージには『Nさん(私のこと)から福祉的なものの見方を教わって、その後のナース人生でどれだけ助けになったか』というを文面を拝見すると、真摯に施設への外部医療導入のあり方を考えたいという、彼女の真面目さからであったことが分かり、一人赤面した。


 もう1人は、やはり同施設で介護職として働いていた人である。彼女は外見上も魅力的な女性だが、その表面だけに見とれ迫ってくる男が多い中で、しっかりいい旦那を捕まえた、根は極めて真面目な人である。

 その人とは、実はコロナ禍が起こる前に高野山で会おうという約束があったのだが、次第に状況が悪化したため、今も予定は保留中だ。その彼女が先日くれたメールの中で、『私はあの時期にあの年齢で、S施設でNさん(私のこと)の元で働けたことはとても幸せな期間だったと今でも思っている』との言葉をいただいた。

 自慢話に聞こえたら恐縮だが、昔の仲間である2人から、最高の褒め言葉を同時期にいただいたことは、偶然なのだろうかと思ってしまう。きっと、この歳になってもまだ迷っている私に、神様が<もう少しガンバレ>と送ってくれたラブレターに違いない。

 何れにせよ、この予想外の嬉しい出来事2つは、自分を<自分の原点>に立ち戻らせる。

 2人が褒めてくれたように、人の暮らしや命を支える<人が放つ技>のあり方は、時代がどれほど移っても、福祉でも医療でも、基本は変わらないはずだ。

 この<原点>にもう一度帰り、何をすべきか、改めて考えてみよう...。

2021年4月26日月曜日

今日、という日

 2021.04.26

[注] 前回分ブログは実際は4.01の記述であったが、公開日が今日であったため、前々回4.11ブログの後に公開されてしまった。本来の順序が狂ってしまったが、訂正する方法が分からないので、その旨御理解の上ご覧下さい。


 今日は、私にとって転換の日となった。

 1つは、この1ヶ月悩みに悩んだ末の結論を出したこと。

 2つは、私の嘆きにすぐ呼応して、慰めにわざわざ来ていただいたご家族とその友人ご家族。

 3つ目は、数年振りの突然の電話(前回もそうだった)があったこと。


 1つ目の出来事は、「やはり自分は馴染めない」と腹の底が言っていると自覚した時、今月就いたばかりの職を辞する結論を出した。

 後5~10年スパンで向き合うべき質が職場にあり、その10年に自分が本当に向き合えるのかと自問した時、申し訳ないが、私に残された時間の限界までその仕事に費やす決意がつかなかった。そのため、非礼を承知で、本午前、辞職願を本部に郵送した。

 勿論、それまでには経営者に2,3度メールで訴え、またいただいた電話でも長々と話をしたが、経営者との意識のズレは修正できなかった。

 2つ目は、そうせざるを得なかった自分の情けなさに耐えきれず、親しくしていただいているご家族にLINEして自分の情けなさをついぼやいてしまった。それに直ちに返信をよこして下さり、少しやりとりした。

 そのLINEに添付されたご家族のお子さん(こども園園児)の写真を見ていると、気持ちの揺れは大分治まってきた。こども園では色々ありやはり悩んだ末に辞めたのだが、在職中に出会った何人もの子どもたちにどれだけ自分が救われていたか、今回のことでもよく分かった。ありがとう...。

 しかも、私が仕事を終え住宅に戻ると、階下の友人ご家族共々顔を見せて下さり、お子さんたちの笑顔で私は慰められた。この親身さは、今までの暮らしの中でも殆ど経験したことがない。人への<優しさ>って、こういうことなのだろうか...と、何かが揺さぶられる。

 3つ目は、以前勤めた神奈川の障害者支援施設で職員として働いてもらっていたナースから突然電話があったこと。内容は、「診療所併設の同施設入所者に訪問看護を導入することは可能なのか」というもの。この辺りの疑問は、確かに微妙な判断が必要で、医療サイドからすると「診療報酬」が請求できるか否かの境界になる問題であり、彼女は施設運営の裏技を知っている中村に尋ねようと発想したのだろう。

 私はその施設を辞めて既に17年も経つのに、携帯番号を変えていないからだろうが、昨日まで話をしていたかの感じで電話してきた彼女の変わりなさには脱帽である。なんとも不思議なご縁である。


 そんなこんながあった今日。

 ここにいることが不思議であり、ここで生きていられることも不思議な感じがする。

 それに、ちょっとつまずけば『大丈夫?』と声をかけて下さる方がすぐ側におられることも、私には有り難く、不思議な世界。これが<高野山>か!

一度の別れと新たな出会い

 2021.04.01

 昨日、高野山にある某保育施設で最後の勤めを終えた。

 その最後の送迎バスの添乗が終わった時、バスの終点で待っていて下さったある保護者の方から、「子どもたちのワクワクドキドキが一杯の毎日を作って下さり...いつも笑顔で暖かく迎えてくれ...子どもたちと一緒に精一杯元気に遊んでくれ...その姿はもう一人のおじい…お父さんのようで、子供達や親に安心感と笑顔を与える存在でした。その愛情に感謝を込めて...」という有り難いお言葉を手書きされた「感謝状」をいただいた。

 その親御さんは、私が2年前に保育補助で一時就いた3歳児クラスから在籍している園児のお母さんで、その園児は私がその施設で一番馴染みがあるクラスの子どもたちの一人だった。

 その園では午後3時前に職員も一緒におやつをいただくが、ある夏の日、1人の園児から『先生が飲んでいるのはな~に』と聞かれたことがあった。私は思わず『これは魔法の水で~す』と答えた。『え~、ほんと~?』と子どもたちは興味津々。

 その時はそれで済ませたが、それがきっかけで、私は家から持参するペットボトルの水に色を付け「魔法の水」に見せようと工夫しだした。最初は紅茶を薄めて皆に『今日の魔法の水は赤で~す』などと言いながら見せていた。しかし、赤だけが続くと飽きられるので、次には市販の黄色い「午後の紅茶」を用意した。

 しかし、毎日『きょうの魔法の水はなにいろ?』と聞かれると、赤と黄色だけでなく、何とかもっと子どもたちの目を引く色付けができないだろうかと考えた。その結果、色鮮やかな「かき氷のシロップ」を希釈することを思いつき、以来、青や黄色、緑色などのシロップを買い込み、或いは抹茶粉などを使って日毎に使い分け、皆の前で見せるようになった。夏場、私はそのクラスだけでなく、その上の年長クラスの園児たちにもせがまれ、「魔法の水」は子どもたちの間で一時有名になった。

 クリスマス期には、送迎バスの運転や添乗の際に、100均で買ったイルミネーションツリーを光らせ、カモシカの被り物などを頭に着けるなど、送迎待ちする子どもたちの笑顔を誘い穏やかな乗降ができるようにしたことなどを評価していただいたのだと思う。

 そんな園児とお母さんの心のこもった贈り物が、何よりのご褒美となった。

 有難うございました。

2021年4月11日日曜日

新年度

 2021.04.11

 新年度となり、私は職場が変わり、今までいたこども園の園児や卒園した児童は新学期を迎えた。きっとそれぞれに希望や不安を抱きながら過ごしていることだろう。

 私は早速行政との多少のすれ違いを起こし、数年前までそうした対応を含め施設運営に苦心したことが思い出された。新しい職場のことは何れ書くとしても、もう少し咀嚼する時間がほしい。

 先日、こども園でお世話になったご家族で、階下にお住まいで卒園となったOくん、年長園児となり手製の「感謝状」まで作ってくれたAさんのご家族から、辞める際にバーボンをいただいた。4/8、お礼の意味を込め、2人の園児にそれぞれご本を贈り、Aさんには私が東京・神奈川の友人たちに送った「遺言プロローブ」を併せてお届けした。理由は、この高野山にも私のことをよく知っていただいている方がいて下されば...という、勝手な私の思いからだった。

 それをお渡ししようと思った時、階下にお住まいのOさんご家族も出てこられ、2世帯の皆さんと一頻りお喋りになった。そうこうしていると、そこに団地別棟に住まわれる外国人で高野山で働いている方も加わり、子どもたちは団地の入口で遊びながら、大人たちはお喋りに花が咲いた。

 そんな何でもない夕方の一時を過ごしていると、こうして少しずつ地元に馴染んでいくんだな...と、温かい気持ちになれた。


 さて、今日は久々の休みという感じで、天気も良いし、朝8:30頃から洗濯を始め、干し終わって食事を摂り、シャワーを浴びて、昼過ぎ12:30頃に富貴に出かけた。富貴は小学校分校に昼食配達している所だが、その道中の景色や富貴の町をゆっくり見て回ったこともないので、バイクで出かけた。

 途中は勝手知ったる路なので、それほどこれまでと変化はなかったが、先日、友人たちに送った「遺言プロローブ」(上述)の中で、富貴について書いている部分『今はかろうじてほぼ舗装路ですが、路面はヒビ割れ、穴あき、欠落、継ぎ足し甚だしく、ガードレールなど僅かしかない狭い道..』と記述した部分があるが、この一部を訂正しなければならない。

 今日バイクでゆっくり走ってよく見ると、雪や緑に埋もれた景色の中で紛れていたが、「ガードレール」はしっかりあることに気が付いた。むしろ、『ガードレールがない部分は僅かだが...』と訂正しなければならないほど、ずっとあった。

 多分、富貴の雪や緑に心奪われ、ガードレールは私の視界の中で姿を現さなかったのだと思う...? 改めて富貴の皆さんにお詫びしなければいけない。ゴメンナサイ!


 その富貴のある高台の一角に、「ヒマラヤカフェ」というお店がある。

 そこは何と、私が3月まで勤めていたこども園のある園児のお母さんが営んでいるお店で、しかも私の新しい職場の出店があるセンターで働いていらっしゃる方であった。更に、その園児のお姉ちゃんは、やはり一昨年度こども園を卒園したお子さんで、私が昼食を配達している小学校分校のたった一人の小学生(3月まで)だった。私もよく顔を見知ったお姉ちゃんだが、今日はお友達の家に行き私は会えなかった。

 そのカフェは今はお休み中のようだが、お母さんは私が訪れたチベットのタンカ(仏画?)を描く画家で、旦那さんはフランス人である。彼女は18歳でインドに渡り、10年程チベットでタンカを書く修行をされたようで、普段もチベットの民族衣装を着られる素敵な方だ。

 そのお休み中のカフェにいきなりお邪魔し、体調を悪くし回復してきたばかりの顔馴染みの園児やお母さんとお話した。そのお家の裏にはグラススキーができる傾斜地があり、とてものどかでゆっくりできる、活き活きした場所だった。

 昼食配達の合間や、休みの時に、またお邪魔しようと思う。

 また、素敵な知り合いの輪が広がった。