2021年5月26日水曜日

昔日

 2021.05.26

このブログは、私の中でこれを見ていただく方を対象に、表現してきたところがある。というより、その割合のほうが大きいかもしれない。

昨日、ブログを書き始めて、「これでは読む方が文章の脈絡を取れないな」と感じ、それを消した。でも、それも、今、書き留めておきたいと思って書き始めたものではなかったか。

それを消してしまったのは、無意味だと思い直した。

これは、自分の<心象の記録>なんだから。

自分の意識の中に在る事象の記録ならば、文脈がどうの、話の繋がりがどうのと考える必要はない。だって、記録なんだ。メモと言ってもいい。その断片の連続の記録。

そう、それでいい。


今、読んでいる本が数冊ある。同時並行でそれらを読みつつ、<面白い>と感じる本がある。

篠田桃紅という、書家というか「美術家、墨を用いた抽象表現主義者」と著者紹介にある方で、今年3月、107歳で亡くなった。その方の書いた本が数冊あるが、内、2冊を求め読んでいる。


107歳の含蓄。

言いようがない、というより、言葉を尽くしても彼女を表現するには価しない。

でも、彼女が生きる上で最も大事にしたかったこと。それは<自由>。

107年の生の最後に、そこに行きついている。 凄い。

『今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません』

『自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です』

『自由というのは、気儘にやりたい放題にすることではなく、自分というものを立てて、自分の責任で自分を生かしていくこと。(中略)自分の行動を責任持って考え、自分でやる。それが自由で、だから自らに由る(=因る、依る)という字を書く』

『芥川龍之介が「運命は性格の中にある」という言葉を残しているけど、本当にその通り。子どもの頃から、何でも自分でやりたがった性格が、私の運命を作ってきたのだと思いますね』

この部分だけでは彼女の正体(実質)はわからないだろうけど、<何事にも拠らない>という精神の表れを、<自らに由る>と表現できる。すごい。

それが、「1956年に単身渡米し、ニューヨークの一流ギャラリーで作品発表を続け、世界的な評価を得」ながら、国内外の一切の賞や章を断り続け、生涯を独り身で自分を貫き通してきた人の生き様だ。


私は、1996年半ばに、神奈川のある障がい者の入所施設に勤めた。

1階は私が担当した身体障がいの方が、2階は知的障がいの方が暮らす複合施設で、専ら1階でしか仕事をしなかったが、時折用事や会議で2階に上がると、そこにいる利用者の方と出会った。

当時、知的障がいの状態判定は、公設の更生相談機関で行われた。

身体障がいの状態判定もそこで行われたが、知的障がいの判定には、専門の「知能レベル判定ツール」があり、それで一定の検査後、判定医による当事者面接があった。その際、当事者の反応によっては「話の脈絡がつかない」とか「適正反応がない」或いは「言語・発語がない」などの理由から、判定医がその当事者を「知的な遅滞もある」などと判断することも昔はままあった。

そのため、「知的障害」と判定されていても、日常生活上の判断に何らの支障もない方は当然いらっしゃり、よくお話もした。

彼女は、そうした2階の利用者で、Yさんと言った。

ある時、私が何かの用事で2階の公共スペースの廊下を通っている時、彼女は向こうから電動車いすでやってきた。彼女はスズキの初期の、重く大型の電動車いすに乗っていた。

大柄で「水頭症」、かつ歩行困難な彼女はそれに乗って移動する。

上体は大柄で下肢が脆弱、筋力が余りなさそうな彼女は、車いすを操作する時、上体を屈め頭は座った膝の近くまで下がり、「コントロールボックス(操作レバーの付いた箱)」にしがみつくように乗っていた。

その姿は私から見てもすごく窮屈そうで、私はつい、『Yさん、その姿勢じゃ頭落っこちゃうヨ』と、(車いすから身体がズリ落ちそうだよという)軽い声かけのつもりで、そう言った。

そう言われた彼女は、すぐ頭をきっと上げ、『アタマなんか、落っこちませんヨ!!』とキツい表情で私を睨み、そう言った。いつも私には比較的穏やかに接してくれる彼女に、私はそう言われた。

その時、私はハッとした。そうだ! 彼女は水頭症だ。しまった!

「水頭症」とは、脳内脊髄液が適正に循環されず、頭蓋骨内に滞留し大脳を圧迫してしまう疾患で、結果的に様々な障がいが起こることがあった。それには、シャントと呼ばれる体内留置管で他の体腔内に脊髄液を流す処置などをして対処されるが、外見上は頭蓋骨が多少大きくなる傾向がある。彼女も、そうであった。

その彼女に、私は無配慮に『頭が落っこちる』と言ってしまった。

彼女にしてみれば、一番言われたくない言葉であったろう。その言葉を、私は言ってしまった。

もう、取り返しがつかなかった。

彼女に睨まれ、それに気が付いた瞬間、私は反射的に彼女に謝った。

彼女の車いすのすぐ横に跪き、彼女の顔を横に見つめながら、『ごめんなさい...』と二、三度繰り返し謝った。でも、それは許しを請えることでないことは、はっきり分かっていた。

それでも、私には謝ることしかできなかった。

そうしていると、私は涙を堪えきれなくなった。そして、泣きながら彼女に謝った。その後は、彼女の足元で『申し訳ない』と、ただ泣くしかなかった。

その様子を見ていた彼女は、暫くしてから『もう、いいですよ』と、ほぼいつも通りに近い彼女に戻り、言ってくれた。

それは、私の経験の中で、今、思い返しても心が痛くなる<痛烈な失敗>の一つだ。


そんなことをふと思い出すと、その彼女だけでなく、あの当時、日々接し介護や支援をしながらやりとりした多くの利用者、ストレッチャータイプに乗っていたNさんや大柄でいつも笑っているUさん、全身性エリテマトーデスのOさん、筋ジスのケンさんなど、何人もの利用者の顔を思い出す。

もう、天国に行った人もいるけど、皆んな、あの世でもこの世でも、元気でいるだろうか。


最近の自分を見ていると、こういう過去の経験を思い出すことや、<見えないはずのもの>が見えるなど、10年を待たずにそろそろヤバイのかな...と思えることがある。

その怖れが僅かにあるのであれば、もう少し、準備期間がほしい。精一杯やりたいことも、まだある。

でも、当人の想いとは別に、<そんなことはお構いなしに突然来る>ということなんでしょ、桃紅さん。

だから、<やれるところまでやろう>とだけは言える...。



2021年5月24日月曜日

今日

 2021.05.24

今日の富貴への配達時、いつも見慣れた道筋に、何回か、普段は見ない<急に動くもの>が見えた。それは、40~50m先のガードレールの付近をサアッと通り過ぎていき、最初は車が来るのかな?と思い、出会い頭に気を付けなくちゃと思いなが進んでも、一向にその姿はない。

おかしいナと思いながら進んで、また少しすると、同じようなことが先の30~40m付近で起こる。

それを3~4回繰り返すと、「何かがいる」と感じた。それもお山の<何か>が、である。「そういう時もあるのだな」と思い直し、今日は往復した。


ちょっと必要があって、昔の資料が入ったダンボール箱を夜ひっくり返した。

すると、昔インドに行った時の写真が山ほど出てきて、とても懐かしく眺めた。

カルカッタは勿論、マナリ、レー(チベット)などの光景や、ビザ延長のため一時出国したネパールでの写真などもたくさん出てきて、あの時の時間にタイムスリップしたようだった。

そこで共に時間を過ごしたり、すれ違ったりした多くの人達の顔や姿も写っていて、今どうしているのだろうと、少しの間、想いに浸った。


過去の時間は取り戻せない。

あの頃がすごく思い出されても、もう、戻れない。

そんな、少し普段と違う今日を過ごし、<何か>が変わるらしいことを感じる。自分が気付かない<何か>が、変わりつつある(らしい)。

そうした今夜、何度か中断し諦めていたある課題に再挑戦しようと、思い直した。

それを、明日から始めようと決め、今夜はその準備をした。

私を通り過ぎた<過去>は、取り戻すためにあるのじゃなくて、<迷っている今>を導いたもの。そう思えば、<今>を悔いないように過ごさなきゃ、また未来の<悔い>を産み出すことになる。その<分かりきった自明>を、もう何十年も繰り返してきた。

精一杯(という表現しかできないけど)、やってみるしか、ないか。

普段と違う<何か>を背負った今日は、間もなく閉じることに、しよう。


2021年5月12日水曜日

!

2021.05.12

<世界>が開けた!

新しい<世界>が開いた。

自分がこれまで68年間で挑めなかった、新しい<関係>を、これからどう作り出していけるのか。これまで、営む勇気も、知恵もなかったから...。

でも、<何か>を拓かなければ...!

2021年5月11日火曜日

「氷の世界」

2021.0511

昨夜は泣けなかった。

燃え尽きた自分がいた。かなりのエネルギーと精一杯の気持ちを込めて過ごした、この2週間だった。

昨日は、尽きたエネルギーが僅かでも自分を埋めることもできず、ただ、死んでいた。

それが、今日は泣ける。泣いて、泣いて、そして涙は流れるが、ふと我に返り、涙を止める。

そんな出来事が、この2週間の内にあった。


私は1972年、都内のミッション系の某(三流?)大学に入り、そこで出会った車いすの聴講生(脳性麻痺の男性)の介助をしていた。そのきっかけは、聴講生の学内生活の介助をしていた私の友人がある時急に介助の都合が悪くなり、「どうしても頼む!」と言われピンチヒッターを務めたことだった。

聴講生が受ける授業の教室に彼を連れていき、お昼には学内唯一の学食に彼を連れて行き、食事介助をした。しかし、その学食の入口には数段の階段があったので、車いすを彼に教えられるまま力づくで引き上げたりして、介助した。

車いす聴講生を受けながら、学内にスロープ1つなく、エレベーターがある建物も1つしかなく、彼にとっては移動1つとっても介助なしにはいられなかった。そのため、介助する学生たちは大学当局に「せめて学食入口にだけでもスロープを作って」と請願したが叶わず。

それは、後に介助者を中心とする学生数人が「スロープを創ろう会」という集まりを自主的に作り、最後は大学の夏季休業中に勝手にスロープを作る工事を始めて、学内処分の対象になるなどの結末になった。しかし、そうした彼への介助が、以後、40~50年に亘る私の人生を決めてしまった。


ピンチヒッターが続いたある日、私は初めて彼と学食に行き、彼の注文を聞いて、自分が食べるもののチケットも買い、用意できた食事を彼が待つテーブルに持っていった。そして、彼の注文品を彼の前に置き、私は「いただきま~す」と言い食べ始めた。そして、少し経ち彼を見ると、彼はそのままじっとしていた。

『あれっ? どうしたの?』と、食事に手を付けていない彼を見て、私は言った。

すると、彼は『あの~、自分じゃ食べられないんだ...』と答えた。『えっ!そうなの?』と答えた私は、食事を彼の口に運ぶ必要があるまでは分かったが、どうしてよいか皆目分からない。

『あの~、どうしたらいいの?』と、彼に彼が食事を食べるには私がどうしたらいいかを聞いた。『あの~、じゃ、最初にカレーライス(彼の注文品)とご飯をスプーンで半分くらいすくって、口に入れて』と彼は言った。

『あの、カレーって、ご飯と混ぜて一緒にしていいの?』と私。

『いや、混ぜなくて、ご飯すくった後、カレーをスプーンの先に付けて...』と彼。

それが終わった後、することを聞くと『福神漬を1つ2つスプーンにすくいちょうだい...』

こうして、私は彼の口にスプーンを運び終わる毎に、『次はどうする?』って彼にやり方の全てを聞き、彼が言う通りの食べ方で(介助を)行った。


彼は、それから確か1~2ヶ月後、私の6畳のアパートに転がり込んできて、私と彼との華麗な?同居生活が始まった。その生活は、程なく友人たちも巻き込み、私の部屋の空いた隣室や近くのアパートに皆が移り、彼への24時間の介助生活を行った。

その間には、今から48,49年前に車いすに座ったまま東京都営バスに毎日のように乗った私達に、東京都からの圧力もあった。それは、『都バスの運営規程に則り、車いすの方は車いすを畳み、座席に座っていただかないと乗車できません』というものだった。

『そんな、彼は通路に前向きに、車いすに乗ったままいるのが一番安定して安全なんです』と訴えても『他のお客さんにも迷惑がかかるから...』と運転手は繰り返した。

私はバス内の乗客に『皆さん、運転手さんは「迷惑がかかる」と言ってますが、ご迷惑でしょうか? 彼はこのまま乗ったほうが一番安定するんです!』と訴えると、『いいよ、いいよ、そのまま乗れよ』などとお客さんが言って下さるなどもあった。しかし、その内、東京都の都営バス所轄部署から、『今の(車いすにのったままの)バス乗車を止めないと訴えます!』と恫喝?され、『そんなこと、できるものならやってみろ!』とケツをまくった。

そうは言ったもののそのバス乗車は翌日から止め、ほとぼりが冷めるまで、彼の車いすを長い時間押して通学したなどもあった。

また、ある時は彼と通った銭湯で、これから入ろうと彼の服を脱がせていると、『こんなヤツ、ここに連れてくるんじゃねえ!』と、背中に花柄の墨の絵が入った強面のお兄さんに凄まれ、『そ、それって、どういうことだ!』と、腹の底から勇気を振り絞り立ち向かったこともあった。その時は、強面のお兄さんが何となく引き下がってくれたから事なきを得たが、彼との共同生活では、それこそ色々なことがあった。


後日、彼に『何故、俺の部屋に転がり込んで、一緒に生活しようと思ったんだ?』と聞くと、『俺の介助をしてくれる人は大勢いたけれど、あの食事介助で、1つずつを俺に確かめ介助してくれたのはN君(私のこと)しかいなかった。それは、俺にとって、すごく大事なことだったんだ』と彼は言った。

「そうだったんだ...」 私は、この経験で、<介助をすることの意味>を教えられた。

少しボランティアに慣れると、多くの人がそれまでの経験から、<要介助者の口に運ぶ食事の順番や運ぶ量などを、介助者の判断で決める>ことが多い。これが「介助~非介助」の当たり前の暗黙のルール。

「それはおかしいでしょ?」 その当たり前の疑問に従い、私はこの40~50年の多くを、要介助の障害当事者たちと過ごした。


その当時、巷でよく流行り、私達も毎日のように聞いた井上陽水の「氷の世界」を含むアルバムを、今、聞いている。あの当時、あれだけのエネルギーとパトスを注ぎ、燃え尽きそうなほど燃えた時代が私にもあった。

それがザアー!と、ここでフラッシュバックする。

陽水は、今、その時代を呼び起こし、48年後の、<私>を揺さぶっている。

私のこの68年は何だったんだろう。そんなことすら、揺さぶられる。


この悲しみに、耐えたい......


2021年5月3日月曜日

「遺言プロローグ」

2021.05.03

 既に0時を回ったので、今は5月3日。

 連休に入ったばかりではあるが、私は相変わらずStay Homeを保持して、部屋で腐っている。

 でも、この数日、私にはかなり大きな変化があった。その内容をこのブログで書くには少々恥ずかしいので、またの機会に譲る。

 標題の「遺言プロローグ」とは、その出来事の相手になる方にも送ったが、私が過去40年余過ごした東京・神奈川の、未だに連絡を下さる数少ない友人たち宛にこの2月末に送った 、私の半生ともいうべき<想い>を綴った私文である。

 その中では、近況になる私の職場や暮らしの中での出来事、大いに遡って30年以上も前になる稀有な経験などを通して率直に感じてきた<想い>を綴った。

 その中身を書くには、こういうブログって、多くの未知の方に公開される恐れがあるので控えるが、今後も生きている限り、「遺言プロローグ」は書き続けようと思っている。


 私は正直、自分のリミットは後10年と思っている。

 その10年で何ができるか、そう考えるとかなり10年は短い。

 そうであれば、あまり時間を無駄にできない。<やれそうなことは精一杯、今、やる> これが最近の私のポリシーである。

 その「遺言プロローグ」の序文にも書いたが、私の母親は一昨年年末を待たずに逝き、すぐ上の姉も10年前に60歳で逝った。2人とも消化器系のガンだった。

 自分のこれまでの経験から、人の<死>は散々見てきた。

 その息を引き取るすぐ側で看取った人も、1人や2人ではない。最期までさぞ無念だったろうと思える人、「もう精一杯やったよね。本当にお疲れさま...」と声をかけ見送った人、誰が居なくても私が看ているよ、と寂しく送った人...。人の死は様々だ。


 私は小学校1年生の1月1日、長野県長野市の市内で、正月で酒に酔った人が運転するバイクの後部席に乗せられ、停車しているバスにそのまま突っ込み、大事故に遭った。

 その時、何故か私は私の身体を離れ、道路の電柱よりもっと高い所から、事故で倒れているバイクや運転していた人、何より自分自身が見えた。そして、その車道脇に続く歩道上から、正月に行き交う多くの人が、殆ど自分の口に手を当て血相を変えて、事故の惨劇を見守っている表情がリアルに見えた。

 それは、きっと「人」が言う「幽体離脱」というものだったのだろうと後になって分かったが、私には衝撃的な経験で、その時、私は子供心に「あ~、これがいつもお母さんが口酸っぱく『車には気を付けなさい』と言ってた「交通事故」っていうヤツなんだ」と、妙に現実的なことを思ったことまで覚えている。

 その事故後、私は救急搬送された「日本赤十字病院長野支部病院?」で、奇しくも新年会?で集まっていた県下の数名の名医?たちによって、『正月早々、事故起こすなんてメデタイ子供もいたもんダ!』と、寄ってたかって「俺にもやらせろ、俺にもやらせろ」と皆で手術され、無事にオペが終わったと聞いた。

 そのせいか、私の骨折した左足は、その後、高校時代には長距離走の選手として県の競技大会にも出られるほど回復した。確かに事故後、僅か6歳にしてほぼ1年弱も家を離れ、入院しなければならなかったことや、退院後、ギブスで凍りついた左足の屈伸を回復するため、今の時代のリハよろしく、マッサージの方に毎日のように炬燵に腹ばいになった後ろから、泣きながら曲げ伸ばしされたことは、苦い思い出としてよく覚えている。

 でも、その時の<自分を上から見た経験>は、私の中で決して風化しない。今でもほぼ鮮明に蘇る。「あれは、一体なんだったんだろう?」

 そう繰り返すことは何度もあったが、今はもうその現象自体の原因は考えないことにしている。だって、見たものは<見た>としか言いようがないからだ。

 でも、それが、私が<この世>と<別の世界>を微妙に感じる、最初の<入口>になったのかもしれない。その自分の6歳の<経験>が、私をこの<人を相手にする世界>に招いたのかもしれない。

 そんな<不思議>を思うと、今こうして<いる>こと自体が、私にはとても摩訶不思議なことに思える。そして有り難い。

 それを感じられる<齢>に、ようやくなったのかもしれない。

 68歳、あと10年...。