2021年5月3日月曜日

「遺言プロローグ」

2021.05.03

 既に0時を回ったので、今は5月3日。

 連休に入ったばかりではあるが、私は相変わらずStay Homeを保持して、部屋で腐っている。

 でも、この数日、私にはかなり大きな変化があった。その内容をこのブログで書くには少々恥ずかしいので、またの機会に譲る。

 標題の「遺言プロローグ」とは、その出来事の相手になる方にも送ったが、私が過去40年余過ごした東京・神奈川の、未だに連絡を下さる数少ない友人たち宛にこの2月末に送った 、私の半生ともいうべき<想い>を綴った私文である。

 その中では、近況になる私の職場や暮らしの中での出来事、大いに遡って30年以上も前になる稀有な経験などを通して率直に感じてきた<想い>を綴った。

 その中身を書くには、こういうブログって、多くの未知の方に公開される恐れがあるので控えるが、今後も生きている限り、「遺言プロローグ」は書き続けようと思っている。


 私は正直、自分のリミットは後10年と思っている。

 その10年で何ができるか、そう考えるとかなり10年は短い。

 そうであれば、あまり時間を無駄にできない。<やれそうなことは精一杯、今、やる> これが最近の私のポリシーである。

 その「遺言プロローグ」の序文にも書いたが、私の母親は一昨年年末を待たずに逝き、すぐ上の姉も10年前に60歳で逝った。2人とも消化器系のガンだった。

 自分のこれまでの経験から、人の<死>は散々見てきた。

 その息を引き取るすぐ側で看取った人も、1人や2人ではない。最期までさぞ無念だったろうと思える人、「もう精一杯やったよね。本当にお疲れさま...」と声をかけ見送った人、誰が居なくても私が看ているよ、と寂しく送った人...。人の死は様々だ。


 私は小学校1年生の1月1日、長野県長野市の市内で、正月で酒に酔った人が運転するバイクの後部席に乗せられ、停車しているバスにそのまま突っ込み、大事故に遭った。

 その時、何故か私は私の身体を離れ、道路の電柱よりもっと高い所から、事故で倒れているバイクや運転していた人、何より自分自身が見えた。そして、その車道脇に続く歩道上から、正月に行き交う多くの人が、殆ど自分の口に手を当て血相を変えて、事故の惨劇を見守っている表情がリアルに見えた。

 それは、きっと「人」が言う「幽体離脱」というものだったのだろうと後になって分かったが、私には衝撃的な経験で、その時、私は子供心に「あ~、これがいつもお母さんが口酸っぱく『車には気を付けなさい』と言ってた「交通事故」っていうヤツなんだ」と、妙に現実的なことを思ったことまで覚えている。

 その事故後、私は救急搬送された「日本赤十字病院長野支部病院?」で、奇しくも新年会?で集まっていた県下の数名の名医?たちによって、『正月早々、事故起こすなんてメデタイ子供もいたもんダ!』と、寄ってたかって「俺にもやらせろ、俺にもやらせろ」と皆で手術され、無事にオペが終わったと聞いた。

 そのせいか、私の骨折した左足は、その後、高校時代には長距離走の選手として県の競技大会にも出られるほど回復した。確かに事故後、僅か6歳にしてほぼ1年弱も家を離れ、入院しなければならなかったことや、退院後、ギブスで凍りついた左足の屈伸を回復するため、今の時代のリハよろしく、マッサージの方に毎日のように炬燵に腹ばいになった後ろから、泣きながら曲げ伸ばしされたことは、苦い思い出としてよく覚えている。

 でも、その時の<自分を上から見た経験>は、私の中で決して風化しない。今でもほぼ鮮明に蘇る。「あれは、一体なんだったんだろう?」

 そう繰り返すことは何度もあったが、今はもうその現象自体の原因は考えないことにしている。だって、見たものは<見た>としか言いようがないからだ。

 でも、それが、私が<この世>と<別の世界>を微妙に感じる、最初の<入口>になったのかもしれない。その自分の6歳の<経験>が、私をこの<人を相手にする世界>に招いたのかもしれない。

 そんな<不思議>を思うと、今こうして<いる>こと自体が、私にはとても摩訶不思議なことに思える。そして有り難い。

 それを感じられる<齢>に、ようやくなったのかもしれない。

 68歳、あと10年...。

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