2021年5月11日火曜日

「氷の世界」

2021.0511

昨夜は泣けなかった。

燃え尽きた自分がいた。かなりのエネルギーと精一杯の気持ちを込めて過ごした、この2週間だった。

昨日は、尽きたエネルギーが僅かでも自分を埋めることもできず、ただ、死んでいた。

それが、今日は泣ける。泣いて、泣いて、そして涙は流れるが、ふと我に返り、涙を止める。

そんな出来事が、この2週間の内にあった。


私は1972年、都内のミッション系の某(三流?)大学に入り、そこで出会った車いすの聴講生(脳性麻痺の男性)の介助をしていた。そのきっかけは、聴講生の学内生活の介助をしていた私の友人がある時急に介助の都合が悪くなり、「どうしても頼む!」と言われピンチヒッターを務めたことだった。

聴講生が受ける授業の教室に彼を連れていき、お昼には学内唯一の学食に彼を連れて行き、食事介助をした。しかし、その学食の入口には数段の階段があったので、車いすを彼に教えられるまま力づくで引き上げたりして、介助した。

車いす聴講生を受けながら、学内にスロープ1つなく、エレベーターがある建物も1つしかなく、彼にとっては移動1つとっても介助なしにはいられなかった。そのため、介助する学生たちは大学当局に「せめて学食入口にだけでもスロープを作って」と請願したが叶わず。

それは、後に介助者を中心とする学生数人が「スロープを創ろう会」という集まりを自主的に作り、最後は大学の夏季休業中に勝手にスロープを作る工事を始めて、学内処分の対象になるなどの結末になった。しかし、そうした彼への介助が、以後、40~50年に亘る私の人生を決めてしまった。


ピンチヒッターが続いたある日、私は初めて彼と学食に行き、彼の注文を聞いて、自分が食べるもののチケットも買い、用意できた食事を彼が待つテーブルに持っていった。そして、彼の注文品を彼の前に置き、私は「いただきま~す」と言い食べ始めた。そして、少し経ち彼を見ると、彼はそのままじっとしていた。

『あれっ? どうしたの?』と、食事に手を付けていない彼を見て、私は言った。

すると、彼は『あの~、自分じゃ食べられないんだ...』と答えた。『えっ!そうなの?』と答えた私は、食事を彼の口に運ぶ必要があるまでは分かったが、どうしてよいか皆目分からない。

『あの~、どうしたらいいの?』と、彼に彼が食事を食べるには私がどうしたらいいかを聞いた。『あの~、じゃ、最初にカレーライス(彼の注文品)とご飯をスプーンで半分くらいすくって、口に入れて』と彼は言った。

『あの、カレーって、ご飯と混ぜて一緒にしていいの?』と私。

『いや、混ぜなくて、ご飯すくった後、カレーをスプーンの先に付けて...』と彼。

それが終わった後、することを聞くと『福神漬を1つ2つスプーンにすくいちょうだい...』

こうして、私は彼の口にスプーンを運び終わる毎に、『次はどうする?』って彼にやり方の全てを聞き、彼が言う通りの食べ方で(介助を)行った。


彼は、それから確か1~2ヶ月後、私の6畳のアパートに転がり込んできて、私と彼との華麗な?同居生活が始まった。その生活は、程なく友人たちも巻き込み、私の部屋の空いた隣室や近くのアパートに皆が移り、彼への24時間の介助生活を行った。

その間には、今から48,49年前に車いすに座ったまま東京都営バスに毎日のように乗った私達に、東京都からの圧力もあった。それは、『都バスの運営規程に則り、車いすの方は車いすを畳み、座席に座っていただかないと乗車できません』というものだった。

『そんな、彼は通路に前向きに、車いすに乗ったままいるのが一番安定して安全なんです』と訴えても『他のお客さんにも迷惑がかかるから...』と運転手は繰り返した。

私はバス内の乗客に『皆さん、運転手さんは「迷惑がかかる」と言ってますが、ご迷惑でしょうか? 彼はこのまま乗ったほうが一番安定するんです!』と訴えると、『いいよ、いいよ、そのまま乗れよ』などとお客さんが言って下さるなどもあった。しかし、その内、東京都の都営バス所轄部署から、『今の(車いすにのったままの)バス乗車を止めないと訴えます!』と恫喝?され、『そんなこと、できるものならやってみろ!』とケツをまくった。

そうは言ったもののそのバス乗車は翌日から止め、ほとぼりが冷めるまで、彼の車いすを長い時間押して通学したなどもあった。

また、ある時は彼と通った銭湯で、これから入ろうと彼の服を脱がせていると、『こんなヤツ、ここに連れてくるんじゃねえ!』と、背中に花柄の墨の絵が入った強面のお兄さんに凄まれ、『そ、それって、どういうことだ!』と、腹の底から勇気を振り絞り立ち向かったこともあった。その時は、強面のお兄さんが何となく引き下がってくれたから事なきを得たが、彼との共同生活では、それこそ色々なことがあった。


後日、彼に『何故、俺の部屋に転がり込んで、一緒に生活しようと思ったんだ?』と聞くと、『俺の介助をしてくれる人は大勢いたけれど、あの食事介助で、1つずつを俺に確かめ介助してくれたのはN君(私のこと)しかいなかった。それは、俺にとって、すごく大事なことだったんだ』と彼は言った。

「そうだったんだ...」 私は、この経験で、<介助をすることの意味>を教えられた。

少しボランティアに慣れると、多くの人がそれまでの経験から、<要介助者の口に運ぶ食事の順番や運ぶ量などを、介助者の判断で決める>ことが多い。これが「介助~非介助」の当たり前の暗黙のルール。

「それはおかしいでしょ?」 その当たり前の疑問に従い、私はこの40~50年の多くを、要介助の障害当事者たちと過ごした。


その当時、巷でよく流行り、私達も毎日のように聞いた井上陽水の「氷の世界」を含むアルバムを、今、聞いている。あの当時、あれだけのエネルギーとパトスを注ぎ、燃え尽きそうなほど燃えた時代が私にもあった。

それがザアー!と、ここでフラッシュバックする。

陽水は、今、その時代を呼び起こし、48年後の、<私>を揺さぶっている。

私のこの68年は何だったんだろう。そんなことすら、揺さぶられる。


この悲しみに、耐えたい......


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