2023年2月10日金曜日

高野山 六

 2023.02.10

 指が切れそうになる冷たさが、先程からずっと続いていた。

 関東以北がすごい大雪になり始めている今夕、心に迷うことが次第に大きくなり、堪らず御廟前にてまた瞑想した。始めて小一時間ほど経った時(時間は瞑想後に確認)、その痛みがいよいよ強く感じられるようになって、そのままでは瞑想にならないので今日はもう止めようと右腕を少し動かした時、突然<声>が聞こえた。


 『お前は...お前のままでいい

 「えっ」と思いその<声>に注意すると、続けてまた『お前は、お前のままで良い...

  「そのままでいいって、どういう自分のことでしょうか?」

 『それはお前自身がよく知っているはずだ』

 そのことをまた聞き返そうと思った時、頭の別のところでまた聞こえた。

 『何にも寄らず、何にも頼らず、何も構えず...


 こういう問答がやりとりされると、確かに<尤もなこと>ではあるが、自分が進むべき道が視えてくるような気がする。瞑想を終え停めた車まで戻ろうと参道に出ると、既に雨がパラパラ振り始めていた。その冷たい雨を全身に受けながら、凍った道を滑らないよう注意しつつ、ずっと考えた。


奥の院参道の杉の大株('23.2.10 4:00pm 右下写真共)

直径1m半超え













 「ありのままの自分で、寄らず、頼らず、構えず...」

 これは、5年前、自分を見知る人や縁故知人が誰もいず、今までの経歴もスキルも効かない和歌山に移り、やがて高野山に住むようになった私が、本来、採るべき基本中の基本の姿勢を説かれたに等しい。

 私は、移って働き始めた職場を通して、急速に様々な知り合いや親しい人たちができたが、何時しかその人たちに親しむ一方、頼る心情が強くなっていたのだろう。結果、様々なすれ違いや想いのズレも起こった。

 きっと、<自分>を見失ってきたのだろう。

 もう一度、原点に返って、自分の責任で最初からやり直すべきなのだと気付かせてくれた。そう思い直させてくれた。


 四国の歩き遍路を経て高野山に辿り着いた時、漠然と感じていたことがあった。

 四国をあちこち歩き回り、行き倒れたかつてのお遍路たちの骸が葬られる墓標や、果てない「職業遍路」の人たちの様子を見聞きしながら、(歩き)遍路は<現世>と<来世>の狭間を彷徨う<迷い人>、本気の<職業遍路>は歩き続けながら<現世>と<来世>の狭間に潜む<死への入口>を探し当てようとしている、と以前のブログ('22.6.30)にも書いた。

 同様に、間もなく70歳になる私は、残り人生、後10年だと覚悟している(もっと短いかもしれないが)。その意味では高野山は私にとって<最後の場>=<死に場所>といっていい。その死に場所での残り時間を考えると、これまでのように何かや誰かに寄ったり頼ったり、何かを構えて過ごしている暇はない。


  "行き果てて 辿り着きたる高野山 ここが死に場か 後生の郷へ"


 本性は今までの自分のままに、ただ、なるべく強欲を張らず、したいことはして、見栄もなく構えもせず、誰かに頼ろうと歪んだ<愛>を強いることも止め、残された時間と金と<體>と<氣>を、大事に使っていくことが望ましいのだろう。

 もう、あれやこれやを種々悩むことも止めよう。したいことを、したいように、できるやり方で、真面目にやるか! これには勿論、遊びも含まれるけれど、何でも一所懸命やろうとする昔からの私の<スタイル>は崩さず、貫こう。失敗していい。恥ずかしい様を晒しても、勘弁してもらおう。

 そんな風に、残り人生を過ごしていこう。


 入り乱れた雑念を、結論などないままに書き始めて、次第に姿をまとめ、このような<考え>に至る。私自身、<死に場所>というものにはもっとネガティブな印象を拭えなかったけれど、今はそれを素直に受け留め、考えられる。それは、良いことだよね。

 そう考えると、後10年は短い。

 今のままの暮らしをしていてはダメだ。アッという間に時間は過ぎる。最期になって、後悔することは止めよう。できるだけ、やりたいことをやろう。

 それが、今日の結論。お大師様、有難う。




2023年2月6日月曜日

高野山 伍

2023.02.06

 奥の院御廟か燈籠堂の屋根から滴り落ちる雪解けの水音が、忙しく御廟前に響いている。

 時折、御廟に参拝に来られた人々の足音や話し声が耳の遠くに、焼香台から漂う線香の香りが鼻腔に届く以外は、私の内に入ってくるものはない。御廟前の長椅子に座して、かれこれ一時間は経っている。

 御廟前で焼香し般若心経、ご宝号を唱えると、私は御廟前通路の燈籠堂壁際に備えられた長椅子の端に就く。そして、線香や蝋燭、仏前勤行集などが入った歩き遍路で用いる麻の頭陀袋を横に置き、脱いだ靴を椅子下に揃えると座禅を組む。背は直立するほどの角度ではなく、緩やかなれど筋は伸ばし、掌中には数珠と勤行集を軽く乗せ両親指を併せ、閉眼すると、瞑想に入る。

 昨日は時間なく、参拝客も行き来する昼前の時間から午後まで座ったが、できるだけ人通りがない夕方から夜、または早朝にかけて、今の時期は零下になる冷たい外気に包まれながら座るのが好きになった。歩き遍路で<無>になるように、御廟前での瞑想もまた私を<無心>にしてくれる。その<形>が、自分を<無>の世界へと導いてくれる。


 御廟前に伺う時は、私は必ず「一の橋」からと決めている。


奥の院参道の積雪で折れた樹木
 一の橋から5分10分進んだ所に駐車スペースがあるのでそこに車を停め、一の橋に戻って、一礼してから入領する。それが御廟への正式な入り口だからだ。ただ、昨日は大雪のため一の橋には「通行止め」の札がかかっていたが、私は失礼してそのロープをくぐった。

 そのため、全く誰もいない雪や氷層に覆われた参道を歩いて、ひたすら御廟を目指す。歩くと御廟までほぼ30分かかるその参道に入った時から、私の瞑想は始まっている。足場の悪さに気を遣いながらも、指先で数珠の一つ一つを送りながらひたすら歩いていると、悪戯に脳内を行き交っている雑念が次第に失われていく。

 気が付けば、御廟に入る橋の前まで来ていた。その橋でも一礼し、最深部の神聖な領域に入ると、次第に<自分>が視えてくるように感じる。

上写真とも昨日(2/5)昼前



 昨日は、不思議なことが起こった。

 上述した瞑想を始め暫くすると、閉じている左の眼から涙がゆっくり滴ってきた。

 歩き遍路の途中でもまま涙することがあるが、昨日は全くそうした感情の動きもなければ、眼は閉じているので吹きすさぶ風や異物が入ってくるなども勿論なく、考えてみても涙する理由がなかった。それでも、左眼から滴った涙が口元に届くと、何故か右眼からも滴り始め、咽喉内にも届いた液体に私は思わずむせった。

 思い当たる感情の乱れや外部からの刺激もないまま、自然に涙したことは初めてだった。



 『お前は何のために自分を振り返ろうというのか?』

  「それは、自分の罪の深さや愚かさを省みるためです」

 『省みて、どうしようと言うのだ?』

  「それは、愚かな自分を知り認め、これからどうしたら良いかを分かりたいからです」

 『分かってどうする?』

  「そ、それは...」

 『お前はこれから、何をどうしたいと言うのか?』

  「...!」

 

 御廟前に座って瞑想していると、時にお大師様(空海)のように自分に問いかけてくる<声>が聞こえてくる。そして、そのやりとりの途中で自分の答えに詰まる。その<答え>にあぐねていると、また<声>が聞こえ、私が子どもたちに行った<罪>のことや自分の歪んだ<愛>などにも問答が及ぶ。やがて、その<声>は言った。

 『平々凡々と生きよ。今、お前に与えられている<務め>を、きちんと果たせばいい。

  疎遠になっている子どもたちのことは、彼らから求められたら真摯に応えれば良い』


 <声>は、そのように私に語りかけ、前回はそこまでで終わった。

 昨日はそうしたやり取りは起こらずに、自分の気持ちが穏やかになったところで瞑想を終えた。



 高野山に来てからも、私にはそれなりに色々あった。

 首都圏のオープンな文化感に比べ確かに閉鎖的で、警戒されるのか、見知らぬ人に挨拶してもほぼ挨拶は返ってこない。同じ宗教都市のチベットラダック(都市レー)で、土地の人たちがどんな観光客と擦れ違ってもいつも必ず『ジュレー(英語のHelloと同義)』と返してくれた文化に比べると、大きな違いだ。

 それに、「密教」という特殊性があるからなのか、自分のことを余り明らかにしようとしない方も少なからずいらっしゃる。真言宗教の中枢であることで価値観が強固、私には多様性に欠ける印象も僅かながら拭えない。しかし、それはそれで、その地域が長く育んだ事情や特性に基づく故のことだろう。

 そうした高野山に戸惑い、感覚の違いに驚き、暮らし難さなどを感じつつも、これからも時間をかけて私はここに馴染んでいくことになる。それは、散々迷いながらも、私が高野山に行き着いた<所以>を自覚することで、予め定まっていたことのように思えた。

 そこに踏み込んだ話は、この次にしたい。




2023年2月5日日曜日

高野山 四

 2023.02.05

 『お前たちなんか、もういらない! 山に棄ててやる!』

 怯えて言葉も出ないまだ3,4歳頃の姉弟を強引に車に乗せ、私は郊外の山に向けて走り出した。原因が何であったか、今となっては全く覚えていない。でも、子どもたちの些細な我儘や反抗であっただろうことは間違いない。多分、何度か言い含めても私の言うことを全く聞かないことに、私の感情の堰が激しく壊れた結果だった。

 もう少し大きくなれば、そうした親の怒りを鎮める知恵もつくだろうが、その歳の子たちは『ゴメンナサイ...』と二三度言うのが精一杯だった。車内は皆静かなまま、車はひたすら山に向けて走った。私は何処に向かって車を走らせたかも覚えていない。ただ、1時間は走ったはずだった。怒りはその程度を過ぎないと治まらないからだった。

 そして、随分郊外の山間まで来て、子どもたちに車から降りるよう強く言った。子どもたちは怯えて降りるが、どうして良いか全く分からず二人で降ろされたその場で寄り添って固まり、私がどうするかをこわごわ見ている。

 私は子どもたちをそこに置き去りにする素振りを見せる。そうすることで、子どもたちが泣き叫びながら私に謝ることを期待したのだろうか。否、多分そうではない。仮に子どもたちがそうしたとしても、そうでなくても、私は子どもたちへのその<戒め>をしなければ、自分の感情を治められないからだった。

 車から降ろされ今にも取り残されようとする子どもたちの恐怖に満ちた顔をジッと見つめていると、ようやく私の怒りの底が崩壊し始める。「幼児虐待の最たるものだ!」と、もう一人の自分が囁く声が聞こえてくる。それは百も承知だった。それでも、そこまでしないと自分が治まらない。そして、怒りの核が大分揺らぎ出して初めて、子どもたちに取って点けたような説教をクドクドして、また『車に乗りなさい!』と指示し、やっと家に戻る。

 こんなことが一度ならず二、三度あった。


 権利擁護を標榜する福祉施設を運営する立場でありながら、自分の家庭においては時に我が子を虐待をしていた自分は、まさしく<人に非ず>としか言えない。

奥の院御廟への参道にて

 前回ブログで、私は愛着障害であると自覚している旨を書いた。その「愛着障害」や「愛着障害の克服」の著者、岡田尊司氏が言う通り、『対人関係や社会適応における生きづらさ、行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など人格の重要な部分、人生さえも左右する』障がいが自分にあることで、過去私が我が子たちに行った虐待を言い逃れるつもりはない。

 この<過去>を公開するには私なりに覚悟が必要だったが、<怒りの堰>をコントロールする術を持てなかったことを明らかにすることからしか、私の<振り返り>は始まらない。仕事や職場のことであれば極力感情移入を制し、事業運営の立場で自分を調整できる範囲もあったが、自分の家庭のこと、特に子どものことになると、自らの養育家庭に対するトラウマからか、感情は最終的に調整不能に陥った。

 しかし、郊外の山間で私に車から強引に降ろされ怯えていたあの<子どもたち>は、幼い頃父親の暴力に怯え震えていた<私>そのものだったんだと、今更ながら気が付く。どれほどの深い心の<傷>を子どもたちに与えてきたか。そのことも、何度も何度も振り返られる。父親のように明らかな暴力こそ振るわなかったが、子どもたちに精神的虐待を加えてきた自分は、<人非人>である。


 今考えると、私は自分の子どもを持てる自信がなかった。それは、経済的や生活的な理由からではなく、子どもを持つことで私と妻との時間が変質していくことが怖かったのだろうと思う。<二人だけの時間>がなくなるその根源となる子どもの存在は、その時の私にとって邪魔だったのかもしれない。勿論、子どもが産まれた時は嬉しく、二人目の子を産むため妻が実家に帰っていた時は、毎週のように数時間かけ実家に通うなどもした。それでも、そうした自分と怒りを抑えられない自分が混在していた。

 『何を甘えたこと言ってんだ!』とどれだけ厳しい叱責を受けようと、そうした鬱々とした私の気持ちが、子どもに対して異常な反発感情を引き起こしたのかもしれない。

 それを考えると、どんな言い方をしても、私は<親になれる資格がない>だけでなく、<家庭を持つ資格がない>ということに気付かされる。その結果として結婚離婚を繰り返し、少し前まで、そうした自分が行った陰惨な<過去>が何度も夢に出てきて、夜中によく目を覚ました。

 それらの<過去>の核質が何であるかを少しでも整理し、自分が今後どうすべきかを知るために、私は四国を歩き(遍路)始め、その過程で高野山に辿り着いた。そして今、少しずつその輪郭が見えてきたように感じている...。