2023.02.05
『お前たちなんか、もういらない! 山に棄ててやる!』
怯えて言葉も出ないまだ3,4歳頃の姉弟を強引に車に乗せ、私は郊外の山に向けて走り出した。原因が何であったか、今となっては全く覚えていない。でも、子どもたちの些細な我儘や反抗であっただろうことは間違いない。多分、何度か言い含めても私の言うことを全く聞かないことに、私の感情の堰が激しく壊れた結果だった。
もう少し大きくなれば、そうした親の怒りを鎮める知恵もつくだろうが、その歳の子たちは『ゴメンナサイ...』と二三度言うのが精一杯だった。車内は皆静かなまま、車はひたすら山に向けて走った。私は何処に向かって車を走らせたかも覚えていない。ただ、1時間は走ったはずだった。怒りはその程度を過ぎないと治まらないからだった。
そして、随分郊外の山間まで来て、子どもたちに車から降りるよう強く言った。子どもたちは怯えて降りるが、どうして良いか全く分からず二人で降ろされたその場で寄り添って固まり、私がどうするかをこわごわ見ている。
私は子どもたちをそこに置き去りにする素振りを見せる。そうすることで、子どもたちが泣き叫びながら私に謝ることを期待したのだろうか。否、多分そうではない。仮に子どもたちがそうしたとしても、そうでなくても、私は子どもたちへのその<戒め>をしなければ、自分の感情を治められないからだった。
車から降ろされ今にも取り残されようとする子どもたちの恐怖に満ちた顔をジッと見つめていると、ようやく私の怒りの底が崩壊し始める。「幼児虐待の最たるものだ!」と、もう一人の自分が囁く声が聞こえてくる。それは百も承知だった。それでも、そこまでしないと自分が治まらない。そして、怒りの核が大分揺らぎ出して初めて、子どもたちに取って点けたような説教をクドクドして、また『車に乗りなさい!』と指示し、やっと家に戻る。
こんなことが一度ならず二、三度あった。
権利擁護を標榜する福祉施設を運営する立場でありながら、自分の家庭においては時に我が子を虐待をしていた自分は、まさしく<人に非ず>としか言えない。
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| 奥の院御廟への参道にて |
前回ブログで、私は愛着障害であると自覚している旨を書いた。その「愛着障害」や「愛着障害の克服」の著者、岡田尊司氏が言う通り、『対人関係や社会適応における生きづらさ、行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など人格の重要な部分、人生さえも左右する』障がいが自分にあることで、過去私が我が子たちに行った虐待を言い逃れるつもりはない。
この<過去>を公開するには私なりに覚悟が必要だったが、<怒りの堰>をコントロールする術を持てなかったことを明らかにすることからしか、私の<振り返り>は始まらない。仕事や職場のことであれば極力感情移入を制し、事業運営の立場で自分を調整できる範囲もあったが、自分の家庭のこと、特に子どものことになると、自らの養育家庭に対するトラウマからか、感情は最終的に調整不能に陥った。
しかし、郊外の山間で私に車から強引に降ろされ怯えていたあの<子どもたち>は、幼い頃父親の暴力に怯え震えていた<私>そのものだったんだと、今更ながら気が付く。どれほどの深い心の<傷>を子どもたちに与えてきたか。そのことも、何度も何度も振り返られる。父親のように明らかな暴力こそ振るわなかったが、子どもたちに精神的虐待を加えてきた自分は、<人非人>である。
今考えると、私は自分の子どもを持てる自信がなかった。それは、経済的や生活的な理由からではなく、子どもを持つことで私と妻との時間が変質していくことが怖かったのだろうと思う。<二人だけの時間>がなくなるその根源となる子どもの存在は、その時の私にとって邪魔だったのかもしれない。勿論、子どもが産まれた時は嬉しく、二人目の子を産むため妻が実家に帰っていた時は、毎週のように数時間かけ実家に通うなどもした。それでも、そうした自分と怒りを抑えられない自分が混在していた。
『何を甘えたこと言ってんだ!』とどれだけ厳しい叱責を受けようと、そうした鬱々とした私の気持ちが、子どもに対して異常な反発感情を引き起こしたのかもしれない。
それを考えると、どんな言い方をしても、私は<親になれる資格がない>だけでなく、<家庭を持つ資格がない>ということに気付かされる。その結果として結婚離婚を繰り返し、少し前まで、そうした自分が行った陰惨な<過去>が何度も夢に出てきて、夜中によく目を覚ました。
それらの<過去>の核質が何であるかを少しでも整理し、自分が今後どうすべきかを知るために、私は四国を歩き(遍路)始め、その過程で高野山に辿り着いた。そして今、少しずつその輪郭が見えてきたように感じている...。

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