2023年2月6日月曜日

高野山 伍

2023.02.06

 奥の院御廟か燈籠堂の屋根から滴り落ちる雪解けの水音が、忙しく御廟前に響いている。

 時折、御廟に参拝に来られた人々の足音や話し声が耳の遠くに、焼香台から漂う線香の香りが鼻腔に届く以外は、私の内に入ってくるものはない。御廟前の長椅子に座して、かれこれ一時間は経っている。

 御廟前で焼香し般若心経、ご宝号を唱えると、私は御廟前通路の燈籠堂壁際に備えられた長椅子の端に就く。そして、線香や蝋燭、仏前勤行集などが入った歩き遍路で用いる麻の頭陀袋を横に置き、脱いだ靴を椅子下に揃えると座禅を組む。背は直立するほどの角度ではなく、緩やかなれど筋は伸ばし、掌中には数珠と勤行集を軽く乗せ両親指を併せ、閉眼すると、瞑想に入る。

 昨日は時間なく、参拝客も行き来する昼前の時間から午後まで座ったが、できるだけ人通りがない夕方から夜、または早朝にかけて、今の時期は零下になる冷たい外気に包まれながら座るのが好きになった。歩き遍路で<無>になるように、御廟前での瞑想もまた私を<無心>にしてくれる。その<形>が、自分を<無>の世界へと導いてくれる。


 御廟前に伺う時は、私は必ず「一の橋」からと決めている。


奥の院参道の積雪で折れた樹木
 一の橋から5分10分進んだ所に駐車スペースがあるのでそこに車を停め、一の橋に戻って、一礼してから入領する。それが御廟への正式な入り口だからだ。ただ、昨日は大雪のため一の橋には「通行止め」の札がかかっていたが、私は失礼してそのロープをくぐった。

 そのため、全く誰もいない雪や氷層に覆われた参道を歩いて、ひたすら御廟を目指す。歩くと御廟までほぼ30分かかるその参道に入った時から、私の瞑想は始まっている。足場の悪さに気を遣いながらも、指先で数珠の一つ一つを送りながらひたすら歩いていると、悪戯に脳内を行き交っている雑念が次第に失われていく。

 気が付けば、御廟に入る橋の前まで来ていた。その橋でも一礼し、最深部の神聖な領域に入ると、次第に<自分>が視えてくるように感じる。

上写真とも昨日(2/5)昼前



 昨日は、不思議なことが起こった。

 上述した瞑想を始め暫くすると、閉じている左の眼から涙がゆっくり滴ってきた。

 歩き遍路の途中でもまま涙することがあるが、昨日は全くそうした感情の動きもなければ、眼は閉じているので吹きすさぶ風や異物が入ってくるなども勿論なく、考えてみても涙する理由がなかった。それでも、左眼から滴った涙が口元に届くと、何故か右眼からも滴り始め、咽喉内にも届いた液体に私は思わずむせった。

 思い当たる感情の乱れや外部からの刺激もないまま、自然に涙したことは初めてだった。



 『お前は何のために自分を振り返ろうというのか?』

  「それは、自分の罪の深さや愚かさを省みるためです」

 『省みて、どうしようと言うのだ?』

  「それは、愚かな自分を知り認め、これからどうしたら良いかを分かりたいからです」

 『分かってどうする?』

  「そ、それは...」

 『お前はこれから、何をどうしたいと言うのか?』

  「...!」

 

 御廟前に座って瞑想していると、時にお大師様(空海)のように自分に問いかけてくる<声>が聞こえてくる。そして、そのやりとりの途中で自分の答えに詰まる。その<答え>にあぐねていると、また<声>が聞こえ、私が子どもたちに行った<罪>のことや自分の歪んだ<愛>などにも問答が及ぶ。やがて、その<声>は言った。

 『平々凡々と生きよ。今、お前に与えられている<務め>を、きちんと果たせばいい。

  疎遠になっている子どもたちのことは、彼らから求められたら真摯に応えれば良い』


 <声>は、そのように私に語りかけ、前回はそこまでで終わった。

 昨日はそうしたやり取りは起こらずに、自分の気持ちが穏やかになったところで瞑想を終えた。



 高野山に来てからも、私にはそれなりに色々あった。

 首都圏のオープンな文化感に比べ確かに閉鎖的で、警戒されるのか、見知らぬ人に挨拶してもほぼ挨拶は返ってこない。同じ宗教都市のチベットラダック(都市レー)で、土地の人たちがどんな観光客と擦れ違ってもいつも必ず『ジュレー(英語のHelloと同義)』と返してくれた文化に比べると、大きな違いだ。

 それに、「密教」という特殊性があるからなのか、自分のことを余り明らかにしようとしない方も少なからずいらっしゃる。真言宗教の中枢であることで価値観が強固、私には多様性に欠ける印象も僅かながら拭えない。しかし、それはそれで、その地域が長く育んだ事情や特性に基づく故のことだろう。

 そうした高野山に戸惑い、感覚の違いに驚き、暮らし難さなどを感じつつも、これからも時間をかけて私はここに馴染んでいくことになる。それは、散々迷いながらも、私が高野山に行き着いた<所以>を自覚することで、予め定まっていたことのように思えた。

 そこに踏み込んだ話は、この次にしたい。




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