2023年12月19日火曜日

 2023.12.19

 「泣くな! こうやくん」最後のブログです。

 コロナ対策の規制も実質的に大分緩和され、町には観光バスや来客者がまたかなり多くなってきました。

 そのため、私の瞑想も人目を憚り御廟前ではなく自室で静かにする、1年以上前に頼まれ始めた某寺の庭掃除(自称「庭(掃除)師」)も忙しくなってきた、暫くなかった英会話を外国人観光客相手にする機会が増えた等々、私の中での変化も多少起こってきました。

 ただ、その一方で生起しだした幾つかの問題も大きくなって、お知らせした通り、本ブログを止めることにしました。今までご覧くださった方々には、厚くお礼申し上げます。

 有難うございました。

 

 尚、改めて、新しいブログを開設しました。興味ある方にはご覧いただければ幸いです_

 https://animatist.blogspot.com/

2023年12月13日水曜日

2023.12.13

 思うところあり、これまでの数々の発信を仕切り直すことにいたしました。

 改めて、目下、新ブログを作成中です。近い内にURLを公開いたしますので、改めてご覧いただけると幸いです。その時に、また。 遍路人より

 

2023年2月10日金曜日

高野山 六

 2023.02.10

 指が切れそうになる冷たさが、先程からずっと続いていた。

 関東以北がすごい大雪になり始めている今夕、心に迷うことが次第に大きくなり、堪らず御廟前にてまた瞑想した。始めて小一時間ほど経った時(時間は瞑想後に確認)、その痛みがいよいよ強く感じられるようになって、そのままでは瞑想にならないので今日はもう止めようと右腕を少し動かした時、突然<声>が聞こえた。


 『お前は...お前のままでいい

 「えっ」と思いその<声>に注意すると、続けてまた『お前は、お前のままで良い...

  「そのままでいいって、どういう自分のことでしょうか?」

 『それはお前自身がよく知っているはずだ』

 そのことをまた聞き返そうと思った時、頭の別のところでまた聞こえた。

 『何にも寄らず、何にも頼らず、何も構えず...


 こういう問答がやりとりされると、確かに<尤もなこと>ではあるが、自分が進むべき道が視えてくるような気がする。瞑想を終え停めた車まで戻ろうと参道に出ると、既に雨がパラパラ振り始めていた。その冷たい雨を全身に受けながら、凍った道を滑らないよう注意しつつ、ずっと考えた。


奥の院参道の杉の大株('23.2.10 4:00pm 右下写真共)

直径1m半超え













 「ありのままの自分で、寄らず、頼らず、構えず...」

 これは、5年前、自分を見知る人や縁故知人が誰もいず、今までの経歴もスキルも効かない和歌山に移り、やがて高野山に住むようになった私が、本来、採るべき基本中の基本の姿勢を説かれたに等しい。

 私は、移って働き始めた職場を通して、急速に様々な知り合いや親しい人たちができたが、何時しかその人たちに親しむ一方、頼る心情が強くなっていたのだろう。結果、様々なすれ違いや想いのズレも起こった。

 きっと、<自分>を見失ってきたのだろう。

 もう一度、原点に返って、自分の責任で最初からやり直すべきなのだと気付かせてくれた。そう思い直させてくれた。


 四国の歩き遍路を経て高野山に辿り着いた時、漠然と感じていたことがあった。

 四国をあちこち歩き回り、行き倒れたかつてのお遍路たちの骸が葬られる墓標や、果てない「職業遍路」の人たちの様子を見聞きしながら、(歩き)遍路は<現世>と<来世>の狭間を彷徨う<迷い人>、本気の<職業遍路>は歩き続けながら<現世>と<来世>の狭間に潜む<死への入口>を探し当てようとしている、と以前のブログ('22.6.30)にも書いた。

 同様に、間もなく70歳になる私は、残り人生、後10年だと覚悟している(もっと短いかもしれないが)。その意味では高野山は私にとって<最後の場>=<死に場所>といっていい。その死に場所での残り時間を考えると、これまでのように何かや誰かに寄ったり頼ったり、何かを構えて過ごしている暇はない。


  "行き果てて 辿り着きたる高野山 ここが死に場か 後生の郷へ"


 本性は今までの自分のままに、ただ、なるべく強欲を張らず、したいことはして、見栄もなく構えもせず、誰かに頼ろうと歪んだ<愛>を強いることも止め、残された時間と金と<體>と<氣>を、大事に使っていくことが望ましいのだろう。

 もう、あれやこれやを種々悩むことも止めよう。したいことを、したいように、できるやり方で、真面目にやるか! これには勿論、遊びも含まれるけれど、何でも一所懸命やろうとする昔からの私の<スタイル>は崩さず、貫こう。失敗していい。恥ずかしい様を晒しても、勘弁してもらおう。

 そんな風に、残り人生を過ごしていこう。


 入り乱れた雑念を、結論などないままに書き始めて、次第に姿をまとめ、このような<考え>に至る。私自身、<死に場所>というものにはもっとネガティブな印象を拭えなかったけれど、今はそれを素直に受け留め、考えられる。それは、良いことだよね。

 そう考えると、後10年は短い。

 今のままの暮らしをしていてはダメだ。アッという間に時間は過ぎる。最期になって、後悔することは止めよう。できるだけ、やりたいことをやろう。

 それが、今日の結論。お大師様、有難う。




2023年2月6日月曜日

高野山 伍

2023.02.06

 奥の院御廟か燈籠堂の屋根から滴り落ちる雪解けの水音が、忙しく御廟前に響いている。

 時折、御廟に参拝に来られた人々の足音や話し声が耳の遠くに、焼香台から漂う線香の香りが鼻腔に届く以外は、私の内に入ってくるものはない。御廟前の長椅子に座して、かれこれ一時間は経っている。

 御廟前で焼香し般若心経、ご宝号を唱えると、私は御廟前通路の燈籠堂壁際に備えられた長椅子の端に就く。そして、線香や蝋燭、仏前勤行集などが入った歩き遍路で用いる麻の頭陀袋を横に置き、脱いだ靴を椅子下に揃えると座禅を組む。背は直立するほどの角度ではなく、緩やかなれど筋は伸ばし、掌中には数珠と勤行集を軽く乗せ両親指を併せ、閉眼すると、瞑想に入る。

 昨日は時間なく、参拝客も行き来する昼前の時間から午後まで座ったが、できるだけ人通りがない夕方から夜、または早朝にかけて、今の時期は零下になる冷たい外気に包まれながら座るのが好きになった。歩き遍路で<無>になるように、御廟前での瞑想もまた私を<無心>にしてくれる。その<形>が、自分を<無>の世界へと導いてくれる。


 御廟前に伺う時は、私は必ず「一の橋」からと決めている。


奥の院参道の積雪で折れた樹木
 一の橋から5分10分進んだ所に駐車スペースがあるのでそこに車を停め、一の橋に戻って、一礼してから入領する。それが御廟への正式な入り口だからだ。ただ、昨日は大雪のため一の橋には「通行止め」の札がかかっていたが、私は失礼してそのロープをくぐった。

 そのため、全く誰もいない雪や氷層に覆われた参道を歩いて、ひたすら御廟を目指す。歩くと御廟までほぼ30分かかるその参道に入った時から、私の瞑想は始まっている。足場の悪さに気を遣いながらも、指先で数珠の一つ一つを送りながらひたすら歩いていると、悪戯に脳内を行き交っている雑念が次第に失われていく。

 気が付けば、御廟に入る橋の前まで来ていた。その橋でも一礼し、最深部の神聖な領域に入ると、次第に<自分>が視えてくるように感じる。

上写真とも昨日(2/5)昼前



 昨日は、不思議なことが起こった。

 上述した瞑想を始め暫くすると、閉じている左の眼から涙がゆっくり滴ってきた。

 歩き遍路の途中でもまま涙することがあるが、昨日は全くそうした感情の動きもなければ、眼は閉じているので吹きすさぶ風や異物が入ってくるなども勿論なく、考えてみても涙する理由がなかった。それでも、左眼から滴った涙が口元に届くと、何故か右眼からも滴り始め、咽喉内にも届いた液体に私は思わずむせった。

 思い当たる感情の乱れや外部からの刺激もないまま、自然に涙したことは初めてだった。



 『お前は何のために自分を振り返ろうというのか?』

  「それは、自分の罪の深さや愚かさを省みるためです」

 『省みて、どうしようと言うのだ?』

  「それは、愚かな自分を知り認め、これからどうしたら良いかを分かりたいからです」

 『分かってどうする?』

  「そ、それは...」

 『お前はこれから、何をどうしたいと言うのか?』

  「...!」

 

 御廟前に座って瞑想していると、時にお大師様(空海)のように自分に問いかけてくる<声>が聞こえてくる。そして、そのやりとりの途中で自分の答えに詰まる。その<答え>にあぐねていると、また<声>が聞こえ、私が子どもたちに行った<罪>のことや自分の歪んだ<愛>などにも問答が及ぶ。やがて、その<声>は言った。

 『平々凡々と生きよ。今、お前に与えられている<務め>を、きちんと果たせばいい。

  疎遠になっている子どもたちのことは、彼らから求められたら真摯に応えれば良い』


 <声>は、そのように私に語りかけ、前回はそこまでで終わった。

 昨日はそうしたやり取りは起こらずに、自分の気持ちが穏やかになったところで瞑想を終えた。



 高野山に来てからも、私にはそれなりに色々あった。

 首都圏のオープンな文化感に比べ確かに閉鎖的で、警戒されるのか、見知らぬ人に挨拶してもほぼ挨拶は返ってこない。同じ宗教都市のチベットラダック(都市レー)で、土地の人たちがどんな観光客と擦れ違ってもいつも必ず『ジュレー(英語のHelloと同義)』と返してくれた文化に比べると、大きな違いだ。

 それに、「密教」という特殊性があるからなのか、自分のことを余り明らかにしようとしない方も少なからずいらっしゃる。真言宗教の中枢であることで価値観が強固、私には多様性に欠ける印象も僅かながら拭えない。しかし、それはそれで、その地域が長く育んだ事情や特性に基づく故のことだろう。

 そうした高野山に戸惑い、感覚の違いに驚き、暮らし難さなどを感じつつも、これからも時間をかけて私はここに馴染んでいくことになる。それは、散々迷いながらも、私が高野山に行き着いた<所以>を自覚することで、予め定まっていたことのように思えた。

 そこに踏み込んだ話は、この次にしたい。




2023年2月5日日曜日

高野山 四

 2023.02.05

 『お前たちなんか、もういらない! 山に棄ててやる!』

 怯えて言葉も出ないまだ3,4歳頃の姉弟を強引に車に乗せ、私は郊外の山に向けて走り出した。原因が何であったか、今となっては全く覚えていない。でも、子どもたちの些細な我儘や反抗であっただろうことは間違いない。多分、何度か言い含めても私の言うことを全く聞かないことに、私の感情の堰が激しく壊れた結果だった。

 もう少し大きくなれば、そうした親の怒りを鎮める知恵もつくだろうが、その歳の子たちは『ゴメンナサイ...』と二三度言うのが精一杯だった。車内は皆静かなまま、車はひたすら山に向けて走った。私は何処に向かって車を走らせたかも覚えていない。ただ、1時間は走ったはずだった。怒りはその程度を過ぎないと治まらないからだった。

 そして、随分郊外の山間まで来て、子どもたちに車から降りるよう強く言った。子どもたちは怯えて降りるが、どうして良いか全く分からず二人で降ろされたその場で寄り添って固まり、私がどうするかをこわごわ見ている。

 私は子どもたちをそこに置き去りにする素振りを見せる。そうすることで、子どもたちが泣き叫びながら私に謝ることを期待したのだろうか。否、多分そうではない。仮に子どもたちがそうしたとしても、そうでなくても、私は子どもたちへのその<戒め>をしなければ、自分の感情を治められないからだった。

 車から降ろされ今にも取り残されようとする子どもたちの恐怖に満ちた顔をジッと見つめていると、ようやく私の怒りの底が崩壊し始める。「幼児虐待の最たるものだ!」と、もう一人の自分が囁く声が聞こえてくる。それは百も承知だった。それでも、そこまでしないと自分が治まらない。そして、怒りの核が大分揺らぎ出して初めて、子どもたちに取って点けたような説教をクドクドして、また『車に乗りなさい!』と指示し、やっと家に戻る。

 こんなことが一度ならず二、三度あった。


 権利擁護を標榜する福祉施設を運営する立場でありながら、自分の家庭においては時に我が子を虐待をしていた自分は、まさしく<人に非ず>としか言えない。

奥の院御廟への参道にて

 前回ブログで、私は愛着障害であると自覚している旨を書いた。その「愛着障害」や「愛着障害の克服」の著者、岡田尊司氏が言う通り、『対人関係や社会適応における生きづらさ、行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など人格の重要な部分、人生さえも左右する』障がいが自分にあることで、過去私が我が子たちに行った虐待を言い逃れるつもりはない。

 この<過去>を公開するには私なりに覚悟が必要だったが、<怒りの堰>をコントロールする術を持てなかったことを明らかにすることからしか、私の<振り返り>は始まらない。仕事や職場のことであれば極力感情移入を制し、事業運営の立場で自分を調整できる範囲もあったが、自分の家庭のこと、特に子どものことになると、自らの養育家庭に対するトラウマからか、感情は最終的に調整不能に陥った。

 しかし、郊外の山間で私に車から強引に降ろされ怯えていたあの<子どもたち>は、幼い頃父親の暴力に怯え震えていた<私>そのものだったんだと、今更ながら気が付く。どれほどの深い心の<傷>を子どもたちに与えてきたか。そのことも、何度も何度も振り返られる。父親のように明らかな暴力こそ振るわなかったが、子どもたちに精神的虐待を加えてきた自分は、<人非人>である。


 今考えると、私は自分の子どもを持てる自信がなかった。それは、経済的や生活的な理由からではなく、子どもを持つことで私と妻との時間が変質していくことが怖かったのだろうと思う。<二人だけの時間>がなくなるその根源となる子どもの存在は、その時の私にとって邪魔だったのかもしれない。勿論、子どもが産まれた時は嬉しく、二人目の子を産むため妻が実家に帰っていた時は、毎週のように数時間かけ実家に通うなどもした。それでも、そうした自分と怒りを抑えられない自分が混在していた。

 『何を甘えたこと言ってんだ!』とどれだけ厳しい叱責を受けようと、そうした鬱々とした私の気持ちが、子どもに対して異常な反発感情を引き起こしたのかもしれない。

 それを考えると、どんな言い方をしても、私は<親になれる資格がない>だけでなく、<家庭を持つ資格がない>ということに気付かされる。その結果として結婚離婚を繰り返し、少し前まで、そうした自分が行った陰惨な<過去>が何度も夢に出てきて、夜中によく目を覚ました。

 それらの<過去>の核質が何であるかを少しでも整理し、自分が今後どうすべきかを知るために、私は四国を歩き(遍路)始め、その過程で高野山に辿り着いた。そして今、少しずつその輪郭が見えてきたように感じている...。

 



2023年1月16日月曜日

高野山 参

 2023.01.16

 『アンポ~粉砕! 闘争、ショーリ!』

 53,4年前、ノンセクトラジカル(無党派の新左翼系グループ)の象徴と考えられていた銀ヘル(銀色にスプレーされたヘルメット)を被り、手には必要ないのに竹竿を握って、全共闘(全学共闘会議)の何たるかもよく分からないまま、私は高校の校舎内を友人数名と練り歩いた。さすがに、授業中にそれをしていたら当時でも問題になったろうが、放課後、サークル活動をしている生徒だけが残っていた校舎内だったので、教師たちも大目に見たということだろうか...。


時事通信社1969.01.18写真より
 世の中は、70年安保闘争(1970年で期限が切れ自動延長となる「日米安全保障条約」を阻止し、ベトナム反戦等を掲げる、1960年代後半の左翼系の社会運動)の真っ盛り。あの「東大安田講堂事件(東京大学本郷キャンパス安田講堂を新左翼系学生が籠城占拠。排除しようとする機動隊との間で熾烈な抗争となった)」も、私が高校1年の時に起こった。講堂に立て籠もった学生たちは屋上から次々と火炎瓶を投げ投石し、下にいる機動隊は強烈な放水や地上・上空からの催涙弾攻撃で応戦した。その一部始終は日本全国にテレビで生中継され、国中が騒然となった。

 時代は、そういう状況だった。


 私が産まれ育った長野県(長野市)は「教育県」を自負していて、当時は「信濃教育会(学校教員の資質向上を目的とした職能団体)」の活動がとても活発であった。特に、私が小学校5年生から転入し上がった中学校は国立大学の付属校であったせいか、文部省指定の教科書は買わされたが、授業はほぼ教員たちが毎回自主作成したプリントや選定した書物などを用いた、極めて自主独立性の高い画期的な教育が行われた。

 私が小学校6年か中学に入った頃、その教職員たちの労働組合である「信濃教育教組」は、全県下を対象に「教育研究集会」を開催した。教職員たちが会議をする傍ら、同時に参集した県下の生徒代表たちも、自主的な討論などを行った。その場に私も参加したが、数十名の生徒たちと校内規則や生徒会活動などを遅くまで話し合い、集会後も文通などして交流を続けた。

 そうした経験などもあり、私は高校に進むと、制服自由化のため全校生徒が参加する自主集会を教師公認で設けたり、前述した<全共闘かぶれ>行動、時折、県内外の政治集会やデモにも顔を出すなど、政治的、社会的な活動に憧れるような時代を過ごした。


 しかし、物心ついてから小学生半ばに至る頃には、私は自分の家庭が時としてかなり荒れることを怯える少年でもあった。それは、私の父親が短気で自分本位な性格の上、放蕩の末に「別宅」を作るなど、家庭を顧みないことが原因だった。その「別宅」から父親がたまに帰ってきては、何かにつけて母親や子どもたちをすぐ怒り、殴る、激すると刃物を持って外まで追いかけ回すなどを続けた。

 それを怖れ、子どもたちは父親が帰ってきても自室に潜み顔を合わせないと、その態度が気に食わないとまた怒り、血を見る暴力が起こることもままあった。

 父親の家業は祖父から受け継いだ文房具卸商だったが、1955年からの「高度経済成長」期に乗じ市の新庁舎のオフィス家具類装備を一手に受託したり、県内に複数支店を設ける、住居・店舗一体型の3階建てビルを建設するなど、一時はかなり栄えて裕福だった。そのため、私が幼い頃は、買い求めた高級な大型国産車で家族温泉旅行や遊びに出かけたり、他の贅を尽くすなども確かにあった。

 しかし、家庭の内情は、<悲惨>の一字だった。


 私は随分小さい時から、これだけ荒れる家庭をずっと続け、父親と別れようとしない母親に対しても、いつしか憤りを感じるようになっていた。今考えると、母にしてみれば、家業は手伝っても手に職がない自分では子どもたちを養っていけないと、ひたすら暴力的な父に耐えていたのかもしれないが、幼い私にはそうした<悲惨さ>を強いる母親は、時として父親の共犯者のようにすら映った。

 何れにせよ、そうした父親の影響で各自は籠りがちバラバラになって、母親や他兄弟姉妹たちとも良好な家族関係を営めなくなった幼い私たちは、<家族・家庭の愛情>というものと疎遠に育った。そのため、そうした養育期を過ごして大人になり様々な遍歴を経た私は、自分は<愛情>を失った存在なのかもしれないと思うようになった。


 『人が抱える悩みはさまざまである。うつ、不安・緊張、対人関係の問題、依存症、過食、気分の波、不注意、育児の悩み、恋愛問題、不倫、離婚、非婚、セックスレス、DVや夫婦関係の悩み、心の傷、子どもの不登校、ひきこもり、発達の課題、非行.....。ところが、これらすべてに共通する原因となり得る問題として、その関連が指摘されているものがある。それが「不安定な愛着」である。

 愛着とは、母親との関係によって、その基礎が作られる絆だが、それは他の人との関係に適用され、また修正されていく。愛着は対人関係の土台となるだけでなく、安心感の土台となって、その人を守っている。(中略)愛着が安定している人は、他の点で不利なことがあっても、それを撥ね除けて、幸福や安定した生活を手に入れやすい。しかし、不幸にして不安定な愛着しか育めなかった人は、安心感においても、対人関係や社会適応においても、生きづらさを抱えやすい。(中略)

 愛着は、後天的に身につけたものであるにもかかわらず、まるで生まれもった遺伝子のように、その人の行動や情緒的な反応、ストレスへの耐性など、人格の重要な部分を左右し、結果的に人生さえも左右する。

 ただ、幸いなことに、遺伝子とは違って、愛着は、ある程度可塑性をもつ。成人した後でさえ、不安定だった愛着が安定したものに変化することもあるし、その逆の場合もある。愛着が、幸福や社会適応に極めて重要だとすると、愛着が安定したものとなることは、人生を幸運なものにも不運なものにもする重大な決定要因だといえる(岡田尊司著「愛着障害の克服」"はじめに"から引用)』                                                                                    

 

 私が過去三度壊した家庭の有り様を振り返ると、自分の<愛情>というものが如何に歪なものであるかを認めざるを得ない。多分、私は結婚して一緒になった伴侶に、自分の<家庭>に対する<想い>や<理想像>を強く押し付けてきた。

 象徴的には、「結婚とは男女二人の結び付きなので、各々の<家(両親)>や親族などは関係ない。夫婦二人が世界を作るだけで充分」と考えた。そのため、妻の実家に行くことは余り好まなかった(土台、私には実家がない)し、ペアの男女がいれば、極論すると子どもさえいらない、という感覚が強かった。

大学時代

 「妻には自分だけを、時として自分たちの子どもよりも<自分>を見ていてほしい」という、偏狭で自己中心の<愛>を求めた。また、「自分の友人たちに妻を紹介することはあっても、妻の友人たちを殆ど知らない」「私が行きたい所にはよく連れ回したが、妻が行きたい所にどれほど行ったか分からない」「特に若い頃は妻のすぐ傍に始終いたがり、妻が自由にできる時間は余りなかった」等々、数え上げたらキリがない。

 それが、ある時、妻に『私は子どもが一番大事だから...』と言われ、改めて愕然とした。そこには産む性としての女と、その一部を司るだけの男の生理的な違いはあるかもしれない。

 しかし、「どれだけ無理難題を強いても、最後まで自分に寄り添い続けてくれる<愛>を求める」という歪な<愛情渇望>が、自分の中に永々と眠っている。それは、母親をも疎み、得られなかった(と思っている)母の<愛=絶対無二で裏切られない愛>を、代償的に妻に求めたということなのかもしれない。

 それやこれやが、「愛着障害」と言われる領域に属した心象であることを、私は数年前にようやく知った。それにきちんと向き合い、自分を<総括>することが、本当の<遺言>になっていくプロセスだと信じる。




2023年1月11日水曜日

高野山 弐

 2023.01.11

 四国札所12番焼山寺は、標高938m焼山寺山の八合目辺りにある奥深い山寺である。

焼山寺手前の遍路道(岩層)
 その焼山寺山は、頂上南方約2.5kmに「ふなと岩断層」と呼ばれる岩質を有する岩山で、藤井寺からの登り山路は勿論、13番大日寺に続く下り路もほぼ岩だらけである。
 いわば、岩層の上に堆積した土塁とそれに植生する樹木、草類、僅かな苔などが表面を覆っているが、風雨に晒される箇所は岩質がそのまま剥き出しになっている。

 それも、大小構わぬ大きさの岩が遍路道のあちこち、または道を塞ぐように露出しているので、所々雪まみれではあったが、雨の日にだけは歩きたくない路(滑る滑る!)の典型である。


 私は、5年前のあの時のように、その山路をひたすら金剛杖を突きながら登っていた。

 あの時、何を考え、何に悲しくて涙したかをしっかり思い出しながら、でも、今回もまた頬が涙で濡れた。勿論、登る苦しさのためではなく、かと言って5年前に感傷的になったからでもなくて、それは、多分、今再び路を歩けること、うまく言えないが、自分が改めてこの路に戻れ、ここをゼイゼイ言いながら登られることそのものが、<有り難い>と実感した。

焼山寺参道(右山上の札所に通じる)
 相変わらず、10歩程登っては一息付きながらも、この険しい山路を何とか登れる身体が今も維持できていること、この険しい山路を再び登ろうとする気力がまだあること、この険しい山路を歩いて灰色の土や枯れた樹木が生き生き凛々しく見えること、この険しい山路にまた戻って来られた暮らしの余裕を得られていること、この険しい山路が今も遍路道として残され自分も歩くことができること等々、それらの全てが有り難く感じられたと思う。

 今回私が歩いた路は、そんな<想い>で満たされていた。


 以前もブログで書いたが、私にとって札所を訪ねることは、それ自体が目的ではない。札所と札所を繋ぐ遍路道で、頭を行き交う愚考のあれこれや、それらが過ぎると次第に考えることすら無意味で<無>にのめり込んでいく。そこには、不思議と<抵抗>も<焦り>も<不安>もない。これが最も自然だと感じられる。そういう<歩き>を求めて、私は遍路道を辿っているのだと思う。ところが、今回のお遍路では、今までにないトラブルが起きた。


 お遍路出発前、大晦日の週、高野山では大雪、小雪が何日か続いた。軽く10cm以上は積もった箇所を雪かきしても、その2時間後には同じ所に4~5cmも雪が積もる勢いで、私は仕事でお寺の玄関、門前などを何度も雪かきした後、帰ってからも住まう団地のあちこちを雪かきしていた。

 広い舗装路に積もった雪かきと違い、狭い砂利道や石畳の上は雪をかいたシャベルは少しも滑ってくれず、多量の雪をすくう毎に持ち上げ、邪魔にならない所に放る動作を繰り返さねばならなかった。それを数時間も続けると、思った以上に身体や腰に負担がかかっていた。

焼山寺から大日寺への路

 登り始めて2時間ほど経った頃だったろうか。過去には起こらなかった右太腿の上部が妙に突っ張るようになった。それは焼山寺を打ち終える頃にははっきりとした痛みとなり、考えてみると「そうか、雪かきのせいか」と原因は理解できた。しかし、歩くには結構不便になり、時折、手で叩いたり揉みほぐすなどして歩いた。


 しかし、極めつけは、焼山寺から大日寺に下る、大分民家に近づいてきた斜面で起こった。

 横に鉄の手摺りが付いた、近所の人も通りそうな狭い砂利舗装の急坂路面は、盛り上がった雪氷でガチガチに凍っていた。私はしっかり手摺りを掴み恐る恐る斜面を降りたが、次の瞬間、砂利の突起でよく見えなかった薄い氷上を踏み出した右足がツルッと滑った。右足にはグッと力を込めたが、ザックの重さで前に転倒しないよう重心が後ろにかかり、左脚は「へ」の字に開いて、膝からガツンと地に落ちた。

 中学生の頃、やはり雪に埋もれた道の陥没に左足が落ち、膝を強く反対に捻った。歳を取りそれは正座屈曲を困難にしたが、今回はその左膝と同時にバランスを取ろうと捻った腰も強く圧迫され、大きな衝撃を受けた。転んだ瞬間、隣の木にいたカラスに『カッ、カッ、カッ...』と低い声で笑われたが、私は暫く動けなかった。

 左膝より腰の痛みは深刻になり、元旦予約した宿に着く頃には、腰の左側は角度によってかなり鋭く痛むようになった。それでも治療などを受けられる見込みはなく、熱めの風呂で温め、回復を待つしかなかった。腰の痛みは翌日後も続いたが、身体の角度に留意して歩き続けた。


 今回は、札所11番藤井寺から17番井戸寺まで歩いている。12番以降17番までの札所は比較的近在するため、元日に泊まった宿から1日で歩ける距離だった。しかし、17番を打ち終わる頃には捻った腰の痛みは寒さもあり限界に近付き、付近の宿に素泊まりで潜り込んだ。お遍路行程では、その後、11番藤井寺前に停めた車まで電車で戻り、車に乗って18番恩山寺を打ち終え、区切りとした。恩山寺を打ち終えた後、やはり腰の痛みは続いていたので、徳島駅前のホテルに宿を取り、翌日、フェリーで和歌山に帰ってきた。

 今回のお遍路では、上記のように腰を痛めたことで、今まで殆ど気を配らなかった自分の身体について、改めて考えさせられることになった。


 私はこの3月で70歳になる。この歳になるまで、1ヶ月以上寝ていなければならなかったことは、左大腿骨骨折(小学校1年時、交通事故)、鼻中隔修復(36,7歳頃)、急性肝炎(39歳時、インドにて)による入院の3回だけである。他にも小さな外科手術や短期入院などは幾つかあったが、幸いにも身体・内臓等機能が著しく減失するような事態は経験していない。

 仮に、私に著しい身体・内部障害などがあれば、確実に急坂な遍路道を辿ることはできなくなる。「それを登れないからどうなんだ!」ということではなく、今の私にとって、この遍路道を辿られることは、何にも増して重要なことに違いない。何故なら、そこを辿りながら、<自分>が<無>になれるからである。

 仏教思想に、「縁起(因縁生起)の理法」というものがある。この「縁起」とは、普段私たちが用いる同語の意味とは全く別で、『物事は全て「因」と「縁」が結びつき成立、消滅するものなので、この世に絶対的、恒久的、固定的、本体的なものは一切ない。諸行(現象)は時間的に変化(無常)し、諸法(万物)は不変に存在持続するものはない(無我)』

 『私たちの存在すら、因と縁により一時的に仮に現象しているに過ぎないので、私も無常であり無我である。ところが、人間は無常なるものの上に常住性を期待し、それが必ず裏切られるために、苦が生ずる。その苦を除くために菩薩を求める』という教えである。

『』内は、1)大谷大学「生活の中の仏教用語」162,167,186   2)エンサイクロメディア空海「空と縁起の一考察」から、部分・要旨引用

 

  私が歩き遍路をして次第に<自我>を失い<無>になっていくプロセスは、「縁起の理法」でいう<無常>や<無我>には程遠いながら、私にとって最も重要な心的な<導入路>に違いない。そのプロセスを突き詰められれば、教えを学ぶ方角を掴めるかもしれない。

 とまれ、その重要なプロセスが、もしかしたら今回の転倒事故などによる身体の損傷でできなくなってしまったら...という不安が一瞬頭をよぎった。

 身体機能や内部機能を減失するということは、今まで自分が可能であった、或いは自分が最も重要に考えている必要行動などができなくなるだけでなく、それにより、生活の仕方や自我の形成、自己の確立が極めて重大に影響されることだと、改めて認識した。


美しいお顔のお地蔵様(徳島市内の路傍にて)
 こういう事故経験と抱いた不安から、私は、四国の<歩き遍路>で自分が<無>になるプロセスに何を求め、何故重要と考えるのだろう、それを契機に移り住みだした<高野山>に、何の意味を求めているのだろう...と、改めて考え直さざるを得なくなった。

 特に、高野山に移り住み始めて既に2年半以上過ぎた。その日々の中で営まれる人間関係も数多くなったが、これまでの東京・神奈川での人間関係の有り様とも異なり、難しさに苦慮することも決して少なくない。それに、離婚してからずっと独り身でいて、自分が何に固執し、どのように心象が屈折するのか、等々を考え続けている。


 そうした離京してからの5年目を、少しずつ振り返ってゆくことになる...