2022年8月25日木曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 5(了)

 2022.08.25

 何かに憑き動かされるように向かった広島と長崎。

 移動時間を含め、旅程は計4日。各2日2回ずつ両資料館を観覧したが、そこで得た知識や情報は、生まれて初めて接するものも多かった。

 知識や情報は、強い印象や要素を伴うものでなければ、中々記憶の深部に残らない。その意味で、実際に彼の地に出向き、足で歩き、目で見て耳で聞き、触れられるものには手で触れ、その物や周辺の臭いを嗅ぎ、空気や日差しの熱を肌に感じながら周った経験は、私にとって他に代えがたいものとなった。まして、対象は原爆の<証>である。

 この<原爆投下>という人間の最たる愚行を嫌ほど目の当たりにして、77年前の取り返しのつかない<過ち>を悔い、厳しく記憶に刻まなければならないのは確かだが、それなのに今、再び新たな<愚行>が繰り広げられている。

 ウクライナで既に半年も続いている戦争のことである。毎日のそのニュースを見聞きする度、悲しいほどの人間の<性>が恨まれる。


 2014年、ウクライナ南部クリミア半島を一方的に併合して以降、今年2月24日にウクライナ国境を破り未だに侵攻を続けているロシアには、一体どのような言い分があるというのだろう。そのウラジミール・プーチン大統領の発言からは、かつてのロシア主導の汎スラブ主義を彷彿とさせるような発言も垣間見える。

 例えば、アメリカのトマス・グリーンフィールド国連大使は、今年2月の国連安全保障理事会の席上で次のように指摘した。

 『ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、世界をロシア帝国が君臨していた時代に戻したいと考えている...プーチンが、ロシアはソビエト連邦以前のロシア帝国時代の領土に対して、その正当な権利を持っていると述べた』(BUSINESS INSIDER 2022.02.22)。

 プーチン大統領の真意は不明だが、第二次大戦以降過ぎてきた激動の歴史を見ると、それはあながちプーチンの妄想とばかりは言えないロシアの事情があるようにも見える。


 第二次大戦後の1949年、西ドイツの西ヨーロッパ連合加盟などを軸に西側自由主義諸国で結成された「北大西洋条約機構(NATO:政府間軍事同盟)」に対抗して、ソ連・東欧圏諸国は1955年に「ワルシャワ条約機構」を組織した。その後、東西冷戦の終結(1989)、東欧諸国の民主革命(同)、東西ドイツの統一(1990)などが推移して、ワルシャワ条約機構は1991年に解体した。

 その際、1989年12月に崩壊したソ連に代わり新生なったロシアは、軍事同盟であるNATOの解体を西側(アメリカと口頭で?)と約束したという。しかし、それは一向に実現されず、むしろ旧ソ連邦加盟諸国は全てNATOに加盟する、ソ連構成共和国であったバルト三国も2004年にNATO及びEU(経済・政治面を軸とするヨーロッパの連合体)に加盟するなどの事態に発展した。

 これにより、ロシアの自由主義圏化を危惧したプーチン大統領は、自国と国境を接しかつてのソ連邦の構成共和国であったウクライナを「最後の砦(緩衝地帯)」と捉え、親ロシア派勢力が居住する地区を軸に、<NATOに強制編入された>ウクライナの<(領土)開放>と称する侵攻を開始した。これが、ロシア側における今回の侵攻の本質に見える。

 一方、ウクライナ側からすれば、「自宅に暴漢が突然侵入し、自分たちの家財を破壊略奪、家族や自分を傷付け凌辱し、誰彼構わず殺し回ったら当然それに抵抗する」と、自己防衛行為かつ国際法上も認められる正当な権利の行使であることを主張し、猛反撃に出た。

 この主張は、一般の市民感覚、国民感情からすればしごく当然、正当で、事実、西側諸国を中心とした世界各国の世論の多くは、当初からウクライナを支持し応援している。ただ、ロシアとウクライナのキエフ公国(12~15世紀にあった国)からのルーツや分離、独立の経緯を考えると、それは歴史認識や理解の違いからくる国家利害の結果と単純化できない。

 しかし、ウクライナにおける戦争は、現在も尚、留まる気配が見えない。それどころか、侵攻しているロシア側、防衛奪還しようとしているウクライナ側双方が、日増しに戦闘を激化し過激な状況に陥っている。

 侵攻しているロシア側は言うに及ばす、<当然かつ正当な自己防衛対処>をしているウクライナ側にとっても、その戦争がずっと続けば、何れ過剰な抵抗や必要以上の反撃に発展する可能性は否定できない。否、むしろそれに近い状況が、現在のウクライナで起こっていないと、誰が言えるだろう。まして、ウクライナには、最新兵器や高性能軍備品を含む西側諸国からの圧倒的支援が集中しており、まるでNATOとロシアの代理戦争がウクライナで起こっているようにも見える。既にここまで来ると、ウクライナにとっても引くに引けない事態になっているかもしれない。


 かつて「非暴力主義」を徹底して唱えたマハトマ・ガンディーが言うが如く、(相手の)暴力に(こちらが)暴力で応えればそこに節操はなくなるだろうし、かといって、無抵抗でいればこちらが殺害されてしまうかもしれない。それでも、そうした互いの抗争が続けば続くほど、行きつく先には、広島や長崎のような、相手を根こそぎ消滅させてしまうような<最終手段>の使用を招くことになる。

 勿論、どのような兵器であっても相手を殺傷するためのものである以上、その使用は認められない。まして、広島・長崎級であっても瞬時に数十万人の命を奪えるような核兵器を使用すれば、双方が死滅するストーリーはどうしても避けられない。

 それが分かっていて「使えない核兵器」を製造・増産し、<抑止力>などという美名で弁明、挙げ句に互いに相手を威嚇し合う。そのような行為が、何故まかり通るのだろう。否、それ以前に、何故、人は大義名分や自己防衛のために<殺し合い>をするのだろう?

 「仕方ない」「やむを得ない」と幾ら<言い分>を主張したとしても、<殺し合う>本質は隠しようがない。

 

長崎 平和祈念像
 自分の意見と異なれば相手の主張を否定するまではあったとしても、それを力付くで屈服させ、それが通らなければ相手を抹殺する...これが人間の<本質>なのか。そうであれば、広島・長崎の悲劇は、何れまた繰り返されるしかない。

 ウクライナであろうがロシアであろうが、アフガニスタン、ミャンマーであろうが、最も大切にすべき選択肢の最後まで残るものは、<人の命>であってほしい。<人の命>は、<人>が自由に扱って良いものではない。妊娠、出産により生命が発生し誕生した<命>を、<人>が自在にコントロールしてはならない。仮に、<命>の<強制終了>を人が選べたとしても、医療を含め<命>の自在な調整に人為が及ぶことなどないからだ。

 それを思えば、<人の命>を代償にしてまで、得るべき<もの>守るべき<もの>などないと言いたい。「領土」も「主権」も、命あっての物種(ものだね)だ。<人の命>と引き替えに血の色に染まった「領土」を守ったとして、そこに根を下ろし暮らしていく者に<安住の地>はない。何れ、また奪われるかもしれないからだ。

 かように、どんな<大義>があったとしても、<人を殺し、殺される>行為に私は決して組みしないし、同調できない。

 勿論、安住の地を求めて世界を永く彷徨い続けてきた民族や、常に近隣の大国に領土を侵害され衰滅を繰り返してきた国民にとっては、領土や主権の大切さは何ものにも代えがたいものであろう。その<価値>を否定するつもりは毛頭ない。

 それでも、再生が効かない<人の命>以上に、それは<価値>あるものであろうか。

 悲しいかな、現実の世の中には<人の命>に勝る<価値>が大手を振ってまかり通り、戦争や紛争は絶え間がない。それだけ<人の命>が軽んじられる世の中にまたなってきているのかもしれないが、であるからこそ、過去の戦争の愚かさは何度でも学び直さなければならない。<広島、長崎の悲劇>を、誰もが学ぶべきである。

 どうか、ロシア側は勿論、ウクライナ側にも、一刻でも早く戦争を終結させる<着地点>を設けてほしい。<譲歩と妥協の重ね合い>であって構わないではないか。どれほどその着地点に納得がいかないとしても、今すぐ、抗争を<着地>させなければならない。戦争を終結しなければならない。何故なら、最も優先されるべきは、<人の命>だからである。


 「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである(ガンディー)」「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげこ むうくふ:摩訶般若波羅蜜多心経)」

 これらの言葉が、今こそ響いてならない...

「牧師の涙」 川上郁子著
長崎文献社


 私がその男に心を奪われているとき、怪我が比較的軽いと思われる三十代ぐらいの女性が、その肩で支え歩いている同年齢ほどの女の人を激励しているのが聞こえた。

「ホラッ、しっかりせんね、シャンとせんね。赤迫のトンネル工場の前で、爆風で吹き飛ばされて倒れとんなった女学生さんのごた人が、自分の額に垂れ下がっとった脳のごたっもんば、自分の手で頭ん中にもどして、立ち上がんなったよね。
あんなんの怪我に比べればあんたの右足の傷は屁のごたっもんやかね。がんばらんね」

 怪我も怪我。大怪我だ。爆風で飛び出した脳を自分の手で元にもどすなんて、何と強固な気性の持ち主だろう。あのピカッドン爆弾で人間の身にも心にも異状をきたしたのだ。生きようとする若い力が土壇場になって想像を超える行動をとらせたのだ。(左記書P18より)



2022年8月23日火曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 4

 2022.08.23

 広島と長崎には、それぞれ資料館が設置されている。

 そこでは、原爆の詳細な関連記録を収集、保管し、『原爆による被害の実相を世界中の人々に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため(「図録ヒロシマを世界に 2019年度版」はじめにから)』、英語表記を含め、外国からの観覧者にも対応している。

 その膨大な数の遺留品や写真、模型などの展示物には、多くのポイント毎に音声ガイダンスを聴取できる仕組み(有料)も設けられ、観覧する者の心をグッと惹きつける。

 しかし、その広い館内のブース毎に分かれた展示物を目や耳で確かめていくと、相当程度気持ちが揺さぶられるし、一周りしてそれらの悲惨さや残酷さを受け留め続けると、正直、心身ともにグッと重さがのしかかる。

 私が訪れた時季はちょうどお盆の真っ最中で、意外にも学齢期の子供連れも多くいた。

 館内はそれなりに混んで、1つの展示前で長く留まることはできず緩やかに波に押されたが、幸い騒がしさはなく静かに観覧することができた。しかし、訪問者の中には展示物をただ通り過ぎていくだけの家族や写真撮影だけに夢中になっている子、更に原爆被害の実態を現実のものと理解できないためか、案外普通の表情で通り過ぎる子が多く、幼い子ども連れで原爆資料館に<見に来る>ことが良いのかどうか、私には分からなかった。

 ただ、それらの子の中に1人2人、悲壮な展示写真を見るのが苦しかったのか、顔を曇らせ、『早く出よ~ヨ...』と親を催促する小学生高学年くらいの子もいた。私にはそうした子のほうがよっぽどノーマルな感受性を持っているように感じられ、少しホッとした。

 そして、こうした死と表裏する真底の悲惨さを受け留めるには、<見る>側に今ある<生>の<有り難さ=difficulty>や<生きる>ことへの<自覚>或いは<覚悟>のようなものを求められるような気がして、重い気持ちの反面、しっかり歴史を<見>なければと目を開いた。


 広島では資料館が設置される「平和記念公園」の敷地が広く続いていて、園内には「原爆ドーム」を筆頭に、平和の門、平和祈念館、死没者慰霊碑、平和の灯、原爆の子の像などが、園周囲には本川や元安川が流れていて、公園を一望できる環境にある。

広島平和記念公園 周辺マップ

長崎 よりみちマップ・へいわまち

 





 また長崎でも、広島同様「平和公園」が長く続いていて、追悼平和祈念館や平和記念像、平和の泉があり、少し離れてやはり被爆した「浦上天主堂」が立っている。

 それらの環境の中で、広島にもあるのであろうが、長崎ではメジャーな被爆地ではない、旧制の国民学校で現在も現役小学校として活動している2つの学校を見学した。というのも、その学校内には生徒への平和教育教材を兼ねた「原爆資料室(原爆遺跡)」があるからだった。

 私は、長崎駅でいただいた手作りの市内マップの中に偶然この学校が書かれていて存在を知ったのだが、原爆資料館からそれぞれ徒歩20~30分程かかる学校を訪ねてみた。それは「長崎市立山里小学校(旧、山里国民学校)」と「長崎市立城山小学校(旧、城山国民学校)」である。

 この2校には、原爆投下の同時刻、教職員が各30名ほどいたが生存者は各3~4名ほど。児童は当時、空襲を避けるため「隣組学習」が行われて通学しておらず、生徒の殆どは自宅やその周辺で被爆死したとのこと。山里小学校では児童1,581人中約1,300人が自宅で、城山小学校では児童約1,500人中約1,400人が自宅で、亡くなっている。

 長崎医大の医者で爆心地から700m離れた大学診察室で自らも被爆し、右側頭動脈切断の重症を負いながらも被爆者救護に尽力した永井隆博士が、原爆関連図書を出版した印税を両校に寄贈し、それぞれに桜の植樹を施した通学路「永井坂」が設けられている。その永井坂を始め、両校には原爆投下前の学校の様子と対比した原爆投下後の惨状、被爆者の遺品や関連資料、校舎内に備えた「防空壕」、また幼かった子らへの慰霊碑などが備えられ、一般公開されている。

 しかし、私が驚いたのは、その両校が今も現役で機能していることであった。

 現在は原爆投下から77年経っているが、山里小学校、城山小学校とも、被爆から3ヶ月後には別場所で授業を再開している。そして、それぞれ被爆から5年後には被爆校舎を修復、落成したが、山里小学校は同44年後に新校舎を建設し、そちらに移行した。

 同じく城山小学校は被爆3年後には同校を復興させ、被爆校舎修復後の翌年(被爆6年後)には被爆児童養護のため、特別学級(原爆学級)を編成している。そして、54年後からは修復された被爆校舎を再利用または開館した。

 その事実を前にした時、放射線の影響をよく知らなかった私は、修復されたとはいえ被爆校舎が現役で使われていることに驚き、「放射能の影響はないのだろうか?」と単純な疑問を抱いた。しかし、それは広島、長崎の残留放射線量に疑問を抱くことに等しく、その疑問には正確に答を得てしっかり理解すること、間違ってもあらぬ偏見を産み出すような真似をしてはならないと思い直し、直ちに公的資料を調べた。

 その結果を私が下手に要約する前に、まず公的機関の同回答に相当するHPをご覧いただきたい。


広島や長崎には今でも放射能が残っているのですか?」

回答:広島市市民局 国際平和推進部 平和推進課 https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/faq/9455.html

「原爆放射線について」

回答:厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15e.html

「福島第一原子力発電所事故 Q&A」Q11

回答:放射線影響研究所 chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.rerf.or.jp/uploads/2017/09/fukushima_qa.pdf

「一般の皆様へ 放射線Q&A」

回答:長崎大学原爆後障害医療研究所 https://www.genken.nagasaki-u.ac.jp/abdi/publicity/radioactivity_qa.html#a05

「あれから10年、2021年の福島の「今」(後編)」

回答:経済産業省 資源エネルギー庁 https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/fukushima2021_02.html

「原爆と原発の違いについて」

回答:市民放射能測定データサイト https://minnanods.net/learn/nuclear-bombs-powerplants/about-nuclear-bomb-powerplant.html


 上記に基づき、私が理解した要点は以下。

1)通常、地球上の自然界には、宇宙や大地から飛来、飛散し、また食物から発生する放射線(自然放射線)もあるが、人体への影響はない。

2)上記の他に、日常生活上受ける放射線には「人工放射線」があり、医療分野では胸部CTスキャンや集団検診時などのレントゲン、他分野では原子力発電所周辺の放射線量などがある。

3)広島・長崎で原爆が炸裂した際に発生したエネルギーの5%は「初期放射線」で、人体に甚大な影響(死亡・重症疾患等)を与えた。爆心1km以内の直接被爆者で生存者はほぼ皆無。

4)初期放射線は爆心地から遠くなるほど減少し、長崎では爆心地から3.5km付近で1.0ミリシーベルトまで減少(一般公衆の年間被爆総量の限度ライン相当)した。胸部レントゲン撮影時の放射線量は、同爆心地から4km付近の放射線量と同じ程度。

5)また、初期放射線の他に、爆発時発生したエネルギーの10%は「残留放射能」となった。それは、爆発後24時間で残留放射線全量の80%が放出され、その後は短期間で急速に減少した。長崎では爆心地から100m地点で、投下24時間後には3万分の1にまで減少した。

6)(残留)放射線については、戦後60年に亘る科学者たちの被爆地の土や建築資材等を採取、調査してきたデータに基づいている。科学的検証に基づいた最も信頼できるデータによっているので、原爆の威力を過小評価しているわけではない。

 以上から、爆心地からの距離にもよるが、爆発時に発生した初期放射線は元より、その後の残留放射線も爆発後数日を経た時点でほぼ無化された(≒自然界レベルまで減少)と解釈してよいことが分かる.そうであれば、広島、長崎での被爆校舎の再利用や日常生活を送る上で放射線量が問題となることはまずないと言える。


 対して、福島の原発事故から既に10年以上経つが、未だ福島には帰還困難区域(立入禁止区域)が設けられ、放射能汚染が心配される事態が続いているのは何故であろうか。

 福島第一原子力発電所では、1号・2号・3号機で「水素爆発」が起こったが、『同じウランやプルトニウムを用いても、原子炉と原爆は核分裂によって生じるエネルギー生産の規模や制御の方法が異なる(長崎大学原爆後障害医療研究所HP)』ことから、一概には比較できないらしい。確かに「原爆と原発の違いについて(市民放射能測定データサイト)」比較すれば、福島第一原発事故のほうが放射性物質の放出量はかなり大きいようだが、『原爆は熱線、爆風、中性子線による影響があり、原発事故とは性質が大きく違う。影響を(放射性物質の)放出量で単純に比較するのは合理的でない(原子力安全・保安院)』との主張がある。

 加えて、『現在(2021年4月時点)の福島第一原発では、構内の96%でどこにでもあるような作業服で行き来し、作業を行うことができる(経済産業省 資源エネルギー庁HP/以下『』は同様)』 更に、2020年2月時点の周辺住民の視察でも、『皆さんが私服で建屋に近付いた』

 その一方で、『福島第一原発の原子炉建屋の使用済み燃料プールの中には燃料は残っている』し、『原子炉内部の核燃料が溶け、様々な構造物と混じりながら冷えて固まった「燃料デブリ」も存在している』ため、『原子炉建屋の中がどうなっているか、まだ正確に分からない』状態。そのため、『福島第一原発の廃炉作業には、事故の発生後30~40年という長い時間がかかると考えられている』とのこと。

「トランクの中の日本 P96 ジョー・オダネル著」
 このように、原子爆弾爆発と原子炉事故とは明確に異なるとのことだが、核物質(分裂)を用いた全ての行いには、極めて重大で深刻な事態を招くリスクが常に付きまとうことをしっかり認識していなければならない。

 広島、長崎という、世界で唯一の原爆投下を被った被爆国として、その鉄則を忘れたかのような事故を起こした責任は極めて重大だし、この<愚行>を二度と繰り返してはならないと、私たち市民が強く自覚すべきではないか。




2022年8月22日月曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 3

2022.08.22

 そもそも、何故、原爆が重大問題なのだろうか?

 勿論、戦争や兵器使用自体が、どれほど大義名分を付けたとしても「(大量)殺戮」や「(集団)殺人」行為そのものに違いない。そのため、その問への答えは第一義である戦争否定の論上にしか導き出されないのは明らかだが、それでも何故、原子爆弾が史上最悪の兵器として特筆されるべきなのであろうか。

  前回ブログで、広島と長崎に投下された原爆の種類は違っていたことを書いた。

 長崎市の被爆継承課と平和推進課が作成した公的資料(https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf)によると、広島型の原爆の核物質はウラン235、広島市中心部の上空約600mで炸裂し、TNT火薬16kt(キロトン)の爆発力に相当する。一方、長崎型の原爆は核物質がプルトニウム239、長崎市北部の上空約500mで炸裂。TNT火薬21ktの爆発力に相当する。

 ウラン、プルトニウムという元素(物質を構成する最小単位のもの)に中性子を衝突させると原子核が2つに分かれ(核分裂)、エネルギーを放出する。この核分裂と同時に中性子が飛び出し、更に連続して核分裂が起こると、巨大なエネルギー(熱線・爆風・放射能照射)が発生する。このエネルギ-を兵器にしたのが原爆である。広島・長崎の原爆は、核物質の違いだけでなく、爆発と分裂の構造が違うものを製造し、使用された。

 広島では、当時の人口約24万人中の73,884人(約31%)が死亡。負傷者74,909人(約31%)、被災者合計では148,793人(約62%)。対して長崎では、当時市内在住者約35万人中の14万人(40%)が死亡、負傷者79,130人(約23%)、被災者合計は219,130人(約63%)が推計されている。

 数字だけ見ると規模はあまり違わないように見えるかもしれないが、罹災家屋数では長崎は広島の約4倍、全半壊数で約3倍、全焼失面積でも約2倍となっている。これらが意味することは、長崎型の原爆のほうが威力は相当大きかったということである。

 

 私の手元に数冊の資料がある。何れも両資料館で購入したものであるが、広島では2冊の「図録」と書かれた資料を求めた。1冊目は2019年3月にまとめられ、2冊目は2020年12月にまとめられた、広島平和記念資料館の総合資料である。



 そこには広島に原爆が投下された経緯や原爆による被害の状況、原爆自体の内容説明などが詳細に説かれているが、両資料には原爆の威力を説明するものとして、「熱線」「爆風」「放射線」の項目が継続して掲げられている(他には「光熱火災」など)。

 「熱線」では、『...爆発の瞬間、空中に発生した火球は1秒後に直径280mの大きさとなり、約10秒間輝いた。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達した』とある。

 この温度で直射されれば、あらゆる物質は溶け消滅してしまうし、爆心地から260m離れた建物の石段に腰かけていたらしい人物は一瞬で跡形もなくなり、黒い人影だけが石に焼き付いて残った。同じく600m以内にあった屋根瓦は溶けて表面が泡状に沸騰。同1.2km以内にいた人間は皮膚が焼きつくされ内臓に障害をきたし即死または数日後に死亡。同3.5km離れた地点で裸でいた人すら重大な火傷を負うなど、揚げたらキリがない惨状が記録されている。

 「爆風」では、『炸裂の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、周りの空気が急激に膨張して、空気の壁と言えるような衝撃波が発生した...衝撃波は、爆発の10秒後には約3.7km先まで達していた。その圧力は、爆心地から500mの所で1㎡あたり19トンに達するという強大なものだった。』

 その結果、家屋・建造物の倒壊は勿論、破裂したガラス片が弾丸のように飛び交い、爆心地から1.5km離れた家屋内にいた人の顔面にも大きな破片が衝突。血管や神経を損傷し顔面に大きな傷を残した。こうした飛散したガラス片などは、数年後に体内から摘出される事例もあるほど、甚大で深刻な被害を浴びせた。


 しかし、何と言っても原爆の怖ろしさは「放射線」による被害であろう。

 『原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では起こらない大量の放射線が放出され...人体に深刻な障害が及ぼされたこと...放射線は人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させると共に、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こした。』

 この悲惨さをどのように表現し伝えたらよいか、私には見当も付かない。よって、「図録(2019年版)」に掲載される『死の斑点が出た兵士』の解説をほぼそのまま転載する。

「図録ヒロシマを世界に」
P68より


『死の斑点が出た兵士(第一陸軍病院宇品分院で撮影。同日死亡/1945年9月3日)

 21歳の兵士は、爆心地から1キロメートル以内の木造家屋内で被爆(8月6日)し、背中・右腹などに切傷を負い、治療を受けた。8月18日頭髪が脱毛、29日歯ぐきから出血、紫色の皮下出血斑が出始め、31日発熱。9月1日喉が痛み、物を飲み下せなくなり、同時に歯ぐきからの出血が止まらず、顔と上半身に皮下出血斑が多発。2日意識不明となり、3日午後9時30分死亡した。』

 更に、放射線の怖ろしさは、「急性障害と後障害(「図録2020年版」P36)」にあるとも言える。『...被爆から年月が経過した後、放射線に起因する症状が出ることを後障害と呼ぶ...白血病の発生は被爆2~3年後に増加し始め、7~8年後に頂点に達した。特に若年で被爆した人の発症が多かった。その後、減少していくが現在でもその危険性は続いている。一方、その他のガンが発生するまでの潜伏期は長く、被爆5~10年後頃に増加が始まったのではないかと考えられている。放射線による影響については、現在でも十分に解明されていない...』

 上記のように、原子爆弾という核物質を用いた兵器の使用は、その瞬時や短期間の殺戮や損傷のみならず、十年二十年以上に亘る後遺障害や関連疾患を体内に温存発症させ、かつ熱線や爆風などによる重症火傷や体組織の悪組成などを伴う。

 広島の平和記念公園内にある「原爆死没者追悼平和祈念館」を見学した際、ちょうど女性被爆者の惨状を訴えるビデオが流れていた。その中で、被爆し顔面や体表面に重症火傷を負った女性が、その後の縁談などで如何に世の中から差別され、苦しめられたかを紹介していた。被爆程度は軽度であっても、こうした日常的な生活や人間関係にも重大な支障や問題が生じたことを知り、どこまでも核兵器の被害は絶えないと教えられる。


 その上で、改めて、広島、長崎に原爆を投下した意味は何だったんだろうと問おう。

 前出の「原爆はなぜ投下されたのか?(一問一答)」(広島平和教育研究所発行)によると、原爆投下の目的には、①対ソ連戦略説と②早期終戦説、それに③人体実験説や④国家予算説などがあるという。各説要点を述べる。

①:アメリカの原爆開発は常にソ連を警戒したものであった。ヨーロッパ戦線での実績から連合国側はソ連が参戦しなくても日本に勝てる見通しを持ったが、戦後の政治的パワーバランスを考慮し、ソ連に原爆の威力を見せつけたかった。よって、トルーマン大統領は、ポツダム宣言(英・米・中華民国による日本への降伏要求の最終宣言)発布前=日本が降伏する前で、加えてソ連が参戦する前に日本に原爆投下を投下したかった、というもの。

②:アメリカ政府見解に基づく説。『原爆は50万人ないし100万人の米国軍人の命を救った』との政府見解。これについて、原爆被害の惨状が明らかになるに連れ、救われたとされる米国軍人の数が意図的に増やされたという観測あり。

また、トルーマンは広島への原爆投下を『...初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目...これは、この攻撃でできるだけ一般市民を犠牲にしたくないと考えたから...私たちは戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ軍人の命を救うために原爆を使った』とアピールしたが、終戦後、一般市民が暮らす大都会への投下であったことが明らかとなり、欺瞞が露呈した。

1945年9月13日の米軍内部文書では、米軍の死傷者予想の発表数値を論議した経過が記録されているらしいが、広島の惨状をレポートした新聞記者の他、『日本が原爆投下前に降伏を求めていた事実を知った今、数もはっきりしない「多数の米国人」の命を救ったなどという主張は何だったのだろうか』と主張した週間ジャーナル誌の編集長など、多数のアメリカ人が原爆投下の批判を始めた、とのこと。

③:敗戦濃厚な日本への原爆投下の必要性を疑う意見もある中、投下は強行された。日本が降伏後にアメリカ政府が設けた「原爆傷害調査委員会」では、放射線量や放射能が人体に与える影響調査はしても治療は行っていない。また、米軍は被爆死亡者を解剖し、その人体の一部を本国に持ち帰っている。

 広島・長崎とも人口密集地が目標となり投下されたが、原爆の効果・威力を正確に知るため、投下2ヶ月少し前から、投下対象都市への通常爆撃は禁止していた。原爆搭載機の他に、科学的調査観測機、写真撮影機を飛ばし、効果・威力を測定するラジオゾンデを投下していた等々。

④:原爆完成までにアメリカが注ぎ込んだ国家予算は約19~20億ドル(現、2兆5千億円以上)。開発ピーク時の総動員数約12万9千人。開発に関わった企業は多数・他分野。以上から、議会や国民の追求を逃れるために原爆投下に踏み切ったとの説もある、とのこと(但し、原爆開発は最高機密であったため議会にも報告外であった)。


 以上の諸説が陰に陽に飛び交う中で、正確な投下理由は未だ明らかになっていない。事によったら幾つかの説が同時に存在し投下に至ったかもしれないが、しかし、以下の発言は私の疑問を更に深める。

 『一発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった、という米国の歴史学者の認識が広がっている(鹿児島大学・木村朗)、という。広島への原爆投下の悲惨な結果を確認したうえでの長崎への原爆投下だった。従って、「原爆投下は新型兵器の威力を試し、その効果を確認するための実験であり、とりわけ人体への影響の測定という実験を重視したものではなかったのか」といわれる。』(「被爆体験の継承」山川剛著、長崎文献社)

 こうした意見を伺うと、これはどう考えても<戦争の早期終結>を目的にした<やむを得ざる原爆投下であった>という解釈には、無理と嘘しか感じられない。

 そんなことのために、長崎で言えば約15万人、広島では約20万人もの被爆者を出したのかと思うと、とてもいたたまれない。35万人という数字は、現在のアメリカでいえばルイジアナ州のニューオリンズ全域、同じく日本では島根県松江市か山口県下関市の全人口に相当し、その人々が一瞬にして死亡または重大傷害を負うに等しい。そんなことがあって良いはずがない...


 

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 2

 2022.08.22

東京湾、川崎、横浜、

名古屋、大阪、京都、神戸、広島、呉、下関、山口、

八幡、小倉、熊本、福岡、長崎、佐世保

 上記の17の地域や都市が何であるかを、ご存知だろうか?

 これらは、アメリカ合衆国(以下、アメリカと略)のルーズベルト大統領が、1941年10月に日本への原子爆弾投下を正式に決定したマンハッタン計画の投下目標として、1945年4月27日に研究対象に上がった場所である。

 その17地域が、数日後の検討会議で「京都・広島(AA級目標)、横浜・小倉兵器廠(A級目標)」に絞られ、更に半月後の5月28日会議で、「京都、広島、新潟」が原爆投下対象に選出された。

 その後、ルーズベルトに次いで大統領になったトルーマンは、その2ヶ月後(1945年7月25日)に「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎の何れか1か所に原爆投下を」と命令した。

 その結果、1945年8月6日午前1時45分、広島型原爆を搭載したエノラ・ゲイ号(原爆投下機)他2機が離陸。1時間前に先発した気象観測機が午前7時過ぎに広島上空に達した時、広島の天候は快晴だったため『歴史的爆撃に支障なし』とエノラ・ゲイ号に連絡。同日8時10分エノラ・ゲイ号は広島上空にに達し、目標地点である「相生橋」に8時15分、原爆を投下した。

 つまり、広島に投下された原爆は、当日天候が悪ければ小倉または新潟に投下された可能性も大きかったと言える。

 また、第二の原爆は、第一目標が小倉市(旧の福岡県東部、現在の北九州市小倉北・南区)、第二目標が長崎市であった。しかし、8月9日小倉上空は朝霞がかかりよく照準設定できなかったため、11時01分、長崎に原爆が投下された。

 原爆の投下目標となった理由は、日本軍の重要な兵器廠や基地があった、または造船等の工業地帯であったことが共通するが、投下の最終的な判断は当日の天候や気象条件に拠るところが大きく、つまり、広島、長崎でなくても、<最初にあげた地域はどこでも被爆地になった可能性はあった>ということである。

 そのため、このブログの読者の住所地もしくは付近が対象となっていたら、原爆の投下がどれだけ自分たちの人生や生涯を狂わせる原因となっていたかを、想像してほしい。否、それ以前に、貴方は今、この世に存在していなかったかもしれない。


 広島と長崎では、原爆の種類も違っていた!


広島投下原爆リトル・ボーイ

長崎投下原爆ファット・マン

 広島に投下された原爆は、通称「リトル・ボーイ」と言われ、長さ約3m、直径約0.7m、重さ約4tであった。そして、長崎に投下された原爆は通称「ファット・マン」と呼ばれ、長さ約3.2m、直径約1.5m、重さ約4.5tであった。つまり、第二の長崎投下のものの方が、かなり大きかった。

 詳しい資料にまだ目を通せていないが、広島に次いで長崎に2回目を投下した理由、更に2回目の長崎に投下したものが一層威力が大きいものであった理由、或いはそもそも何故原子爆弾を投下しようとしたかについて、どうやら私たちが普通理解しているような「戦争を早期に終結させるため」という理由より以上に、関係各国で働いた思惑があったらしい...。

 何より、当時の日本帝国と同盟関係にあったナチスドイツは、1945年5月7日に連合国側に降伏しているが、アメリカはその約4年も前に日本への原爆投下を決定している。確かに、アメリカが原爆実験に成功したのは1945年7月16日のようだが、では何故4年も前に日本への投下を決めていたのか?

 それは、投下した原爆が不発に終わった場合、同じく原爆開発を進めていたドイツであればその開発に逆利用される(日本にはその恐れはない)との懸念があったからという説もあるようだが、そればかりではない大国のパワーバランスや政治的な駆け引きなどが激しく行き交い、「原子爆弾」という最終兵器が構想、開発されたのではないかと思われる。

 驚くことに、当時、原爆開発は日本を含む数カ国が行っていたとの資料、文献も明らかになっているようで、これらの事情を知れば、<日本の2都市に(戦争終結のため)仕方なく原爆は投下されたという理解は余りにも単純で短絡>と考え直さざるを得ない。

 これらを含め、日本に住む者は、原爆投下の経緯や現状をなるべく詳しく知らなければならないと、今、私は思っている。自分なりに継続して考えたい。


「原爆はなぜ投下されたのか?(一問一答)」

https://www.hiro-gakkouseikyou.or.jp/gakkouyohin/book/peacebook/112

「立花隆 長崎を語る」https://www.e-bunken.com/shopdetail/000000000411/

※上記は、広島、長崎の両資料館から入手した資料。



 

2022年8月18日木曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 1

 2022.08.18

 今年もお盆の時期を迎えた。

 長野県長野市出身の私は、幼い頃、お盆のご先祖の霊の迎え送り儀礼として、お墓から家までの道筋を、干した白樺の皮を燃やして示す「かんば焼き」という行事をしていた。ここ高野山では、「切子灯籠」という木の枠を組み合わせた立方体風の灯籠を各お寺で灯し、ご先祖の霊を導くという。

 それら各地域のお盆行事が始まる前の先月初に,ある知り合いのお寺の方から、奥の院でそのお寺が管理されているエリア(33か所?)にあるお墓の掃除を手伝ってほしいと頼まれた。3年前に奥の院の用務員をしていた時は参道掃除をよくしたので概ね内容は想像できたが、お墓周りの掃除は初めてだったので、新たに経験することも多かった。

 その3年前は、広い参道に広範囲に無数に散乱する杉葉を除去するため、ブロー(掃除用のヘアドライヤーの親分みたいなやつ)で如何に効率よく葉を集め石見(いしみorいわみ:チリ取りの親分みたいなやつ)に大量にすくい袋に捨てるかとい水平方向の動線であった。しかし、お墓の場合は墓石の高さがあり、上に落ちている葉や枝を下に払い、その下の枯れたお供えの花や葉(高野山の場合は高野槇:まきが主体)を処分し、更に墓地面をきれいにするという垂直水平の三次元の動きを要した。加えて、隣の墓石と幅僅か5cm、深さ30cm以上ある隙間に落ちて積み重なった杉葉も外に掻き出す必要があったので、お墓掃除の大変さというものがよく分かった。

 どんなことでもそうだが、してみなければ分からない苦労や難しさ、求められる巧みさなどはかなりある。やってみたからこそ理解できたことは数えられない。それが、「お墓」という故人や先祖を偲ぶ最も象徴的な対象物を綺麗に掃除するという作業なので、「いい加減」な扱いはできなかった。

 杉葉は、長さ0.5~1cmほどの針状の葉が鋭角に一定方向に螺旋状に密集している。その最も短い1本は数cmだが、長いと太い枝に束になって付いていてそれがドサッと落ちている。また、奥の院の杉は、樹齢平均600年ほどのものが多いらしいが、もっと古い800年近く前のものではないかという大物もある。

 そうした大小様々な枝葉が、広い参道の石畳面に落ちていればブローの強い風力で集められるが、墓石周りの小石や雑草、土の上などに落ちていると、葉が開いている向きにいくら箒で掃いても動いてくれない。開いている側から根元に向かって逆に掃いて、初めて集められる。また、隣の墓石との僅かな隙間に落ちて半ば腐敗し、濡れて重さを増した杉葉を掻き出すと石見に山盛りにする。その重い石見を片手で持ち、袋にこぼさず入れる作業は、普段使わない筋や腱を十二分に駆使した。その清掃作業が終わり半月ほど経つが、両親指の付け根辺りを押すと未だに僅かな疼きを感じて、それらのきつかった作業を懐かしく思い出す。

 私の作業に先立って、草刈り機で全エリアを除草し全体の作業内容を詳しく教えて下さった方も気さくだったので、とても面白く仕事ができた。来年も機会があれば是非やってみたいと思わせてくれた。


 さて、お墓掃除は大変ではあったが、自分なりに丁寧に務め予定より早く終えられた。

 そうして片付いた墓石を見ると、どなたにも心安らかにご先祖をお迎えしていただきたいと感じる一方で、明らかにもう随分長い間どなたも墓参していないと思われるお墓がいくつかあり、対象的だった。墓石が単に故人を偲ぶ象徴であったとしても、汚れ壊れ傾いたまま放置されているのは如何なものだろう。そういうお墓のご先祖がその惨状をどのように思うだろうかと想像すると、やはり既に故人となっている姉と共に何故か比叡山に設けられた私の母親のお墓には、きちんとお参りをせねば...と反省させられた。


 しかし、今回は、その「お墓周りの掃除」をした後に私が経験した、ある<弔い>について書きたい。

 それは、このお盆の時期にどうしてもしなければならないと思ったこと...広島と長崎に行くことであった。その2か所の原爆被災者の慰霊をしてこなければ...という想いが強く湧いてきた。

 その週の初めにお墓周りの掃除を終え、週最後の土曜日に広島、翌週初めに長崎の、毎年の原爆慰霊式典をテレビで観ていた。しかし、今年に限り、「2か所の慰霊をしなければ...」と急に強く思った。理由は分からない。

 それを決めたのは8月11日。世はお盆の帰省ラッシュが始まった頃だ。

 混み合うこの時期でなくても...コロナ感染が心配される集団移動時期をずらしても良いのでは...などと思いつつも、「早く行け!」と心の中の何かが叫んだ。

 考えてみれば、広島は隣の山口県に所用で行く際に通り過ぎていた。また、長崎には、以前の障害者支援施設に勤めていた時、施設利用者の個人旅行のボランティア介助者として同行した地であった。しかし、そのどちらの時も、原爆が投下された地は訪ねていない。

 何故か、「死ぬまでには必ず、否、身体が問題なく動き、自由になる多少のお金がある今の内に」と、気が急いた。そして、翌日に第一宿泊地となる広島の宿と、乗車する新幹線の手配をネットでした。そして、その翌13日、当夜には高野山で「ろうそく祭り」があるという日の朝7:30過ぎに、団地の部屋を出た。

 2階の部屋から階下に降りる時、偶然出勤する隣家の方にお会いしたので『数日、家出してきます』とだけ伝えて高野山ケーブルに向かうバス停まで歩いた。

 交通機関の接続に不具合がないよう、予め見越した結果、午後1時前には広島に、その後、資料館のある「広島平和記念公園」には13:16には着いた。僅か6時間もかからずこの高野山からそこまで行ける現在の日本の交通機関能力には恐れ入ったが、その公園は広島駅から路面電車で20分足らずで行ける場所であった。

 

 広い道路の中央にある路面電車の停車場を降りると、信号待ちして程なく道を渡った。すると、すぐ公園の敷地内に入ったが、その目の前には「原爆ドーム」がドンッと立っていた。



「あ~! これが、テレビや写真で何度も見た原爆ドームだ!」と、改めて見つめる。

 ドームは広く仕切られた鉄の囲いの中に、意外にもヒッソリ立っていた。それは、これまでのどの画面でも擢(ぬき)んでて強く自己主張をしているように写っていたが、実物を見るとそうした強い自己主張はなかった。しかし、既に77年もの歳月を耐え忍びしっかり建ち続けた静かな<史実>だけが、粛々とそこに在った。

 午後の早い時間だったが訪問者も多く、「原爆ドーム」と刻まれた石碑の前で記念写真を取る観光客と思われる一群もいて、人だかりは殆ど絶えなかった。しかし、それらを全く意に介さないような無言の存在感は、<威圧>とは勿論違う、でも<観光名所>とは明らかに異なる<無言の主張>が感じられ、しかもそれは<静けさ>を佇ませていた。

 こうした建造物を、この70年近く私は殆ど拝見したことがない。

 例えば、高野山の「大門」や「金剛峯寺」、奥の院の「燈籠堂」などとも全く趣が違う。そこに<在って>も<無い>が如くの風情を、<静かに>醸し出している。

 「これが、約14万人とされる広島原爆の御霊の象徴か(1945年12月までの広島市の原爆死者推計数。当時、通勤・動員者・疎開者含め市内在住は約35万人、その実に4割が僅か5ヶ月弱で亡くなった)」と、呆然とした。

 ドームのすぐ隣には、原爆炸裂後、烈火の熱射を浴び、崩れ落ちる皮膚の熱さや枯渇する喉の乾きをうめようと、無数の人が飛び込んだ「本川」や「元安川」が流れていた。当時、放射線で汚染され<死の水>となった両川は、今はここ数日の雨で緑に染まっていた。しかし、その水辺にはそこで息絶えた膨大な死者の霊が見えるような気さえした。

 
 思わず肌に圧を感じながらも、それでも原爆ドームの周りをしっかり歩き、記憶しなければと思った。そして、これまで様々な公開画像で正面画面しか見えなかったドーム側面には、中に散乱する粉々になったコンクリート塊やグニャグニャに曲がった鉄骨などが剥き出しに、間近に見えた。
そうした様子を見るだけでも、熱射と爆風の威力の大きさが感じられ、「来てみなければ到底分からない」と強く実感した。


今回の「広島/長崎」慰霊の路も、きちんと何回かに分けて報告したい。

 でも、これだけは今、言いたい。

 <日本に産まれ、住むのであれば、一度は必ず、広島と長崎を訪れ、原爆の悲惨さを目の当たりにしてほしい。それが今、日本にいる者たちの義務である>と。