2022.08.25
何かに憑き動かされるように向かった広島と長崎。
移動時間を含め、旅程は計4日。各2日2回ずつ両資料館を観覧したが、そこで得た知識や情報は、生まれて初めて接するものも多かった。
知識や情報は、強い印象や要素を伴うものでなければ、中々記憶の深部に残らない。その意味で、実際に彼の地に出向き、足で歩き、目で見て耳で聞き、触れられるものには手で触れ、その物や周辺の臭いを嗅ぎ、空気や日差しの熱を肌に感じながら周った経験は、私にとって他に代えがたいものとなった。まして、対象は原爆の<証>である。
この<原爆投下>という人間の最たる愚行を嫌ほど目の当たりにして、77年前の取り返しのつかない<過ち>を悔い、厳しく記憶に刻まなければならないのは確かだが、それなのに今、再び新たな<愚行>が繰り広げられている。
ウクライナで既に半年も続いている戦争のことである。毎日のそのニュースを見聞きする度、悲しいほどの人間の<性>が恨まれる。
2014年、ウクライナ南部クリミア半島を一方的に併合して以降、今年2月24日にウクライナ国境を破り未だに侵攻を続けているロシアには、一体どのような言い分があるというのだろう。そのウラジミール・プーチン大統領の発言からは、かつてのロシア主導の汎スラブ主義を彷彿とさせるような発言も垣間見える。
例えば、アメリカのトマス・グリーンフィールド国連大使は、今年2月の国連安全保障理事会の席上で次のように指摘した。
『ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、世界をロシア帝国が君臨していた時代に戻したいと考えている...プーチンが、ロシアはソビエト連邦以前のロシア帝国時代の領土に対して、その正当な権利を持っていると述べた』(BUSINESS INSIDER 2022.02.22)。
プーチン大統領の真意は不明だが、第二次大戦以降過ぎてきた激動の歴史を見ると、それはあながちプーチンの妄想とばかりは言えないロシアの事情があるようにも見える。
第二次大戦後の1949年、西ドイツの西ヨーロッパ連合加盟などを軸に西側自由主義諸国で結成された「北大西洋条約機構(NATO:政府間軍事同盟)」に対抗して、ソ連・東欧圏諸国は1955年に「ワルシャワ条約機構」を組織した。その後、東西冷戦の終結(1989)、東欧諸国の民主革命(同)、東西ドイツの統一(1990)などが推移して、ワルシャワ条約機構は1991年に解体した。
その際、1989年12月に崩壊したソ連に代わり新生なったロシアは、軍事同盟であるNATOの解体を西側(アメリカと口頭で?)と約束したという。しかし、それは一向に実現されず、むしろ旧ソ連邦加盟諸国は全てNATOに加盟する、ソ連構成共和国であったバルト三国も2004年にNATO及びEU(経済・政治面を軸とするヨーロッパの連合体)に加盟するなどの事態に発展した。
これにより、ロシアの自由主義圏化を危惧したプーチン大統領は、自国と国境を接しかつてのソ連邦の構成共和国であったウクライナを「最後の砦(緩衝地帯)」と捉え、親ロシア派勢力が居住する地区を軸に、<NATOに強制編入された>ウクライナの<(領土)開放>と称する侵攻を開始した。これが、ロシア側における今回の侵攻の本質に見える。
一方、ウクライナ側からすれば、「自宅に暴漢が突然侵入し、自分たちの家財を破壊略奪、家族や自分を傷付け凌辱し、誰彼構わず殺し回ったら当然それに抵抗する」と、自己防衛行為かつ国際法上も認められる正当な権利の行使であることを主張し、猛反撃に出た。
この主張は、一般の市民感覚、国民感情からすればしごく当然、正当で、事実、西側諸国を中心とした世界各国の世論の多くは、当初からウクライナを支持し応援している。ただ、ロシアとウクライナのキエフ公国(12~15世紀にあった国)からのルーツや分離、独立の経緯を考えると、それは歴史認識や理解の違いからくる国家利害の結果と単純化できない。
しかし、ウクライナにおける戦争は、現在も尚、留まる気配が見えない。それどころか、侵攻しているロシア側、防衛奪還しようとしているウクライナ側双方が、日増しに戦闘を激化し過激な状況に陥っている。
侵攻しているロシア側は言うに及ばす、<当然かつ正当な自己防衛対処>をしているウクライナ側にとっても、その戦争がずっと続けば、何れ過剰な抵抗や必要以上の反撃に発展する可能性は否定できない。否、むしろそれに近い状況が、現在のウクライナで起こっていないと、誰が言えるだろう。まして、ウクライナには、最新兵器や高性能軍備品を含む西側諸国からの圧倒的支援が集中しており、まるでNATOとロシアの代理戦争がウクライナで起こっているようにも見える。既にここまで来ると、ウクライナにとっても引くに引けない事態になっているかもしれない。
かつて「非暴力主義」を徹底して唱えたマハトマ・ガンディーが言うが如く、(相手の)暴力に(こちらが)暴力で応えればそこに節操はなくなるだろうし、かといって、無抵抗でいればこちらが殺害されてしまうかもしれない。それでも、そうした互いの抗争が続けば続くほど、行きつく先には、広島や長崎のような、相手を根こそぎ消滅させてしまうような<最終手段>の使用を招くことになる。
勿論、どのような兵器であっても相手を殺傷するためのものである以上、その使用は認められない。まして、広島・長崎級であっても瞬時に数十万人の命を奪えるような核兵器を使用すれば、双方が死滅するストーリーはどうしても避けられない。
それが分かっていて「使えない核兵器」を製造・増産し、<抑止力>などという美名で弁明、挙げ句に互いに相手を威嚇し合う。そのような行為が、何故まかり通るのだろう。否、それ以前に、何故、人は大義名分や自己防衛のために<殺し合い>をするのだろう?
「仕方ない」「やむを得ない」と幾ら<言い分>を主張したとしても、<殺し合う>本質は隠しようがない。
| 長崎 平和祈念像 |
ウクライナであろうがロシアであろうが、アフガニスタン、ミャンマーであろうが、最も大切にすべき選択肢の最後まで残るものは、<人の命>であってほしい。<人の命>は、<人>が自由に扱って良いものではない。妊娠、出産により生命が発生し誕生した<命>を、<人>が自在にコントロールしてはならない。仮に、<命>の<強制終了>を人が選べたとしても、医療を含め<命>の自在な調整に人為が及ぶことなどないからだ。
それを思えば、<人の命>を代償にしてまで、得るべき<もの>守るべき<もの>などないと言いたい。「領土」も「主権」も、命あっての物種(ものだね)だ。<人の命>と引き替えに血の色に染まった「領土」を守ったとして、そこに根を下ろし暮らしていく者に<安住の地>はない。何れ、また奪われるかもしれないからだ。
かように、どんな<大義>があったとしても、<人を殺し、殺される>行為に私は決して組みしないし、同調できない。
勿論、安住の地を求めて世界を永く彷徨い続けてきた民族や、常に近隣の大国に領土を侵害され衰滅を繰り返してきた国民にとっては、領土や主権の大切さは何ものにも代えがたいものであろう。その<価値>を否定するつもりは毛頭ない。
それでも、再生が効かない<人の命>以上に、それは<価値>あるものであろうか。
悲しいかな、現実の世の中には<人の命>に勝る<価値>が大手を振ってまかり通り、戦争や紛争は絶え間がない。それだけ<人の命>が軽んじられる世の中にまたなってきているのかもしれないが、であるからこそ、過去の戦争の愚かさは何度でも学び直さなければならない。<広島、長崎の悲劇>を、誰もが学ぶべきである。
どうか、ロシア側は勿論、ウクライナ側にも、一刻でも早く戦争を終結させる<着地点>を設けてほしい。<譲歩と妥協の重ね合い>であって構わないではないか。どれほどその着地点に納得がいかないとしても、今すぐ、抗争を<着地>させなければならない。戦争を終結しなければならない。何故なら、最も優先されるべきは、<人の命>だからである。
「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである(ガンディー)」「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげこ むうくふ:摩訶般若波羅蜜多心経)」
これらの言葉が、今こそ響いてならない...
| 「牧師の涙」 川上郁子著 長崎文献社 |
私がその男に心を奪われているとき、怪我が比較的軽いと思われる三十代ぐらいの女性が、その肩で支え歩いている同年齢ほどの女の人を激励しているのが聞こえた。
怪我も怪我。大怪我だ。爆風で飛び出した脳を自分の手で元にもどすなんて、何と強固な気性の持ち主だろう。あのピカッドン爆弾で人間の身にも心にも異状をきたしたのだ。生きようとする若い力が土壇場になって想像を超える行動をとらせたのだ。(左記書P18より)
