2022.08.22
そもそも、何故、原爆が重大問題なのだろうか?
勿論、戦争や兵器使用自体が、どれほど大義名分を付けたとしても「(大量)殺戮」や「(集団)殺人」行為そのものに違いない。そのため、その問への答えは第一義である戦争否定の論上にしか導き出されないのは明らかだが、それでも何故、原子爆弾が史上最悪の兵器として特筆されるべきなのであろうか。
前回ブログで、広島と長崎に投下された原爆の種類は違っていたことを書いた。
長崎市の被爆継承課と平和推進課が作成した公的資料(https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf)によると、広島型の原爆の核物質はウラン235、広島市中心部の上空約600mで炸裂し、TNT火薬16kt(キロトン)の爆発力に相当する。一方、長崎型の原爆は核物質がプルトニウム239、長崎市北部の上空約500mで炸裂。TNT火薬21ktの爆発力に相当する。
ウラン、プルトニウムという元素(物質を構成する最小単位のもの)に中性子を衝突させると原子核が2つに分かれ(核分裂)、エネルギーを放出する。この核分裂と同時に中性子が飛び出し、更に連続して核分裂が起こると、巨大なエネルギー(熱線・爆風・放射能照射)が発生する。このエネルギ-を兵器にしたのが原爆である。広島・長崎の原爆は、核物質の違いだけでなく、爆発と分裂の構造が違うものを製造し、使用された。
広島では、当時の人口約24万人中の73,884人(約31%)が死亡。負傷者74,909人(約31%)、被災者合計では148,793人(約62%)。対して長崎では、当時市内在住者約35万人中の14万人(40%)が死亡、負傷者79,130人(約23%)、被災者合計は219,130人(約63%)が推計されている。
数字だけ見ると規模はあまり違わないように見えるかもしれないが、罹災家屋数では長崎は広島の約4倍、全半壊数で約3倍、全焼失面積でも約2倍となっている。これらが意味することは、長崎型の原爆のほうが威力は相当大きかったということである。
私の手元に数冊の資料がある。何れも両資料館で購入したものであるが、広島では2冊の「図録」と書かれた資料を求めた。1冊目は2019年3月にまとめられ、2冊目は2020年12月にまとめられた、広島平和記念資料館の総合資料である。
そこには広島に原爆が投下された経緯や原爆による被害の状況、原爆自体の内容説明などが詳細に説かれているが、両資料には原爆の威力を説明するものとして、「熱線」「爆風」「放射線」の項目が継続して掲げられている(他には「光熱火災」など)。
「熱線」では、『...爆発の瞬間、空中に発生した火球は1秒後に直径280mの大きさとなり、約10秒間輝いた。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達した』とある。
この温度で直射されれば、あらゆる物質は溶け消滅してしまうし、爆心地から260m離れた建物の石段に腰かけていたらしい人物は一瞬で跡形もなくなり、黒い人影だけが石に焼き付いて残った。同じく600m以内にあった屋根瓦は溶けて表面が泡状に沸騰。同1.2km以内にいた人間は皮膚が焼きつくされ内臓に障害をきたし即死または数日後に死亡。同3.5km離れた地点で裸でいた人すら重大な火傷を負うなど、揚げたらキリがない惨状が記録されている。
「爆風」では、『炸裂の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、周りの空気が急激に膨張して、空気の壁と言えるような衝撃波が発生した...衝撃波は、爆発の10秒後には約3.7km先まで達していた。その圧力は、爆心地から500mの所で1㎡あたり19トンに達するという強大なものだった。』
その結果、家屋・建造物の倒壊は勿論、破裂したガラス片が弾丸のように飛び交い、爆心地から1.5km離れた家屋内にいた人の顔面にも大きな破片が衝突。血管や神経を損傷し顔面に大きな傷を残した。こうした飛散したガラス片などは、数年後に体内から摘出される事例もあるほど、甚大で深刻な被害を浴びせた。
しかし、何と言っても原爆の怖ろしさは「放射線」による被害であろう。
『原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では起こらない大量の放射線が放出され...人体に深刻な障害が及ぼされたこと...放射線は人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させると共に、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こした。』
この悲惨さをどのように表現し伝えたらよいか、私には見当も付かない。よって、「図録(2019年版)」に掲載される『死の斑点が出た兵士』の解説をほぼそのまま転載する。
| 「図録ヒロシマを世界に」 P68より |
『死の斑点が出た兵士(第一陸軍病院宇品分院で撮影。同日死亡/1945年9月3日)
21歳の兵士は、爆心地から1キロメートル以内の木造家屋内で被爆(8月6日)し、背中・右腹などに切傷を負い、治療を受けた。8月18日頭髪が脱毛、29日歯ぐきから出血、紫色の皮下出血斑が出始め、31日発熱。9月1日喉が痛み、物を飲み下せなくなり、同時に歯ぐきからの出血が止まらず、顔と上半身に皮下出血斑が多発。2日意識不明となり、3日午後9時30分死亡した。』
更に、放射線の怖ろしさは、「急性障害と後障害(「図録2020年版」P36)」にあるとも言える。『...被爆から年月が経過した後、放射線に起因する症状が出ることを後障害と呼ぶ...白血病の発生は被爆2~3年後に増加し始め、7~8年後に頂点に達した。特に若年で被爆した人の発症が多かった。その後、減少していくが現在でもその危険性は続いている。一方、その他のガンが発生するまでの潜伏期は長く、被爆5~10年後頃に増加が始まったのではないかと考えられている。放射線による影響については、現在でも十分に解明されていない...』
上記のように、原子爆弾という核物質を用いた兵器の使用は、その瞬時や短期間の殺戮や損傷のみならず、十年二十年以上に亘る後遺障害や関連疾患を体内に温存発症させ、かつ熱線や爆風などによる重症火傷や体組織の悪組成などを伴う。
広島の平和記念公園内にある「原爆死没者追悼平和祈念館」を見学した際、ちょうど女性被爆者の惨状を訴えるビデオが流れていた。その中で、被爆し顔面や体表面に重症火傷を負った女性が、その後の縁談などで如何に世の中から差別され、苦しめられたかを紹介していた。被爆程度は軽度であっても、こうした日常的な生活や人間関係にも重大な支障や問題が生じたことを知り、どこまでも核兵器の被害は絶えないと教えられる。
その上で、改めて、広島、長崎に原爆を投下した意味は何だったんだろうと問おう。
前出の「原爆はなぜ投下されたのか?(一問一答)」(広島平和教育研究所発行)によると、原爆投下の目的には、①対ソ連戦略説と②早期終戦説、それに③人体実験説や④国家予算説などがあるという。各説要点を述べる。
①:アメリカの原爆開発は常にソ連を警戒したものであった。ヨーロッパ戦線での実績から連合国側はソ連が参戦しなくても日本に勝てる見通しを持ったが、戦後の政治的パワーバランスを考慮し、ソ連に原爆の威力を見せつけたかった。よって、トルーマン大統領は、ポツダム宣言(英・米・中華民国による日本への降伏要求の最終宣言)発布前=日本が降伏する前で、加えてソ連が参戦する前に日本に原爆投下を投下したかった、というもの。
②:アメリカ政府見解に基づく説。『原爆は50万人ないし100万人の米国軍人の命を救った』との政府見解。これについて、原爆被害の惨状が明らかになるに連れ、救われたとされる米国軍人の数が意図的に増やされたという観測あり。
また、トルーマンは広島への原爆投下を『...初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目...これは、この攻撃でできるだけ一般市民を犠牲にしたくないと考えたから...私たちは戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ軍人の命を救うために原爆を使った』とアピールしたが、終戦後、一般市民が暮らす大都会への投下であったことが明らかとなり、欺瞞が露呈した。
1945年9月13日の米軍内部文書では、米軍の死傷者予想の発表数値を論議した経過が記録されているらしいが、広島の惨状をレポートした新聞記者の他、『日本が原爆投下前に降伏を求めていた事実を知った今、数もはっきりしない「多数の米国人」の命を救ったなどという主張は何だったのだろうか』と主張した週間ジャーナル誌の編集長など、多数のアメリカ人が原爆投下の批判を始めた、とのこと。
③:敗戦濃厚な日本への原爆投下の必要性を疑う意見もある中、投下は強行された。日本が降伏後にアメリカ政府が設けた「原爆傷害調査委員会」では、放射線量や放射能が人体に与える影響調査はしても治療は行っていない。また、米軍は被爆死亡者を解剖し、その人体の一部を本国に持ち帰っている。
広島・長崎とも人口密集地が目標となり投下されたが、原爆の効果・威力を正確に知るため、投下2ヶ月少し前から、投下対象都市への通常爆撃は禁止していた。原爆搭載機の他に、科学的調査観測機、写真撮影機を飛ばし、効果・威力を測定するラジオゾンデを投下していた等々。
④:原爆完成までにアメリカが注ぎ込んだ国家予算は約19~20億ドル(現、2兆5千億円以上)。開発ピーク時の総動員数約12万9千人。開発に関わった企業は多数・他分野。以上から、議会や国民の追求を逃れるために原爆投下に踏み切ったとの説もある、とのこと(但し、原爆開発は最高機密であったため議会にも報告外であった)。
以上の諸説が陰に陽に飛び交う中で、正確な投下理由は未だ明らかになっていない。事によったら幾つかの説が同時に存在し投下に至ったかもしれないが、しかし、以下の発言は私の疑問を更に深める。
『一発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった、という米国の歴史学者の認識が広がっている(鹿児島大学・木村朗)、という。広島への原爆投下の悲惨な結果を確認したうえでの長崎への原爆投下だった。従って、「原爆投下は新型兵器の威力を試し、その効果を確認するための実験であり、とりわけ人体への影響の測定という実験を重視したものではなかったのか」といわれる。』(「被爆体験の継承」山川剛著、長崎文献社)
こうした意見を伺うと、これはどう考えても<戦争の早期終結>を目的にした<やむを得ざる原爆投下であった>という解釈には、無理と嘘しか感じられない。
そんなことのために、長崎で言えば約15万人、広島では約20万人もの被爆者を出したのかと思うと、とてもいたたまれない。35万人という数字は、現在のアメリカでいえばルイジアナ州のニューオリンズ全域、同じく日本では島根県松江市か山口県下関市の全人口に相当し、その人々が一瞬にして死亡または重大傷害を負うに等しい。そんなことがあって良いはずがない...
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