2022年8月18日木曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 1

 2022.08.18

 今年もお盆の時期を迎えた。

 長野県長野市出身の私は、幼い頃、お盆のご先祖の霊の迎え送り儀礼として、お墓から家までの道筋を、干した白樺の皮を燃やして示す「かんば焼き」という行事をしていた。ここ高野山では、「切子灯籠」という木の枠を組み合わせた立方体風の灯籠を各お寺で灯し、ご先祖の霊を導くという。

 それら各地域のお盆行事が始まる前の先月初に,ある知り合いのお寺の方から、奥の院でそのお寺が管理されているエリア(33か所?)にあるお墓の掃除を手伝ってほしいと頼まれた。3年前に奥の院の用務員をしていた時は参道掃除をよくしたので概ね内容は想像できたが、お墓周りの掃除は初めてだったので、新たに経験することも多かった。

 その3年前は、広い参道に広範囲に無数に散乱する杉葉を除去するため、ブロー(掃除用のヘアドライヤーの親分みたいなやつ)で如何に効率よく葉を集め石見(いしみorいわみ:チリ取りの親分みたいなやつ)に大量にすくい袋に捨てるかとい水平方向の動線であった。しかし、お墓の場合は墓石の高さがあり、上に落ちている葉や枝を下に払い、その下の枯れたお供えの花や葉(高野山の場合は高野槇:まきが主体)を処分し、更に墓地面をきれいにするという垂直水平の三次元の動きを要した。加えて、隣の墓石と幅僅か5cm、深さ30cm以上ある隙間に落ちて積み重なった杉葉も外に掻き出す必要があったので、お墓掃除の大変さというものがよく分かった。

 どんなことでもそうだが、してみなければ分からない苦労や難しさ、求められる巧みさなどはかなりある。やってみたからこそ理解できたことは数えられない。それが、「お墓」という故人や先祖を偲ぶ最も象徴的な対象物を綺麗に掃除するという作業なので、「いい加減」な扱いはできなかった。

 杉葉は、長さ0.5~1cmほどの針状の葉が鋭角に一定方向に螺旋状に密集している。その最も短い1本は数cmだが、長いと太い枝に束になって付いていてそれがドサッと落ちている。また、奥の院の杉は、樹齢平均600年ほどのものが多いらしいが、もっと古い800年近く前のものではないかという大物もある。

 そうした大小様々な枝葉が、広い参道の石畳面に落ちていればブローの強い風力で集められるが、墓石周りの小石や雑草、土の上などに落ちていると、葉が開いている向きにいくら箒で掃いても動いてくれない。開いている側から根元に向かって逆に掃いて、初めて集められる。また、隣の墓石との僅かな隙間に落ちて半ば腐敗し、濡れて重さを増した杉葉を掻き出すと石見に山盛りにする。その重い石見を片手で持ち、袋にこぼさず入れる作業は、普段使わない筋や腱を十二分に駆使した。その清掃作業が終わり半月ほど経つが、両親指の付け根辺りを押すと未だに僅かな疼きを感じて、それらのきつかった作業を懐かしく思い出す。

 私の作業に先立って、草刈り機で全エリアを除草し全体の作業内容を詳しく教えて下さった方も気さくだったので、とても面白く仕事ができた。来年も機会があれば是非やってみたいと思わせてくれた。


 さて、お墓掃除は大変ではあったが、自分なりに丁寧に務め予定より早く終えられた。

 そうして片付いた墓石を見ると、どなたにも心安らかにご先祖をお迎えしていただきたいと感じる一方で、明らかにもう随分長い間どなたも墓参していないと思われるお墓がいくつかあり、対象的だった。墓石が単に故人を偲ぶ象徴であったとしても、汚れ壊れ傾いたまま放置されているのは如何なものだろう。そういうお墓のご先祖がその惨状をどのように思うだろうかと想像すると、やはり既に故人となっている姉と共に何故か比叡山に設けられた私の母親のお墓には、きちんとお参りをせねば...と反省させられた。


 しかし、今回は、その「お墓周りの掃除」をした後に私が経験した、ある<弔い>について書きたい。

 それは、このお盆の時期にどうしてもしなければならないと思ったこと...広島と長崎に行くことであった。その2か所の原爆被災者の慰霊をしてこなければ...という想いが強く湧いてきた。

 その週の初めにお墓周りの掃除を終え、週最後の土曜日に広島、翌週初めに長崎の、毎年の原爆慰霊式典をテレビで観ていた。しかし、今年に限り、「2か所の慰霊をしなければ...」と急に強く思った。理由は分からない。

 それを決めたのは8月11日。世はお盆の帰省ラッシュが始まった頃だ。

 混み合うこの時期でなくても...コロナ感染が心配される集団移動時期をずらしても良いのでは...などと思いつつも、「早く行け!」と心の中の何かが叫んだ。

 考えてみれば、広島は隣の山口県に所用で行く際に通り過ぎていた。また、長崎には、以前の障害者支援施設に勤めていた時、施設利用者の個人旅行のボランティア介助者として同行した地であった。しかし、そのどちらの時も、原爆が投下された地は訪ねていない。

 何故か、「死ぬまでには必ず、否、身体が問題なく動き、自由になる多少のお金がある今の内に」と、気が急いた。そして、翌日に第一宿泊地となる広島の宿と、乗車する新幹線の手配をネットでした。そして、その翌13日、当夜には高野山で「ろうそく祭り」があるという日の朝7:30過ぎに、団地の部屋を出た。

 2階の部屋から階下に降りる時、偶然出勤する隣家の方にお会いしたので『数日、家出してきます』とだけ伝えて高野山ケーブルに向かうバス停まで歩いた。

 交通機関の接続に不具合がないよう、予め見越した結果、午後1時前には広島に、その後、資料館のある「広島平和記念公園」には13:16には着いた。僅か6時間もかからずこの高野山からそこまで行ける現在の日本の交通機関能力には恐れ入ったが、その公園は広島駅から路面電車で20分足らずで行ける場所であった。

 

 広い道路の中央にある路面電車の停車場を降りると、信号待ちして程なく道を渡った。すると、すぐ公園の敷地内に入ったが、その目の前には「原爆ドーム」がドンッと立っていた。



「あ~! これが、テレビや写真で何度も見た原爆ドームだ!」と、改めて見つめる。

 ドームは広く仕切られた鉄の囲いの中に、意外にもヒッソリ立っていた。それは、これまでのどの画面でも擢(ぬき)んでて強く自己主張をしているように写っていたが、実物を見るとそうした強い自己主張はなかった。しかし、既に77年もの歳月を耐え忍びしっかり建ち続けた静かな<史実>だけが、粛々とそこに在った。

 午後の早い時間だったが訪問者も多く、「原爆ドーム」と刻まれた石碑の前で記念写真を取る観光客と思われる一群もいて、人だかりは殆ど絶えなかった。しかし、それらを全く意に介さないような無言の存在感は、<威圧>とは勿論違う、でも<観光名所>とは明らかに異なる<無言の主張>が感じられ、しかもそれは<静けさ>を佇ませていた。

 こうした建造物を、この70年近く私は殆ど拝見したことがない。

 例えば、高野山の「大門」や「金剛峯寺」、奥の院の「燈籠堂」などとも全く趣が違う。そこに<在って>も<無い>が如くの風情を、<静かに>醸し出している。

 「これが、約14万人とされる広島原爆の御霊の象徴か(1945年12月までの広島市の原爆死者推計数。当時、通勤・動員者・疎開者含め市内在住は約35万人、その実に4割が僅か5ヶ月弱で亡くなった)」と、呆然とした。

 ドームのすぐ隣には、原爆炸裂後、烈火の熱射を浴び、崩れ落ちる皮膚の熱さや枯渇する喉の乾きをうめようと、無数の人が飛び込んだ「本川」や「元安川」が流れていた。当時、放射線で汚染され<死の水>となった両川は、今はここ数日の雨で緑に染まっていた。しかし、その水辺にはそこで息絶えた膨大な死者の霊が見えるような気さえした。

 
 思わず肌に圧を感じながらも、それでも原爆ドームの周りをしっかり歩き、記憶しなければと思った。そして、これまで様々な公開画像で正面画面しか見えなかったドーム側面には、中に散乱する粉々になったコンクリート塊やグニャグニャに曲がった鉄骨などが剥き出しに、間近に見えた。
そうした様子を見るだけでも、熱射と爆風の威力の大きさが感じられ、「来てみなければ到底分からない」と強く実感した。


今回の「広島/長崎」慰霊の路も、きちんと何回かに分けて報告したい。

 でも、これだけは今、言いたい。

 <日本に産まれ、住むのであれば、一度は必ず、広島と長崎を訪れ、原爆の悲惨さを目の当たりにしてほしい。それが今、日本にいる者たちの義務である>と。

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