2022年12月3日土曜日

2022年9月8日木曜日

PLAN75

2022.09.08

 9月4日の毎日新聞朝刊に、人に勧められ観た「PLAN75(早川千絵監督映画)」の紹介と共に、テーマとなる人の生と死を改めて考える旨の短い記事が載っていた。

 その記事は、主演女優が最後に決断した「答え」を観客には示さない映画の作りもあり、『わかりやすい作品ではない。だから私は、ずっと考えている』とくくっていた。その映画の設定もさることながら、記事のまとめも中途半端に感じたので何となく気持ちが引っ掛かり、何故かほぼ6年以上振りに映画を観に行くことにした。

 そして、上映館をネットで探すと、自主独立系の名画座のような小規模映画館でしかやっていないのか、この近辺では大阪でも上映館がないどころか近畿地方で1か所だけ。それは、兵庫県宝塚市のミニシアターだった。それでも何とか観ようと、ネットでその劇場を確かめると、評判が良いのか(カンヌ国際映画祭出品予定作品)結構連日ほぼ予約が一杯状態。しかも、上映は9月8日で終了。私は数日前に、9月7日のチケットをネット予約した。

 そして、公共交通機関の経路を調べてみると、この高野山から片道約3時間半もかかる。ゲ、ゲェと思いながら、1日1本しかない正午からの上映時間に合わせると、自室を午前8時には出なければならない。上映所要時間1時間50分ほどの映画を観るためにほぼ片道4時間を往復。しかも「シニア料金1,200円」に対して交通費は往復4,400円。

 東京や神奈川にいた頃に比べ、これだけ「疎」な都市文化って何だろうと思いつつもとにかく上映館に向かった。地方の小規模都市と思われる兵庫県宝塚市売布(めふ)の決して大きくないショッピングビルの上階にある映画館は、全席50席の規模だったが当日は完全満席。予約なしで直接来られチケットを買えずに帰った方も数名いたが、一番後ろの壁際に臨時でパイプ椅子を数個出し鑑賞していただくほどの人気映画だった。


 さて、その映画は、近い将来の日本社会で、「高齢者層の増加に伴う社会的負担の大きさに鑑み、75歳以上の者には生と死を選んでもらう。その選択は何時でも変更可能とされるが、死を選んだ者には自由に使える見舞金?を支給し、最後は薬剤処置で安楽死を行う」という設定。主演の倍賞千恵子は相応の年齢になっているのだろうか。演技も自然で巧み。画面は誰もが惹きつけられる仕上がりで、確かに考えさせられるテーマと作りだった。

 全国の上映館全てで上映終了となっていないので詳しい設定や内容を明かせないが、78歳になる主人公を演ずる倍賞千恵子が「生か死か」の決断をするに当たり、下した結果は映画上明らかにされていない。しかし、その決断に至るプロセスをもっとしっかり描けなかったか、というのが私の率直な感想だ。


 どんな場合であっても、「生か死」を自分で選ぶ必要があることなど極めて稀で、もしその決断が避けられないとすれば例えようがなく厳しい判断になることは間違いない。これまで難病を含む重度の身体障がいがある方の入所施設での生活支援や、インド「死を待つ人の家」で数ヶ月行ったボランティアなどを通して、人の死や臨終にかなり多く接してきた私は、<人は、最期は、案外に静かに息を引き取っていく>と理解している。それはロウソクの火が燃え尽きる時の、大きな<揺らめき>を伴いながらも程なく静かに消え入る様に酷似している。そうした場面が、私の経験では多かった。

 それは、何かを大きく訴えることができないほど体力を失ってしまったからか、最期を峻別させるほどの意識が既にその人の體から失われているからなのか、それとも<生と死>の<境界>はそこに立ち入る者を否応なく無言にさせるからなのか...私には分からない。

 しかし、私が知る多くの人のそうした<最期>を思うと、その<静かな最期>に至るまでの心的過程には、他人には到底視えない七転八倒の苦悩、葛藤があったことは言うまでもない。勿論、私は特定の方の容態悪化から最期までに四六時中付き添い、つぶさに看たわけではない。ただ、認知障害のあった方を除くと、最期を迎えるまでには、泣いたり笑ったり、怒ったり絶望したり、無理難題を言い張ったり、信じたり悲観したり、楽観的になったり客観視したり、或いはこちらを慰めてくれたり...と、様々な感情暴露や想いの吐露があったことは事実である。それも一人二人ではない。程度の差こそあれ、<潮の満ち引き>を繰り返すように、誰もにそれらは現れたり消えたりしたが、やがて皆、次第に<静けさ>を増していった。

 

 今、私は、40数年やってきたこれまでの仕事の締めくくりのつもりで、ある国家資格取得のための受験勉強をしている。和歌山に移ってきてこれで2度目の挑戦だが、そのせいもあり、一人で自室に籠もることが多い。そのため、<独り>の時間に嫌でも向き合う。まして、部屋を出て10分歩くか歩かないうちに何件ものコンビニや商店があるような都会であればまだしも、地方の小都市にはそんな散歩を兼ねた身近な生活ポイントは決して多くない。

 そうでなくても、高齢者は<孤独>である。

 若い時のような家族構成ではなくなり(子供の独立・結婚、伴侶との生・死別等々)、若い頃のように遊びや趣味に打ち込める積極性やバイタリティ、体力は希薄になり、定年退職後の社会的活動への参加の機会は激減し、アルバイト・パートを含む就労機会からも排除される...。つまり、歳とともに家族・知人・友人等との人間関係や社会環境からは疎外、財力・資力は減失、体力・気力は衰退、身体機能は悪化というのが、平均的な高齢者の実像である。

 これらの状況が行き着く先は、高齢者の<孤独/孤立化>しかない。

 そういう<光景>は、私もこの歳(69歳)になるまで殆ど想像できなかったが、まさに映画の倍賞千恵子のように、追い出される間際の団地自室の薄暗いキッチンで、ポツンと椅子に独り座り不安を噛み締めている<老人の姿>そのものである。映画については、そのあたりの<高齢者の苦悩>を、倍賞千恵子にもっと訴えてもらいたかった。否、もっと<苦悩>が視えなければ、この映画のテーマに迫り得ないと感じた...。

 

 しかし、それは<高齢(になった)者>にしか、実は分からない。

 誰もがやがて辿る路であるにも拘わらず、<若い>人には<高齢者>はほぼ<視え>ない。その歳(生理体経過年数)と体力(身体機能年齢)、気力(精神力維持年齢)、加えて厳しい経済水準に至らなければ、<高齢者の苦悩>を捉えられる可能性は極めて低い。何故なら、若ければ<使える力>が有り余っていて、それが<使えなくなる>ことなどほぼ誰も考えられないからだ。

 それでも、そうした若者にもできることは、<高齢者>の実情を<想像>することである。<高齢(になった)者>を<想(い巡らす)像>(する)ことで、やがて自らが主体となり担う社会が否応なく取り組まざるを得ない本質課題を、<考え>始められる。

 だからこそ、高齢者はもっと社会にその実情を強く訴えなければいけないのかもしれない。それを受け、社会は<訴え>を感知するアンテナ=<センシビリティ>を研ぎ澄ませ、多様な人を包摂する<キャパシティ>を拓げられるのかもしれない。


 そうしたことを改めて感じさせる映画ではあったが、今回の上映館の観客のほぼ8割以上は中・高年齢層で、若い人はほんの数人だけであった。巷でどれだけ評判が良い映画であっても、若者が中心となる今後の社会の関心事の実態が<これ>であると教えられた機会でもあった。

 それを思うと、路はまだまだ遠い...



2022年8月25日木曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 5(了)

 2022.08.25

 何かに憑き動かされるように向かった広島と長崎。

 移動時間を含め、旅程は計4日。各2日2回ずつ両資料館を観覧したが、そこで得た知識や情報は、生まれて初めて接するものも多かった。

 知識や情報は、強い印象や要素を伴うものでなければ、中々記憶の深部に残らない。その意味で、実際に彼の地に出向き、足で歩き、目で見て耳で聞き、触れられるものには手で触れ、その物や周辺の臭いを嗅ぎ、空気や日差しの熱を肌に感じながら周った経験は、私にとって他に代えがたいものとなった。まして、対象は原爆の<証>である。

 この<原爆投下>という人間の最たる愚行を嫌ほど目の当たりにして、77年前の取り返しのつかない<過ち>を悔い、厳しく記憶に刻まなければならないのは確かだが、それなのに今、再び新たな<愚行>が繰り広げられている。

 ウクライナで既に半年も続いている戦争のことである。毎日のそのニュースを見聞きする度、悲しいほどの人間の<性>が恨まれる。


 2014年、ウクライナ南部クリミア半島を一方的に併合して以降、今年2月24日にウクライナ国境を破り未だに侵攻を続けているロシアには、一体どのような言い分があるというのだろう。そのウラジミール・プーチン大統領の発言からは、かつてのロシア主導の汎スラブ主義を彷彿とさせるような発言も垣間見える。

 例えば、アメリカのトマス・グリーンフィールド国連大使は、今年2月の国連安全保障理事会の席上で次のように指摘した。

 『ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、世界をロシア帝国が君臨していた時代に戻したいと考えている...プーチンが、ロシアはソビエト連邦以前のロシア帝国時代の領土に対して、その正当な権利を持っていると述べた』(BUSINESS INSIDER 2022.02.22)。

 プーチン大統領の真意は不明だが、第二次大戦以降過ぎてきた激動の歴史を見ると、それはあながちプーチンの妄想とばかりは言えないロシアの事情があるようにも見える。


 第二次大戦後の1949年、西ドイツの西ヨーロッパ連合加盟などを軸に西側自由主義諸国で結成された「北大西洋条約機構(NATO:政府間軍事同盟)」に対抗して、ソ連・東欧圏諸国は1955年に「ワルシャワ条約機構」を組織した。その後、東西冷戦の終結(1989)、東欧諸国の民主革命(同)、東西ドイツの統一(1990)などが推移して、ワルシャワ条約機構は1991年に解体した。

 その際、1989年12月に崩壊したソ連に代わり新生なったロシアは、軍事同盟であるNATOの解体を西側(アメリカと口頭で?)と約束したという。しかし、それは一向に実現されず、むしろ旧ソ連邦加盟諸国は全てNATOに加盟する、ソ連構成共和国であったバルト三国も2004年にNATO及びEU(経済・政治面を軸とするヨーロッパの連合体)に加盟するなどの事態に発展した。

 これにより、ロシアの自由主義圏化を危惧したプーチン大統領は、自国と国境を接しかつてのソ連邦の構成共和国であったウクライナを「最後の砦(緩衝地帯)」と捉え、親ロシア派勢力が居住する地区を軸に、<NATOに強制編入された>ウクライナの<(領土)開放>と称する侵攻を開始した。これが、ロシア側における今回の侵攻の本質に見える。

 一方、ウクライナ側からすれば、「自宅に暴漢が突然侵入し、自分たちの家財を破壊略奪、家族や自分を傷付け凌辱し、誰彼構わず殺し回ったら当然それに抵抗する」と、自己防衛行為かつ国際法上も認められる正当な権利の行使であることを主張し、猛反撃に出た。

 この主張は、一般の市民感覚、国民感情からすればしごく当然、正当で、事実、西側諸国を中心とした世界各国の世論の多くは、当初からウクライナを支持し応援している。ただ、ロシアとウクライナのキエフ公国(12~15世紀にあった国)からのルーツや分離、独立の経緯を考えると、それは歴史認識や理解の違いからくる国家利害の結果と単純化できない。

 しかし、ウクライナにおける戦争は、現在も尚、留まる気配が見えない。それどころか、侵攻しているロシア側、防衛奪還しようとしているウクライナ側双方が、日増しに戦闘を激化し過激な状況に陥っている。

 侵攻しているロシア側は言うに及ばす、<当然かつ正当な自己防衛対処>をしているウクライナ側にとっても、その戦争がずっと続けば、何れ過剰な抵抗や必要以上の反撃に発展する可能性は否定できない。否、むしろそれに近い状況が、現在のウクライナで起こっていないと、誰が言えるだろう。まして、ウクライナには、最新兵器や高性能軍備品を含む西側諸国からの圧倒的支援が集中しており、まるでNATOとロシアの代理戦争がウクライナで起こっているようにも見える。既にここまで来ると、ウクライナにとっても引くに引けない事態になっているかもしれない。


 かつて「非暴力主義」を徹底して唱えたマハトマ・ガンディーが言うが如く、(相手の)暴力に(こちらが)暴力で応えればそこに節操はなくなるだろうし、かといって、無抵抗でいればこちらが殺害されてしまうかもしれない。それでも、そうした互いの抗争が続けば続くほど、行きつく先には、広島や長崎のような、相手を根こそぎ消滅させてしまうような<最終手段>の使用を招くことになる。

 勿論、どのような兵器であっても相手を殺傷するためのものである以上、その使用は認められない。まして、広島・長崎級であっても瞬時に数十万人の命を奪えるような核兵器を使用すれば、双方が死滅するストーリーはどうしても避けられない。

 それが分かっていて「使えない核兵器」を製造・増産し、<抑止力>などという美名で弁明、挙げ句に互いに相手を威嚇し合う。そのような行為が、何故まかり通るのだろう。否、それ以前に、何故、人は大義名分や自己防衛のために<殺し合い>をするのだろう?

 「仕方ない」「やむを得ない」と幾ら<言い分>を主張したとしても、<殺し合う>本質は隠しようがない。

 

長崎 平和祈念像
 自分の意見と異なれば相手の主張を否定するまではあったとしても、それを力付くで屈服させ、それが通らなければ相手を抹殺する...これが人間の<本質>なのか。そうであれば、広島・長崎の悲劇は、何れまた繰り返されるしかない。

 ウクライナであろうがロシアであろうが、アフガニスタン、ミャンマーであろうが、最も大切にすべき選択肢の最後まで残るものは、<人の命>であってほしい。<人の命>は、<人>が自由に扱って良いものではない。妊娠、出産により生命が発生し誕生した<命>を、<人>が自在にコントロールしてはならない。仮に、<命>の<強制終了>を人が選べたとしても、医療を含め<命>の自在な調整に人為が及ぶことなどないからだ。

 それを思えば、<人の命>を代償にしてまで、得るべき<もの>守るべき<もの>などないと言いたい。「領土」も「主権」も、命あっての物種(ものだね)だ。<人の命>と引き替えに血の色に染まった「領土」を守ったとして、そこに根を下ろし暮らしていく者に<安住の地>はない。何れ、また奪われるかもしれないからだ。

 かように、どんな<大義>があったとしても、<人を殺し、殺される>行為に私は決して組みしないし、同調できない。

 勿論、安住の地を求めて世界を永く彷徨い続けてきた民族や、常に近隣の大国に領土を侵害され衰滅を繰り返してきた国民にとっては、領土や主権の大切さは何ものにも代えがたいものであろう。その<価値>を否定するつもりは毛頭ない。

 それでも、再生が効かない<人の命>以上に、それは<価値>あるものであろうか。

 悲しいかな、現実の世の中には<人の命>に勝る<価値>が大手を振ってまかり通り、戦争や紛争は絶え間がない。それだけ<人の命>が軽んじられる世の中にまたなってきているのかもしれないが、であるからこそ、過去の戦争の愚かさは何度でも学び直さなければならない。<広島、長崎の悲劇>を、誰もが学ぶべきである。

 どうか、ロシア側は勿論、ウクライナ側にも、一刻でも早く戦争を終結させる<着地点>を設けてほしい。<譲歩と妥協の重ね合い>であって構わないではないか。どれほどその着地点に納得がいかないとしても、今すぐ、抗争を<着地>させなければならない。戦争を終結しなければならない。何故なら、最も優先されるべきは、<人の命>だからである。


 「非暴力運動において一番重要なことは、自己の内の臆病や不安を乗り越えることである(ガンディー)」「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖(しんむけいげ むけいげこ むうくふ:摩訶般若波羅蜜多心経)」

 これらの言葉が、今こそ響いてならない...

「牧師の涙」 川上郁子著
長崎文献社


 私がその男に心を奪われているとき、怪我が比較的軽いと思われる三十代ぐらいの女性が、その肩で支え歩いている同年齢ほどの女の人を激励しているのが聞こえた。

「ホラッ、しっかりせんね、シャンとせんね。赤迫のトンネル工場の前で、爆風で吹き飛ばされて倒れとんなった女学生さんのごた人が、自分の額に垂れ下がっとった脳のごたっもんば、自分の手で頭ん中にもどして、立ち上がんなったよね。
あんなんの怪我に比べればあんたの右足の傷は屁のごたっもんやかね。がんばらんね」

 怪我も怪我。大怪我だ。爆風で飛び出した脳を自分の手で元にもどすなんて、何と強固な気性の持ち主だろう。あのピカッドン爆弾で人間の身にも心にも異状をきたしたのだ。生きようとする若い力が土壇場になって想像を超える行動をとらせたのだ。(左記書P18より)



2022年8月23日火曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 4

 2022.08.23

 広島と長崎には、それぞれ資料館が設置されている。

 そこでは、原爆の詳細な関連記録を収集、保管し、『原爆による被害の実相を世界中の人々に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため(「図録ヒロシマを世界に 2019年度版」はじめにから)』、英語表記を含め、外国からの観覧者にも対応している。

 その膨大な数の遺留品や写真、模型などの展示物には、多くのポイント毎に音声ガイダンスを聴取できる仕組み(有料)も設けられ、観覧する者の心をグッと惹きつける。

 しかし、その広い館内のブース毎に分かれた展示物を目や耳で確かめていくと、相当程度気持ちが揺さぶられるし、一周りしてそれらの悲惨さや残酷さを受け留め続けると、正直、心身ともにグッと重さがのしかかる。

 私が訪れた時季はちょうどお盆の真っ最中で、意外にも学齢期の子供連れも多くいた。

 館内はそれなりに混んで、1つの展示前で長く留まることはできず緩やかに波に押されたが、幸い騒がしさはなく静かに観覧することができた。しかし、訪問者の中には展示物をただ通り過ぎていくだけの家族や写真撮影だけに夢中になっている子、更に原爆被害の実態を現実のものと理解できないためか、案外普通の表情で通り過ぎる子が多く、幼い子ども連れで原爆資料館に<見に来る>ことが良いのかどうか、私には分からなかった。

 ただ、それらの子の中に1人2人、悲壮な展示写真を見るのが苦しかったのか、顔を曇らせ、『早く出よ~ヨ...』と親を催促する小学生高学年くらいの子もいた。私にはそうした子のほうがよっぽどノーマルな感受性を持っているように感じられ、少しホッとした。

 そして、こうした死と表裏する真底の悲惨さを受け留めるには、<見る>側に今ある<生>の<有り難さ=difficulty>や<生きる>ことへの<自覚>或いは<覚悟>のようなものを求められるような気がして、重い気持ちの反面、しっかり歴史を<見>なければと目を開いた。


 広島では資料館が設置される「平和記念公園」の敷地が広く続いていて、園内には「原爆ドーム」を筆頭に、平和の門、平和祈念館、死没者慰霊碑、平和の灯、原爆の子の像などが、園周囲には本川や元安川が流れていて、公園を一望できる環境にある。

広島平和記念公園 周辺マップ

長崎 よりみちマップ・へいわまち

 





 また長崎でも、広島同様「平和公園」が長く続いていて、追悼平和祈念館や平和記念像、平和の泉があり、少し離れてやはり被爆した「浦上天主堂」が立っている。

 それらの環境の中で、広島にもあるのであろうが、長崎ではメジャーな被爆地ではない、旧制の国民学校で現在も現役小学校として活動している2つの学校を見学した。というのも、その学校内には生徒への平和教育教材を兼ねた「原爆資料室(原爆遺跡)」があるからだった。

 私は、長崎駅でいただいた手作りの市内マップの中に偶然この学校が書かれていて存在を知ったのだが、原爆資料館からそれぞれ徒歩20~30分程かかる学校を訪ねてみた。それは「長崎市立山里小学校(旧、山里国民学校)」と「長崎市立城山小学校(旧、城山国民学校)」である。

 この2校には、原爆投下の同時刻、教職員が各30名ほどいたが生存者は各3~4名ほど。児童は当時、空襲を避けるため「隣組学習」が行われて通学しておらず、生徒の殆どは自宅やその周辺で被爆死したとのこと。山里小学校では児童1,581人中約1,300人が自宅で、城山小学校では児童約1,500人中約1,400人が自宅で、亡くなっている。

 長崎医大の医者で爆心地から700m離れた大学診察室で自らも被爆し、右側頭動脈切断の重症を負いながらも被爆者救護に尽力した永井隆博士が、原爆関連図書を出版した印税を両校に寄贈し、それぞれに桜の植樹を施した通学路「永井坂」が設けられている。その永井坂を始め、両校には原爆投下前の学校の様子と対比した原爆投下後の惨状、被爆者の遺品や関連資料、校舎内に備えた「防空壕」、また幼かった子らへの慰霊碑などが備えられ、一般公開されている。

 しかし、私が驚いたのは、その両校が今も現役で機能していることであった。

 現在は原爆投下から77年経っているが、山里小学校、城山小学校とも、被爆から3ヶ月後には別場所で授業を再開している。そして、それぞれ被爆から5年後には被爆校舎を修復、落成したが、山里小学校は同44年後に新校舎を建設し、そちらに移行した。

 同じく城山小学校は被爆3年後には同校を復興させ、被爆校舎修復後の翌年(被爆6年後)には被爆児童養護のため、特別学級(原爆学級)を編成している。そして、54年後からは修復された被爆校舎を再利用または開館した。

 その事実を前にした時、放射線の影響をよく知らなかった私は、修復されたとはいえ被爆校舎が現役で使われていることに驚き、「放射能の影響はないのだろうか?」と単純な疑問を抱いた。しかし、それは広島、長崎の残留放射線量に疑問を抱くことに等しく、その疑問には正確に答を得てしっかり理解すること、間違ってもあらぬ偏見を産み出すような真似をしてはならないと思い直し、直ちに公的資料を調べた。

 その結果を私が下手に要約する前に、まず公的機関の同回答に相当するHPをご覧いただきたい。


広島や長崎には今でも放射能が残っているのですか?」

回答:広島市市民局 国際平和推進部 平和推進課 https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/faq/9455.html

「原爆放射線について」

回答:厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15e.html

「福島第一原子力発電所事故 Q&A」Q11

回答:放射線影響研究所 chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.rerf.or.jp/uploads/2017/09/fukushima_qa.pdf

「一般の皆様へ 放射線Q&A」

回答:長崎大学原爆後障害医療研究所 https://www.genken.nagasaki-u.ac.jp/abdi/publicity/radioactivity_qa.html#a05

「あれから10年、2021年の福島の「今」(後編)」

回答:経済産業省 資源エネルギー庁 https://www.enecho.meti.go.jp/about/special/johoteikyo/fukushima2021_02.html

「原爆と原発の違いについて」

回答:市民放射能測定データサイト https://minnanods.net/learn/nuclear-bombs-powerplants/about-nuclear-bomb-powerplant.html


 上記に基づき、私が理解した要点は以下。

1)通常、地球上の自然界には、宇宙や大地から飛来、飛散し、また食物から発生する放射線(自然放射線)もあるが、人体への影響はない。

2)上記の他に、日常生活上受ける放射線には「人工放射線」があり、医療分野では胸部CTスキャンや集団検診時などのレントゲン、他分野では原子力発電所周辺の放射線量などがある。

3)広島・長崎で原爆が炸裂した際に発生したエネルギーの5%は「初期放射線」で、人体に甚大な影響(死亡・重症疾患等)を与えた。爆心1km以内の直接被爆者で生存者はほぼ皆無。

4)初期放射線は爆心地から遠くなるほど減少し、長崎では爆心地から3.5km付近で1.0ミリシーベルトまで減少(一般公衆の年間被爆総量の限度ライン相当)した。胸部レントゲン撮影時の放射線量は、同爆心地から4km付近の放射線量と同じ程度。

5)また、初期放射線の他に、爆発時発生したエネルギーの10%は「残留放射能」となった。それは、爆発後24時間で残留放射線全量の80%が放出され、その後は短期間で急速に減少した。長崎では爆心地から100m地点で、投下24時間後には3万分の1にまで減少した。

6)(残留)放射線については、戦後60年に亘る科学者たちの被爆地の土や建築資材等を採取、調査してきたデータに基づいている。科学的検証に基づいた最も信頼できるデータによっているので、原爆の威力を過小評価しているわけではない。

 以上から、爆心地からの距離にもよるが、爆発時に発生した初期放射線は元より、その後の残留放射線も爆発後数日を経た時点でほぼ無化された(≒自然界レベルまで減少)と解釈してよいことが分かる.そうであれば、広島、長崎での被爆校舎の再利用や日常生活を送る上で放射線量が問題となることはまずないと言える。


 対して、福島の原発事故から既に10年以上経つが、未だ福島には帰還困難区域(立入禁止区域)が設けられ、放射能汚染が心配される事態が続いているのは何故であろうか。

 福島第一原子力発電所では、1号・2号・3号機で「水素爆発」が起こったが、『同じウランやプルトニウムを用いても、原子炉と原爆は核分裂によって生じるエネルギー生産の規模や制御の方法が異なる(長崎大学原爆後障害医療研究所HP)』ことから、一概には比較できないらしい。確かに「原爆と原発の違いについて(市民放射能測定データサイト)」比較すれば、福島第一原発事故のほうが放射性物質の放出量はかなり大きいようだが、『原爆は熱線、爆風、中性子線による影響があり、原発事故とは性質が大きく違う。影響を(放射性物質の)放出量で単純に比較するのは合理的でない(原子力安全・保安院)』との主張がある。

 加えて、『現在(2021年4月時点)の福島第一原発では、構内の96%でどこにでもあるような作業服で行き来し、作業を行うことができる(経済産業省 資源エネルギー庁HP/以下『』は同様)』 更に、2020年2月時点の周辺住民の視察でも、『皆さんが私服で建屋に近付いた』

 その一方で、『福島第一原発の原子炉建屋の使用済み燃料プールの中には燃料は残っている』し、『原子炉内部の核燃料が溶け、様々な構造物と混じりながら冷えて固まった「燃料デブリ」も存在している』ため、『原子炉建屋の中がどうなっているか、まだ正確に分からない』状態。そのため、『福島第一原発の廃炉作業には、事故の発生後30~40年という長い時間がかかると考えられている』とのこと。

「トランクの中の日本 P96 ジョー・オダネル著」
 このように、原子爆弾爆発と原子炉事故とは明確に異なるとのことだが、核物質(分裂)を用いた全ての行いには、極めて重大で深刻な事態を招くリスクが常に付きまとうことをしっかり認識していなければならない。

 広島、長崎という、世界で唯一の原爆投下を被った被爆国として、その鉄則を忘れたかのような事故を起こした責任は極めて重大だし、この<愚行>を二度と繰り返してはならないと、私たち市民が強く自覚すべきではないか。




2022年8月22日月曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 3

2022.08.22

 そもそも、何故、原爆が重大問題なのだろうか?

 勿論、戦争や兵器使用自体が、どれほど大義名分を付けたとしても「(大量)殺戮」や「(集団)殺人」行為そのものに違いない。そのため、その問への答えは第一義である戦争否定の論上にしか導き出されないのは明らかだが、それでも何故、原子爆弾が史上最悪の兵器として特筆されるべきなのであろうか。

  前回ブログで、広島と長崎に投下された原爆の種類は違っていたことを書いた。

 長崎市の被爆継承課と平和推進課が作成した公的資料(https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf)によると、広島型の原爆の核物質はウラン235、広島市中心部の上空約600mで炸裂し、TNT火薬16kt(キロトン)の爆発力に相当する。一方、長崎型の原爆は核物質がプルトニウム239、長崎市北部の上空約500mで炸裂。TNT火薬21ktの爆発力に相当する。

 ウラン、プルトニウムという元素(物質を構成する最小単位のもの)に中性子を衝突させると原子核が2つに分かれ(核分裂)、エネルギーを放出する。この核分裂と同時に中性子が飛び出し、更に連続して核分裂が起こると、巨大なエネルギー(熱線・爆風・放射能照射)が発生する。このエネルギ-を兵器にしたのが原爆である。広島・長崎の原爆は、核物質の違いだけでなく、爆発と分裂の構造が違うものを製造し、使用された。

 広島では、当時の人口約24万人中の73,884人(約31%)が死亡。負傷者74,909人(約31%)、被災者合計では148,793人(約62%)。対して長崎では、当時市内在住者約35万人中の14万人(40%)が死亡、負傷者79,130人(約23%)、被災者合計は219,130人(約63%)が推計されている。

 数字だけ見ると規模はあまり違わないように見えるかもしれないが、罹災家屋数では長崎は広島の約4倍、全半壊数で約3倍、全焼失面積でも約2倍となっている。これらが意味することは、長崎型の原爆のほうが威力は相当大きかったということである。

 

 私の手元に数冊の資料がある。何れも両資料館で購入したものであるが、広島では2冊の「図録」と書かれた資料を求めた。1冊目は2019年3月にまとめられ、2冊目は2020年12月にまとめられた、広島平和記念資料館の総合資料である。



 そこには広島に原爆が投下された経緯や原爆による被害の状況、原爆自体の内容説明などが詳細に説かれているが、両資料には原爆の威力を説明するものとして、「熱線」「爆風」「放射線」の項目が継続して掲げられている(他には「光熱火災」など)。

 「熱線」では、『...爆発の瞬間、空中に発生した火球は1秒後に直径280mの大きさとなり、約10秒間輝いた。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達した』とある。

 この温度で直射されれば、あらゆる物質は溶け消滅してしまうし、爆心地から260m離れた建物の石段に腰かけていたらしい人物は一瞬で跡形もなくなり、黒い人影だけが石に焼き付いて残った。同じく600m以内にあった屋根瓦は溶けて表面が泡状に沸騰。同1.2km以内にいた人間は皮膚が焼きつくされ内臓に障害をきたし即死または数日後に死亡。同3.5km離れた地点で裸でいた人すら重大な火傷を負うなど、揚げたらキリがない惨状が記録されている。

 「爆風」では、『炸裂の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、周りの空気が急激に膨張して、空気の壁と言えるような衝撃波が発生した...衝撃波は、爆発の10秒後には約3.7km先まで達していた。その圧力は、爆心地から500mの所で1㎡あたり19トンに達するという強大なものだった。』

 その結果、家屋・建造物の倒壊は勿論、破裂したガラス片が弾丸のように飛び交い、爆心地から1.5km離れた家屋内にいた人の顔面にも大きな破片が衝突。血管や神経を損傷し顔面に大きな傷を残した。こうした飛散したガラス片などは、数年後に体内から摘出される事例もあるほど、甚大で深刻な被害を浴びせた。


 しかし、何と言っても原爆の怖ろしさは「放射線」による被害であろう。

 『原子爆弾の特徴は、通常の爆弾では起こらない大量の放射線が放出され...人体に深刻な障害が及ぼされたこと...放射線は人体の奥深くまで入り込み、細胞を破壊し、血液を変質させると共に、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の内臓を侵すなどの深刻な障害を引き起こした。』

 この悲惨さをどのように表現し伝えたらよいか、私には見当も付かない。よって、「図録(2019年版)」に掲載される『死の斑点が出た兵士』の解説をほぼそのまま転載する。

「図録ヒロシマを世界に」
P68より


『死の斑点が出た兵士(第一陸軍病院宇品分院で撮影。同日死亡/1945年9月3日)

 21歳の兵士は、爆心地から1キロメートル以内の木造家屋内で被爆(8月6日)し、背中・右腹などに切傷を負い、治療を受けた。8月18日頭髪が脱毛、29日歯ぐきから出血、紫色の皮下出血斑が出始め、31日発熱。9月1日喉が痛み、物を飲み下せなくなり、同時に歯ぐきからの出血が止まらず、顔と上半身に皮下出血斑が多発。2日意識不明となり、3日午後9時30分死亡した。』

 更に、放射線の怖ろしさは、「急性障害と後障害(「図録2020年版」P36)」にあるとも言える。『...被爆から年月が経過した後、放射線に起因する症状が出ることを後障害と呼ぶ...白血病の発生は被爆2~3年後に増加し始め、7~8年後に頂点に達した。特に若年で被爆した人の発症が多かった。その後、減少していくが現在でもその危険性は続いている。一方、その他のガンが発生するまでの潜伏期は長く、被爆5~10年後頃に増加が始まったのではないかと考えられている。放射線による影響については、現在でも十分に解明されていない...』

 上記のように、原子爆弾という核物質を用いた兵器の使用は、その瞬時や短期間の殺戮や損傷のみならず、十年二十年以上に亘る後遺障害や関連疾患を体内に温存発症させ、かつ熱線や爆風などによる重症火傷や体組織の悪組成などを伴う。

 広島の平和記念公園内にある「原爆死没者追悼平和祈念館」を見学した際、ちょうど女性被爆者の惨状を訴えるビデオが流れていた。その中で、被爆し顔面や体表面に重症火傷を負った女性が、その後の縁談などで如何に世の中から差別され、苦しめられたかを紹介していた。被爆程度は軽度であっても、こうした日常的な生活や人間関係にも重大な支障や問題が生じたことを知り、どこまでも核兵器の被害は絶えないと教えられる。


 その上で、改めて、広島、長崎に原爆を投下した意味は何だったんだろうと問おう。

 前出の「原爆はなぜ投下されたのか?(一問一答)」(広島平和教育研究所発行)によると、原爆投下の目的には、①対ソ連戦略説と②早期終戦説、それに③人体実験説や④国家予算説などがあるという。各説要点を述べる。

①:アメリカの原爆開発は常にソ連を警戒したものであった。ヨーロッパ戦線での実績から連合国側はソ連が参戦しなくても日本に勝てる見通しを持ったが、戦後の政治的パワーバランスを考慮し、ソ連に原爆の威力を見せつけたかった。よって、トルーマン大統領は、ポツダム宣言(英・米・中華民国による日本への降伏要求の最終宣言)発布前=日本が降伏する前で、加えてソ連が参戦する前に日本に原爆投下を投下したかった、というもの。

②:アメリカ政府見解に基づく説。『原爆は50万人ないし100万人の米国軍人の命を救った』との政府見解。これについて、原爆被害の惨状が明らかになるに連れ、救われたとされる米国軍人の数が意図的に増やされたという観測あり。

また、トルーマンは広島への原爆投下を『...初の原爆が軍事基地のある広島に投下されたことに注目...これは、この攻撃でできるだけ一般市民を犠牲にしたくないと考えたから...私たちは戦争の苦しみを終わらせ、何千人もの若いアメリカ軍人の命を救うために原爆を使った』とアピールしたが、終戦後、一般市民が暮らす大都会への投下であったことが明らかとなり、欺瞞が露呈した。

1945年9月13日の米軍内部文書では、米軍の死傷者予想の発表数値を論議した経過が記録されているらしいが、広島の惨状をレポートした新聞記者の他、『日本が原爆投下前に降伏を求めていた事実を知った今、数もはっきりしない「多数の米国人」の命を救ったなどという主張は何だったのだろうか』と主張した週間ジャーナル誌の編集長など、多数のアメリカ人が原爆投下の批判を始めた、とのこと。

③:敗戦濃厚な日本への原爆投下の必要性を疑う意見もある中、投下は強行された。日本が降伏後にアメリカ政府が設けた「原爆傷害調査委員会」では、放射線量や放射能が人体に与える影響調査はしても治療は行っていない。また、米軍は被爆死亡者を解剖し、その人体の一部を本国に持ち帰っている。

 広島・長崎とも人口密集地が目標となり投下されたが、原爆の効果・威力を正確に知るため、投下2ヶ月少し前から、投下対象都市への通常爆撃は禁止していた。原爆搭載機の他に、科学的調査観測機、写真撮影機を飛ばし、効果・威力を測定するラジオゾンデを投下していた等々。

④:原爆完成までにアメリカが注ぎ込んだ国家予算は約19~20億ドル(現、2兆5千億円以上)。開発ピーク時の総動員数約12万9千人。開発に関わった企業は多数・他分野。以上から、議会や国民の追求を逃れるために原爆投下に踏み切ったとの説もある、とのこと(但し、原爆開発は最高機密であったため議会にも報告外であった)。


 以上の諸説が陰に陽に飛び交う中で、正確な投下理由は未だ明らかになっていない。事によったら幾つかの説が同時に存在し投下に至ったかもしれないが、しかし、以下の発言は私の疑問を更に深める。

 『一発目の原爆投下の必要性をどのように考えるかはともかく、8月9日に長崎に落とされた二発目の原爆は、ほぼ間違いなく不必要なものだった、という米国の歴史学者の認識が広がっている(鹿児島大学・木村朗)、という。広島への原爆投下の悲惨な結果を確認したうえでの長崎への原爆投下だった。従って、「原爆投下は新型兵器の威力を試し、その効果を確認するための実験であり、とりわけ人体への影響の測定という実験を重視したものではなかったのか」といわれる。』(「被爆体験の継承」山川剛著、長崎文献社)

 こうした意見を伺うと、これはどう考えても<戦争の早期終結>を目的にした<やむを得ざる原爆投下であった>という解釈には、無理と嘘しか感じられない。

 そんなことのために、長崎で言えば約15万人、広島では約20万人もの被爆者を出したのかと思うと、とてもいたたまれない。35万人という数字は、現在のアメリカでいえばルイジアナ州のニューオリンズ全域、同じく日本では島根県松江市か山口県下関市の全人口に相当し、その人々が一瞬にして死亡または重大傷害を負うに等しい。そんなことがあって良いはずがない...


 

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 2

 2022.08.22

東京湾、川崎、横浜、

名古屋、大阪、京都、神戸、広島、呉、下関、山口、

八幡、小倉、熊本、福岡、長崎、佐世保

 上記の17の地域や都市が何であるかを、ご存知だろうか?

 これらは、アメリカ合衆国(以下、アメリカと略)のルーズベルト大統領が、1941年10月に日本への原子爆弾投下を正式に決定したマンハッタン計画の投下目標として、1945年4月27日に研究対象に上がった場所である。

 その17地域が、数日後の検討会議で「京都・広島(AA級目標)、横浜・小倉兵器廠(A級目標)」に絞られ、更に半月後の5月28日会議で、「京都、広島、新潟」が原爆投下対象に選出された。

 その後、ルーズベルトに次いで大統領になったトルーマンは、その2ヶ月後(1945年7月25日)に「8月3日以降、広島、小倉、新潟、長崎の何れか1か所に原爆投下を」と命令した。

 その結果、1945年8月6日午前1時45分、広島型原爆を搭載したエノラ・ゲイ号(原爆投下機)他2機が離陸。1時間前に先発した気象観測機が午前7時過ぎに広島上空に達した時、広島の天候は快晴だったため『歴史的爆撃に支障なし』とエノラ・ゲイ号に連絡。同日8時10分エノラ・ゲイ号は広島上空にに達し、目標地点である「相生橋」に8時15分、原爆を投下した。

 つまり、広島に投下された原爆は、当日天候が悪ければ小倉または新潟に投下された可能性も大きかったと言える。

 また、第二の原爆は、第一目標が小倉市(旧の福岡県東部、現在の北九州市小倉北・南区)、第二目標が長崎市であった。しかし、8月9日小倉上空は朝霞がかかりよく照準設定できなかったため、11時01分、長崎に原爆が投下された。

 原爆の投下目標となった理由は、日本軍の重要な兵器廠や基地があった、または造船等の工業地帯であったことが共通するが、投下の最終的な判断は当日の天候や気象条件に拠るところが大きく、つまり、広島、長崎でなくても、<最初にあげた地域はどこでも被爆地になった可能性はあった>ということである。

 そのため、このブログの読者の住所地もしくは付近が対象となっていたら、原爆の投下がどれだけ自分たちの人生や生涯を狂わせる原因となっていたかを、想像してほしい。否、それ以前に、貴方は今、この世に存在していなかったかもしれない。


 広島と長崎では、原爆の種類も違っていた!


広島投下原爆リトル・ボーイ

長崎投下原爆ファット・マン

 広島に投下された原爆は、通称「リトル・ボーイ」と言われ、長さ約3m、直径約0.7m、重さ約4tであった。そして、長崎に投下された原爆は通称「ファット・マン」と呼ばれ、長さ約3.2m、直径約1.5m、重さ約4.5tであった。つまり、第二の長崎投下のものの方が、かなり大きかった。

 詳しい資料にまだ目を通せていないが、広島に次いで長崎に2回目を投下した理由、更に2回目の長崎に投下したものが一層威力が大きいものであった理由、或いはそもそも何故原子爆弾を投下しようとしたかについて、どうやら私たちが普通理解しているような「戦争を早期に終結させるため」という理由より以上に、関係各国で働いた思惑があったらしい...。

 何より、当時の日本帝国と同盟関係にあったナチスドイツは、1945年5月7日に連合国側に降伏しているが、アメリカはその約4年も前に日本への原爆投下を決定している。確かに、アメリカが原爆実験に成功したのは1945年7月16日のようだが、では何故4年も前に日本への投下を決めていたのか?

 それは、投下した原爆が不発に終わった場合、同じく原爆開発を進めていたドイツであればその開発に逆利用される(日本にはその恐れはない)との懸念があったからという説もあるようだが、そればかりではない大国のパワーバランスや政治的な駆け引きなどが激しく行き交い、「原子爆弾」という最終兵器が構想、開発されたのではないかと思われる。

 驚くことに、当時、原爆開発は日本を含む数カ国が行っていたとの資料、文献も明らかになっているようで、これらの事情を知れば、<日本の2都市に(戦争終結のため)仕方なく原爆は投下されたという理解は余りにも単純で短絡>と考え直さざるを得ない。

 これらを含め、日本に住む者は、原爆投下の経緯や現状をなるべく詳しく知らなければならないと、今、私は思っている。自分なりに継続して考えたい。


「原爆はなぜ投下されたのか?(一問一答)」

https://www.hiro-gakkouseikyou.or.jp/gakkouyohin/book/peacebook/112

「立花隆 長崎を語る」https://www.e-bunken.com/shopdetail/000000000411/

※上記は、広島、長崎の両資料館から入手した資料。



 

2022年8月18日木曜日

広島平和記念資料館/長崎原爆資料館 1

 2022.08.18

 今年もお盆の時期を迎えた。

 長野県長野市出身の私は、幼い頃、お盆のご先祖の霊の迎え送り儀礼として、お墓から家までの道筋を、干した白樺の皮を燃やして示す「かんば焼き」という行事をしていた。ここ高野山では、「切子灯籠」という木の枠を組み合わせた立方体風の灯籠を各お寺で灯し、ご先祖の霊を導くという。

 それら各地域のお盆行事が始まる前の先月初に,ある知り合いのお寺の方から、奥の院でそのお寺が管理されているエリア(33か所?)にあるお墓の掃除を手伝ってほしいと頼まれた。3年前に奥の院の用務員をしていた時は参道掃除をよくしたので概ね内容は想像できたが、お墓周りの掃除は初めてだったので、新たに経験することも多かった。

 その3年前は、広い参道に広範囲に無数に散乱する杉葉を除去するため、ブロー(掃除用のヘアドライヤーの親分みたいなやつ)で如何に効率よく葉を集め石見(いしみorいわみ:チリ取りの親分みたいなやつ)に大量にすくい袋に捨てるかとい水平方向の動線であった。しかし、お墓の場合は墓石の高さがあり、上に落ちている葉や枝を下に払い、その下の枯れたお供えの花や葉(高野山の場合は高野槇:まきが主体)を処分し、更に墓地面をきれいにするという垂直水平の三次元の動きを要した。加えて、隣の墓石と幅僅か5cm、深さ30cm以上ある隙間に落ちて積み重なった杉葉も外に掻き出す必要があったので、お墓掃除の大変さというものがよく分かった。

 どんなことでもそうだが、してみなければ分からない苦労や難しさ、求められる巧みさなどはかなりある。やってみたからこそ理解できたことは数えられない。それが、「お墓」という故人や先祖を偲ぶ最も象徴的な対象物を綺麗に掃除するという作業なので、「いい加減」な扱いはできなかった。

 杉葉は、長さ0.5~1cmほどの針状の葉が鋭角に一定方向に螺旋状に密集している。その最も短い1本は数cmだが、長いと太い枝に束になって付いていてそれがドサッと落ちている。また、奥の院の杉は、樹齢平均600年ほどのものが多いらしいが、もっと古い800年近く前のものではないかという大物もある。

 そうした大小様々な枝葉が、広い参道の石畳面に落ちていればブローの強い風力で集められるが、墓石周りの小石や雑草、土の上などに落ちていると、葉が開いている向きにいくら箒で掃いても動いてくれない。開いている側から根元に向かって逆に掃いて、初めて集められる。また、隣の墓石との僅かな隙間に落ちて半ば腐敗し、濡れて重さを増した杉葉を掻き出すと石見に山盛りにする。その重い石見を片手で持ち、袋にこぼさず入れる作業は、普段使わない筋や腱を十二分に駆使した。その清掃作業が終わり半月ほど経つが、両親指の付け根辺りを押すと未だに僅かな疼きを感じて、それらのきつかった作業を懐かしく思い出す。

 私の作業に先立って、草刈り機で全エリアを除草し全体の作業内容を詳しく教えて下さった方も気さくだったので、とても面白く仕事ができた。来年も機会があれば是非やってみたいと思わせてくれた。


 さて、お墓掃除は大変ではあったが、自分なりに丁寧に務め予定より早く終えられた。

 そうして片付いた墓石を見ると、どなたにも心安らかにご先祖をお迎えしていただきたいと感じる一方で、明らかにもう随分長い間どなたも墓参していないと思われるお墓がいくつかあり、対象的だった。墓石が単に故人を偲ぶ象徴であったとしても、汚れ壊れ傾いたまま放置されているのは如何なものだろう。そういうお墓のご先祖がその惨状をどのように思うだろうかと想像すると、やはり既に故人となっている姉と共に何故か比叡山に設けられた私の母親のお墓には、きちんとお参りをせねば...と反省させられた。


 しかし、今回は、その「お墓周りの掃除」をした後に私が経験した、ある<弔い>について書きたい。

 それは、このお盆の時期にどうしてもしなければならないと思ったこと...広島と長崎に行くことであった。その2か所の原爆被災者の慰霊をしてこなければ...という想いが強く湧いてきた。

 その週の初めにお墓周りの掃除を終え、週最後の土曜日に広島、翌週初めに長崎の、毎年の原爆慰霊式典をテレビで観ていた。しかし、今年に限り、「2か所の慰霊をしなければ...」と急に強く思った。理由は分からない。

 それを決めたのは8月11日。世はお盆の帰省ラッシュが始まった頃だ。

 混み合うこの時期でなくても...コロナ感染が心配される集団移動時期をずらしても良いのでは...などと思いつつも、「早く行け!」と心の中の何かが叫んだ。

 考えてみれば、広島は隣の山口県に所用で行く際に通り過ぎていた。また、長崎には、以前の障害者支援施設に勤めていた時、施設利用者の個人旅行のボランティア介助者として同行した地であった。しかし、そのどちらの時も、原爆が投下された地は訪ねていない。

 何故か、「死ぬまでには必ず、否、身体が問題なく動き、自由になる多少のお金がある今の内に」と、気が急いた。そして、翌日に第一宿泊地となる広島の宿と、乗車する新幹線の手配をネットでした。そして、その翌13日、当夜には高野山で「ろうそく祭り」があるという日の朝7:30過ぎに、団地の部屋を出た。

 2階の部屋から階下に降りる時、偶然出勤する隣家の方にお会いしたので『数日、家出してきます』とだけ伝えて高野山ケーブルに向かうバス停まで歩いた。

 交通機関の接続に不具合がないよう、予め見越した結果、午後1時前には広島に、その後、資料館のある「広島平和記念公園」には13:16には着いた。僅か6時間もかからずこの高野山からそこまで行ける現在の日本の交通機関能力には恐れ入ったが、その公園は広島駅から路面電車で20分足らずで行ける場所であった。

 

 広い道路の中央にある路面電車の停車場を降りると、信号待ちして程なく道を渡った。すると、すぐ公園の敷地内に入ったが、その目の前には「原爆ドーム」がドンッと立っていた。



「あ~! これが、テレビや写真で何度も見た原爆ドームだ!」と、改めて見つめる。

 ドームは広く仕切られた鉄の囲いの中に、意外にもヒッソリ立っていた。それは、これまでのどの画面でも擢(ぬき)んでて強く自己主張をしているように写っていたが、実物を見るとそうした強い自己主張はなかった。しかし、既に77年もの歳月を耐え忍びしっかり建ち続けた静かな<史実>だけが、粛々とそこに在った。

 午後の早い時間だったが訪問者も多く、「原爆ドーム」と刻まれた石碑の前で記念写真を取る観光客と思われる一群もいて、人だかりは殆ど絶えなかった。しかし、それらを全く意に介さないような無言の存在感は、<威圧>とは勿論違う、でも<観光名所>とは明らかに異なる<無言の主張>が感じられ、しかもそれは<静けさ>を佇ませていた。

 こうした建造物を、この70年近く私は殆ど拝見したことがない。

 例えば、高野山の「大門」や「金剛峯寺」、奥の院の「燈籠堂」などとも全く趣が違う。そこに<在って>も<無い>が如くの風情を、<静かに>醸し出している。

 「これが、約14万人とされる広島原爆の御霊の象徴か(1945年12月までの広島市の原爆死者推計数。当時、通勤・動員者・疎開者含め市内在住は約35万人、その実に4割が僅か5ヶ月弱で亡くなった)」と、呆然とした。

 ドームのすぐ隣には、原爆炸裂後、烈火の熱射を浴び、崩れ落ちる皮膚の熱さや枯渇する喉の乾きをうめようと、無数の人が飛び込んだ「本川」や「元安川」が流れていた。当時、放射線で汚染され<死の水>となった両川は、今はここ数日の雨で緑に染まっていた。しかし、その水辺にはそこで息絶えた膨大な死者の霊が見えるような気さえした。

 
 思わず肌に圧を感じながらも、それでも原爆ドームの周りをしっかり歩き、記憶しなければと思った。そして、これまで様々な公開画像で正面画面しか見えなかったドーム側面には、中に散乱する粉々になったコンクリート塊やグニャグニャに曲がった鉄骨などが剥き出しに、間近に見えた。
そうした様子を見るだけでも、熱射と爆風の威力の大きさが感じられ、「来てみなければ到底分からない」と強く実感した。


今回の「広島/長崎」慰霊の路も、きちんと何回かに分けて報告したい。

 でも、これだけは今、言いたい。

 <日本に産まれ、住むのであれば、一度は必ず、広島と長崎を訪れ、原爆の悲惨さを目の当たりにしてほしい。それが今、日本にいる者たちの義務である>と。

2022年7月18日月曜日

<有り体>の人

 2022.07.18

 昨年5月,初版発行から2ヶ月後に発行された第四刷をネットで買った.

 以前,このブログでもちょっと触れたが,篠田桃紅氏の著書「これでおしまい」である.

 確か,新聞の広告に出たのを目にして,そのタイトルに惹かれそのままネットの購入ボタンをポチッとした.そもそも初刷は彼女が亡くなってから27日後に発行されたが,第四刷はその2ヶ月後だったから,1回の刷数にもよるが結構な売れ行きだったに違いない.

 しかし,その書を読むほどにその文体の潔さが尾を引き,次から次へと著作(私は中古専門)を求めた.

 結局,彼女は,東京都青梅市の病院で老衰のため107歳で亡くなられたとのことだが,彼女は書家であり墨を用いたアーティストであり版画家であり,エッセイストでもあった.


 1913年生まれの彼女は,幼いときから漢学者である父親に書の手ほどきを受けたが,女学校(戦前の旧制中等教育学校)時代には単身米国留学した北村透谷の未亡人に英語教育を,詩人の大鹿卓(金子光晴の弟)に化学の授業を,書道家の下野雪堂に習字を習うなど,恵まれた環境で過ごした.

 そして,戦争突入前に西洋から流入した大正モダニズム(大正デモクラシー)などの影響を受けながらも,国粋主義一色に染まった戦中を疎開を含め苦労して過ごす.しかし,当時の「女学校を出たら結婚して奥さんになる」常識に反発して,「自分の自由に生きる=何ものからも自由である」信条を貫いた結果,やがて「(墨)書」により身を立てようと決意,実行する.

 戦後,「アートの好きなGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の将校や兵士たち」とも知り合いになり,彼女の「作品は広く海外でも知られるようになる」と,何回かの作品発表の後「海外・国内の美術館への出展依頼が相次ぐ」ようになって,遂に1956年に渡米(渡航費・一部滞在費含む招待)する.

 渡米中には,当時フランスで洋画を学びニューヨークに移り住んで人気作家として大成功していた岡田謙三氏や世界トップギャラリーのオーナーたちとも交流を重ね,一躍世界的なアーティストになる.

 彼女の作品は世界中のトップギャラリーや美術館(メトロポリタン美術館,ロックフェラー財団,アート・インスティテュート・オブ・シカゴ,グッゲンハイム美術館,大英博物館,ドイツ国立博物館東洋美術館等々)は勿論,国内の美術館や皇居御食堂,国立代々木競技場貴賓室,国立京都国際会館,増上寺本堂等々にも収蔵されている.しかし,彼女の凄いのは,それら数々の栄誉にも拘らず,一切の賞や証の類を受けずに通したことだった.


 『アートなんていうものは賞の対象にならない.セザンヌはなんの賞も受けていませんよ.モナリザを描いた人にどういう賞をあげるの? 芸術に賞はつくりようがないんですよ.賞は毒にも薬にもならない.だから私は辞退してきたんです』『ルノアールの絵とゴッホの絵,どっちがいいかと言われたらどっちにします? ルノアールとゴッホ,戦争になりませんよ.ルノアールはルノアールでいいんですよ.ゴッホはゴッホでいい.戦いませんよ』

 こうした芸術に対する見方だけでなく,107歳まで貫いた生き方にも彼女は言及している(『』内は全て著書「これでおしまい」から引用).

甲骨文字の「人」
 『人は結局孤独.一人.人にわかってもらおうなんて甘えん坊はダメ.誰もわかりっこない』『人生というのは究極に孤独なんですね.誰もその人というものをそっくり受け止めることはできない.夫婦も無理,親子も無理,友達も無理.みんなその一部を共有したということでしょうね』『「人」という字は支え合って初めて人になる.そう説明しますけど,文字の成り立ちを見れば,一人(※写真参照)です.一人で立っているんです.手を前に出して,人と関わろうとしている姿です』

 

 『人は自由にどのように考えてもいいのです.どのように考えてもいいどころではありません.どのようにも考えなくてはいけない.それが自分の人生を生きる鍵です』『自由はあなたが責任を持って,あなたを生かすこと.人に頼って生きていくことではない.あなたの主人はあなた自身.あなたの生き方はあなたにしか通用しない』『自分はこうやりたいと思ったからやっちゃう,というやり方で生きたほうがいい.だから客観的に自分を動かさないで,主観的に自分を動かす』

 そして,自分の人生を振り返って...

 『自分がやりたいようにやってきた.価値観も私流でやってきた.それを一生貫けた.それでご飯を食べることができた.それでいいと思っているの』『まったくの有り体で暮らす.その人の一番の自然なありかたで暮らすのが一番いいと思っています.お互いがそうできれば一番いい』 と,語った.

注文した「墨いろ」はまだ届いていない
 彼女がエッセイストとして現した言葉は,それこそ限りなく多い.しかし,それらの一つ一つを読み返す度,全くその通りの人なんだな,と感心する.彼女にとって,残した言葉の数々が<人生そのまま>だったんだと思える.つまり,<有り体>なんだ.


 
 こんな彼女の言葉を改めて見ると,後8ヶ月余りで70歳になってしまう自分は,こんな時の過ごし方をしていて良いのだろうかと考えてしまう.

 もう,仕事は40年以上も充分やってきた.時間に追われ,朝決まった時間に起き用意をして,ずっと収入確保手段としての仕事を続けること(must)には疲れた.勿論,仕事を収入確保のためだけに行ってきたのではない.私の専門が,社会的な貢献や意味があると,自分で自覚したからこそ続けてきた.しかし,トータルに見て,そうであっても「収入確保手段」としての必要性があったから,40数年も続けたのは確かだ.
 そうした<仕事>ではなく,収入とは関係ない<労役>が,人の役に立つことや自分として意味を感じるものであれば,これからも続けよう,まだ,身体は動くのだから...

 家庭は持ったが維持できず,独りになった.<対>の関係はことごとく破綻した.しかし,再び新たな対関係を創り上げられるとは思えない.第一,桃紅さんに「甘えるな!」と叱られる.
 自分が思う<場>にも移り,住み始めた.そうして自分を入れ替えても尚,まだ<自分>がしっくりできていない.<迷っている>自分がいる.けれど,今更<迷う>ことには迷わない.迷っていい,と自分に言い聞かせている.

 それでは,これからどう生きようか...
 僅かに貯まった預貯金と親からの相続,それに二月毎に送られてくる老齢基礎年金,<これらの金の切れ目が命の切れ目>になるかもしれない.それまでに<やりたいこと>を精一杯やってみるという選択肢はあるのだから...
 でも,<やりたいこと>って,何? 考えていることはあるけど,ここじゃ言えない.

 <有り体(ありのまま)に生きる>って,実は自分に核心がないと,<有り体(ありてい)>にはならない.<核心>が曖昧なままに<生きる>って,山頭火はそうだったのだろうか? そのような<生き方>も,それはそれだと思う.それがその人の<有り体>ならば...


 今は,自分が<きちんと>自由でありたい,と感じている.

 仕事をしていなければ,確かに時間は無限にある.したいこともできる環境になる.それでも,それだけなら自堕落な<自由>になってしまう.もっと,きちんとした<自由>になれるように,自分の<核心>を創り上げたい...

 桃紅さんのように,物事を言いきれるっていうのはスゴイ!

 それができるようになるのは,私なら後30年も生きなきゃならないのだろうか?

 後10年なら何とかなるだろうけど... う~ん...

7/19届いた「墨いろ」
日本エッセイスト・クラブ賞受賞作



2022年7月2日土曜日

<歩き遍路>再開! 未考追記

 2022.07.02

 <歩き遍路>の道中,或いは帰宅後,頭をよぎってはまた巡ってきて,まとめていない事柄の数々...


・蜘蛛の巣のこと

歩いた遍路道の山路には,その何十ヵ所ともいえる多くの場所にやたら蜘蛛の巣があった.まだ下り道であれば菅笠や網代笠が巣を払ってくれるが,登道では笠を脱ぎ頭には手拭いを絞るだけなので,容赦なく顔に糸がかかる.それは,結構煩わしく,大変だった.

蜘蛛はどの位の時間で巣を張れるかは知らないが,コロナの影響だけでなく,お遍路人口自体,否,「歩き遍路」の絶対数が確実に減っていると,山路の蜘蛛の巣の多さが教えてくれた.とても寂しい思い出.


・<歩き遍路>を通して,変わったこと.

①食事回数:1日1食から最大1.8食程度に減.夏場で飲料は増えているが,食べるものはそれ以上に身体が求めない.

②食事内容:概ね粗食,かつ身体が求めるもの(キウリ・葉っぱ・レモン・小麦胚芽クラッカー・チーズ・パン・たまに肉,ほぼ米は食べない等々)を食す.以前は週に何度も食材を買い求めたが,遍路後は家にある冷凍品や,これが食べたいと身体が思うものをやりくりする.

③ アルコール:ビールは350cc飲んでも翌日目が腫れる.ために,アルコール全般控えてきた.

④体重・バイタル:体重は遍路前は最大63kgの時もあったが,遍路後58kg台をキープ(更に減少傾向).体脂肪・内臓脂肪も減少したが,血中酸素飽和度(Spo2)・心拍数は変わらず.

  

以上は,「栄養バランスを考える」理屈とは全く無縁の正しい?食基準の対象外.それでも,目下,体調不調は起こっていない.むしろ身体の動きや軽さは好転. 

果たして,<栄養>って,何? <心に栄養が回る>ことが,身体を満たすのではないか.その<身体>が求めるところに応ずる…70間際の人間にはこれで良い,と得心.


・<利他>と<利己>,<人のため>と<自分のため>

<利他=人のため>とは,人の<何>のためなのか? 同様に,<利己=自分のため>とは,自分の<何>のためなのか? その目的<何>を具体的に考えれば,自ずと<自分との係わり>が見えてくる.

「人を」... 励ますため,支えるため,助けるため,悲しませないため,喜ばすため,救うため,(その人に)幸せであってほしいから,(その人に)代わるため 

「自分の」...(自己〕満足のため,(他者〕評価のため,余裕を提供するため,心に素直で正直であるため,代償はいとわないから,犠牲がその人に代われるから

そういう係わりが見えてくれば,自分がやるべきことは決まる? 大事なことは,その自分の決定を自分がきちんと納得し,覚悟すること. 



2022年6月30日木曜日

<歩き遍路>再開! その拾参 ~ <現世>と<来世>の狭間を彷徨い続ける<迷い人>

2022.06.30 

 『何故,歩き遍路するの?』

 今から2年少し前,2回目の歩き遍路に出る時,職場のある人からそう聞かれて明確に答えられなかった.しかし,その後,私は私的文書の中で次のように書いた.

 私にとって<歩き遍路する>ということは、自分の身体に1日20km以上を<歩き続け>させる負荷を加えることで自分を一定の限界に追い込み、そこから産まれ出てくる自分の本音や、それにも疲れ果て嫌でも頭が空っぽ(無心)になった後に湧いてくる様々な想いを確かめる手段と言えました』

 今回の歩き遍路では,その「空っぽになった後で湧いてくる様々な想い」の更にその後に結局<何も考えずただひたすら歩く>ことが自分にとって意味があると気付くことができた本編「その伍」)



 <歩く>こと,または<歩き続ける>ことが<歩き遍路>の目的.

 一見,この自明とも思える論理の裏に,<歩き遍路>がその過程で抱える心の葛藤や意識の変化が山ほど隠れている.


 (歩き)お遍路は,本来,死装束としての白衣に身を包み,道中で行き倒れ(否,死ぬために何度も巡り続け),死んだら自分の土饅頭に刺してもらう卒塔婆代わりの五輪塔を刻んだ金剛杖を手に,歩き出す.歩く以外に手段がなかった庶民のお遍路なので,お遍路は即ち<歩き遍路>である.

 そして,お遍路が巡り歩く札所は,神(御本尊や弘法大師など)や佛を祀る場である.それは庶民の日々の日常を超越した神聖な場であると同時に,日常の次にある<来世>を象徴している.その<来世>の象徴の場,つまり<来世>への入口で,<歩き遍路>は神々に必死に祈りを捧げる.それは,<来世>に安らかに繋がりたいとする<歩き遍路>の<心>のあらわれである.


 一方で,<歩き遍路>(の身体)は,<現世>に生きる(ある)存在である.この世の<生き物>である以上,飲食はするし,日々の生業を立て,暮らし,人との関係の中で生きている.だが,そうした<日常>に疑問を感じ,疲れ,または嫌になり,或いは離れようと思って,お遍路に出る.

 一旦お遍路に出ると,<歩き遍路>は基本的に<現世>に基づかない.

 既出の辰濃和男氏が著書『四国遍路』で,名刺や腕時計を持って遍路を回ることの無意味さを説いているが,<現世>の生業や暮らしや価値観から離れ歩くのが,お遍路の求めるところである.勿論,来世物のように,無食,無飲,無眠を通すことはできないが,皆,なるべく意識は<現世>の外にある.

 その究極の一つに,今の<職業遍路>やそれに類いする者たちがあるように思う.

 僧侶でもない彼らが町角で乞食し,お堂や東屋での野宿を転々として,ほぼ着の身着のままで四国中を歩き続ける.それ以外に彼らが為すことはほぼないと言える.そうした,本当に四国を歩き続けている彼らなら,<現世>に身を置きながらも,意識は既に<来世>にあるように見える.

 私が約30年前に暫くいたインドの,ガンガーのほとりダサシュワメッドガートで,インド各地から「死を待つ老人たち」が集まるという館のことを知った.その館で,老人たちは殆ど飲まず食わずで死が訪れる時を待つという.やがて亡くなってから,聖なる川ガンガーに戻るためにである.

 ガートで死を待つその老人たちと同様,本気の<職業遍路>は,歩き続けながら<現世>と<来世>の狭間に潜む<死への入口>を探し当てようとしているのかもしれない.故に,そういう彼らが一番望むところは,<行き倒れ>なのかもしれない.


 詰まるところ,<歩き遍路>は,<現世>と<来世>の狭間を彷徨う<迷い人>だ.

 ただ,<迷う>ことは決して否定的な意味合いではない.否,むしろ<迷う>ことこそ,現在の自分の<有り様>を振り返っている証拠ではないか.特に歳をとってから<迷う>ことは,世間では<未熟者>を指すような風潮もあるが,私には自分の<正直さ>が現れる兆候のように思える.

 10~20代のがむしゃらに突っ張って過ごした時,30~40代の家庭や子どもを抱えひたむきに暮らした時,50代の仕事などに精一杯傾注した時などを越えて,その先に60~70代,或いはそれ以上の年齢の時を迎える.その入口で,人は<迷う>.

 それは人によって違うだろうが,私は<迷う>ことは,<それまでの自分の人生を大いに振り返ること>とイコールだと考えている.その<振り返り>のために,一旦<現世>を置き,離れて見ることがとても大切に思う.

 <振り返る>プロセスでは,散々<迷い>や<後悔>や<懺悔>に苦しむ時があるだろう.そして,それらの<葛藤>の中から,自分を否定し,死んでしまいたいと思う時も来るかもしれない.でも,<大いに振り返る>とは,そういう覚悟を伴う.


 と,ここまで書いて,今から56年前,お遍路の結願を果たした小豆島からの帰り,乗った汽船から瀬戸内海に身を投げた歌舞伎役者,市川団蔵のことを思い出した.勿論詳細は分からないが,梨園の世界で4歳から80歳に至るまで脇役としての大名を担い演じ続け,ようやくその役目を終え引退できた後,かねてからの希望であったお遍路をした後での自殺であった.

 その役者は,今まで自分が世話になり亡くなった人たちの戒名・俗名をずらりと書いた笈摺(袖なし白衣)を着て巡拝を続けたというが,旅の途中,『我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ』という辞世の歌を詠んだという.

 そうした彼を『思えば彼の生涯は,団蔵の家に生まれ,団蔵と名乗らざるを得なかった自分を呪い続けた生涯であった.その生涯の果てに,彼は遍路の旅を地獄の道行に変え,極楽往生の願いを堕地獄の願望に変えて,我と我が生命を断った」と評した人もいたが,逆に『誰にも煩わされることのない浄土への巡礼の日々...それは何十年脇役として生き抜いた老優の,生涯最良の幾十日だったのかもしれない』と認める人もいた.

 人の目には<振り返り>は様々に映るだろうし,評価も分かれる.でも,遍路の旅が一歩間違えば自死に至るような最も厳しい<振り返り>になったとしても,それが大切ではないか.

 そうした地獄のような<苦しみ>を伴う<振り返り>を嫌ほど味わえば,その後に,私の場合は不思議と<無>や<無心>が訪れた.
 考えてみれば,昔から,様々な人生経験を積んだ老人たちが醸し出す雰囲気には,<静寂>というものがある.それは多くの人生の果てに,<無>の境地に至ったことのある老人たちに共通する趣きなのかもしれない.私は未だに<静寂さ>に包まれるまでの境遇に至らず日々一喜一憂に終始しているが,その<無心>の次にくるであろう,静かなる<終末>への覚悟はし始めている.

 私にとって<歩き遍路>とは,人生の<静寂>に向けて備えるべき<有り難く(difficult)><得難い>総括過程に他ならない.今後も,団蔵のように発作的に?身を投げるようなことが全く起こらないとは限らないが,それでも<振り返り>を持てない人生などには意味を感じない.

 それが結論するところは,私はこれからもずっと<歩き遍路>を続けるだろうということ.

 私にとって<歩き遍路>とは,そうした覚悟を自分に呼び起こしてくれる,重い成行きだった.


本編 了 


2022年6月22日水曜日

<歩き遍路>再開! その拾弐 ~ 新旧遍路の交差点

 2022.06.22

森本屋室内の額
 令和4年6月3日,5番地蔵寺前の民宿「森本屋」を朝7時過ぎには出た.

 4番大日寺,3番金泉寺,2番極楽寺と遡るに連れ,私には見覚えのある道やお寺の風景が溢れてきて,「あ~,ここは! あそこは…」など,眠っていた記憶が蘇ってきた.

 

 そして,金泉寺を打った後くらいであろうか,1番霊山寺方面から,真新しい白衣と菅笠,金剛杖を身に纏った明らかに20代と思われる男女が一人ずつ,少し経ってまた一人と,歩いてやって来る.それも,女性が多く,見るとまだ若い,昨日まで街中でいつものお化粧や洒落た服など着こなしていたであろう風の「お姉さん」が,如何にも着慣れない白衣や菅笠を緊張して纏って歩いて来る.

3番金泉寺山門
 「初めてのお使い」ならぬ「初めてのお遍路」だ.

 それでも女性たちは比較的落ち着いていて,反対側から歩いてくる大きなザックを背負った私を見つけると,如何にも「ベテランお遍路見~つけた!」ふうな表情(それは決して嫌味ではなく優しい目線だったが)をする人もいて,私がすれ違いざま『こんにちは』と挨拶すると,挨拶だけはきちんと返してくれた.

 しかし,同じ年頃と思われる数少ない男性たちは,ある者は借りてきた猫のように定まらない出で立ちでぎこちなく歩いているし,他のある者は他の女性陣と同じグループなのか,そのグループに遅れてしまった風に,お遍路姿で道を走ってくる者もいた.

 「歩き遍路は走るなよ!」などと思いながらその人を見ていたが,間隔が開いても続けて歩いて来るその一群のそれぞれの表情に5年前の自分の姿も重なって,苦笑いせざるを得なかった.

4番大日寺本堂

 また,4番大日寺には,かつて苦い思い出があった.

 5年前,私は1番から順に巡ってきて,慣れないザックの重さや長時間の歩きに身も心もかなり疲れ始めて,大日寺を打つ前後どちらかに,予約した宿の人に近くまで車で迎えに来てもらったことがあった.

 当時の大日寺への道は今では大変整備され見違えるように広く綺麗な舗装路になっていたが,5年前はまだ砂利混じりの土埃も充分立つ緩やかな登りの田舎道で,私は「歩き遍路って,こんなに大変なの!」と半ば音を上げつつあるタイミングだった.

 そのため,道が改まっていることを知らなかった私は,今回は一定の覚悟を決め大日寺にアプローチしたが,キレイな舗装路のままアッという間に着いてしまって,全く拍子抜けしてしまった.それは,単に道が綺麗になったばかりでなく,結願を果たした私の歩き遍路としての脚力や覚悟が,それを容易にしたのだと,後になって思い直した.

1番霊仙寺山門 皆最初にこの門を潜る
 それでもその大日寺を無事打ち,続けて3番,2番を打ち終えると,後は1番霊仙寺を残すだけとなった.そして,県道12号線を更に1km半ほど東に行くと,殆どのお遍路さんビギナーが遍路用具を揃えるであろう「門前一番街」という店に着く.

 霊仙寺山門手前にあるそのお遍路用品店に着くと,今私の手元にある金剛杖や白衣,納経帳などを買い求めた5年前のあれやこれやの思い出が,一気に蘇ってきた.それでもまず,1番霊仙寺の読経,納経からと,再び見慣れた山門を潜ると,午後1時前には同寺を打ち終えた.

 「さあ,後はどうやって高野山に帰ろう...」

 それは,数日前から気になっていたことだったが,来たルートのように新幹線で帰るには,四国のJR主要駅から対岸の岡山駅に出る必要がある.これは来た通りの逆順路になるので最後の選択肢だった.

 そうではない別のルートで帰ろうとすると,ほぼ選択肢は3つ.

 1つは徳島空港から飛行機で関空?に行き帰る方法.2つ目はやはり徳島駅から高速鳴門経由で,高速バスで難波・大阪方面に帰る方法.3つ目は徳島からフェリーで和歌山経由で帰る方法.この3つの中なら,私はできればフェリーで帰りたかった.

 そのため,フェリーへのアクセスを調べると,霊仙寺を打ち終わった12:50のほぼ20分後13:11に,霊仙寺前からJR鳴門駅に行く市営バスがある.しかも,そのバスは11時代,12時代には全くない時間割.『え~っ!』とグットタイミングであることを確認した後,喉の渇きを埋め荷物を整理する時間が欲しかったので,早速「門前一番街」へ.

 店ではソフトクリームを食べトイレをして,ザックの荷物整理を急いでした.そして,1,2分前にはバス停に戻りバスを待つと,来たバス内はそれなりに混んでいたが何とか席に座れ,鳴門駅には13:50に着いた.そして,フェリーに乗れる徳島港行きのバスはJR徳島駅から出るため,鳴門駅から徳島駅行きの電車時間を確かめると,これまたほぼ10分後の14:03に電車が出るらしい.

 再び『え~っ!』と驚き,切符を買うと,既にホームにはそのローカル電車が待っていた.この電車では学校帰りの高校生の一郡がほぼ席を占めるように乗っていたが,私も何とか座れ,その座席の上でお遍路姿の白衣や袈裟を袋にしまい,金剛杖を竹刀袋に入れて,後は徳島駅に着くまでゆっくりできた.

 そして,徳島駅に着きフェリーが出る徳島港行きのバスを探すと,これこそほぼ数分後に出るジャストタイミング.何とも驚き『え~っ!』と声を発する間もなく,バスは港に向かった.そして,徳島港にバスが着いたのが15:55.その港で,明るい内に和歌山に着く最後のフェリー便の発時間は16:30.その30分少々は,足りなかったお土産や船内で飲食するビール・つまみなどを買うにちょうど良い時間だった.

 このように,私が和歌山に帰るために,今回ほど最適かつ最速タイミングで各手段が揃うこともそうなかろうと,驚きを通り越す以上のものを感じた.これらの中には,1~2,3時間に1本しかない交通手段もあり,神業的タイミングの連続で可能となったとしか思えなかったが,これぞまさしく「お大師様のなせる技!」と天を仰ぐのだった.

「あ~! 南無大師遍照金剛!」

徳島港発フェリー船中から,鳴門方面に沈む夕日を望む

 かくして私は,迷う暇もないほど次々と徳島港に導かれ,気が付けば和歌山港に向かうフェリー船中の人となった.そして,フェリーが進むに連れ,次第に夕日が海面を包むように輝き始めると,初めて四国を離れる実感が湧いてきた.

 「さらば,四国よ!」

 インスタにもその光景を載せながら,三度目の四国との別れを告げるのだった.


 そして,和歌山港に着いたのは午後6時半過ぎ.

 この時間から高野山に帰るのは車以外ではほぼ無理なので,ここから中心部までバスに乗り,和歌山駅から徒歩30分離れた料金安めのアパホテルに泊まった.

 和歌山で宿に泊まったのは初めてで,地方都市の割に意外に宿の値段が高いのでビックリしたが,選択の余地はなかった.かくして,私の四国歩き遍路はほぼ終わったが,最後に高野山奥の院へのお礼参りを残していた.


 翌朝,和歌山市から高野山へのアクセスは昨日の四国での最適タイミングと真逆で,高野山に通じる南海電鉄~ケーブルに乗るには,極めて本数の少ない和歌山~橋本駅の僅かな電車を逃さず乗るしかなかった.

 しかも,泊まったアパホテルから和歌山駅へも,その時間帯で適切な公共アクセスはほぼなく,歩いて駅まで行くにはもう時間がなかった.そのため,今回お遍路で最も身近な和歌山市内であるにも拘わらず初めてタクシーを使い,駅まで急いだ.タクシーの運転手さんには電車が出るほぼ5,6分前にかろうじて和歌山駅に着けてもらい,何とか間に合った.

 そして,その後は多少の待ち時間を経ながらケーブルに乗れ,私は最後の歩きのため,ケーブルの高野山駅待合いで再び遍路姿に変身した.その待合いには20代位の息子さんを連れた老夫婦がいらっしゃり,私が遍路姿に着替えているのを見ると,『これからお遍路に行かれるのですか?』と声を掛けられた.

 『いえ,四国八十八箇所を結願して,奥の院にお礼参りに歩いていくところです』と返すと,『私も行きたいのだけれど,もうこの歳では行かれない...』と声を漏らされた.それでも,細やかなその幸せを味わうように,ご家族揃って仲良く町内行きのバスに向かわれた.

 私はケーブル高野山駅の駅舎を出た所で,顎の元に束ねる網代笠の紐を締め直し,右手に金剛杖をしっかり握ると,再び金剛杖の突き音高く響かせながら,何度か歩いた町内に出る舗装路を歩き始めた.


 町内への道は,何回歩いてもほぼ40分程かかった.

 10kgあるザックを担いでもそのかかった時間は変わらず,私はいつもの千手院交差点に向け表通りを進むと,本山前で合掌し,広い駐車場後ろから大学正門の方に回り,お世話になっている安養院さんの前でも合掌,ご宝号を唱えた後,また表通りに合流して,後はひたすら一の橋に向かった.

奥の院中の橋門前
 奥の院参道にはそれなりの数の参拝客がいらっしゃったが,大きなザックを担ぎ網代笠を被って急ぎ足で御廟に向かっている遍路姿の私を見ると,皆さん自然と道を開けて下さった.

 そして,灯籠堂とその奥の御廟前で使い慣れた頭陀袋から線香を3本出し,御廟前の大きな香炉に立てると,開経偈,般若心経,ご宝号を唱え無事四国を回れたことなどを報告し感謝をお伝えした.そのまま納経所に向かい,御朱印をいただいたが,その納経所には以前お世話になった顔見知りの所員の方がおられ,歩き遍路をしてきたことを報告した.すると,その所員の方は,労いの言葉とともに三度目の重ね印を押して下さった.

 私はその方に勧められるまま事務所を訪ね,納所さんにもご挨拶しようとしたが,生憎ご不在でお会いできなかった.そして,そのまま再び参道を通り,中の橋霊園に抜ける道を通って転軸山公園から団地裏側に出て,自室まで辿り着いた.その時,既に昼を1,2時間回る時間にはなっていたが,半月間に亘る私の3度目の<歩き遍路>は,こうしてようやく幕を閉じることができた.

 過去2回の歩き遍路よりずうと重い荷物を担いだままのハードな旅であったにも拘らず,むしろ足取り軽く旅ができ,無事怪我もなく帰れたことに,心からお大師様や八百万の神様,そして天国?の母親に感謝した.

 それでも,今回の<歩き遍路>ではこれまでになく種々の想いを抱き,その意味や意義を深く考えさせられることになった.それらについて,まとまりないままではあるが,是非次回,最後に1回だけ述べてみたい.

 それが私の<歩き遍路>の,目下の集大成になるはずだから...



<歩き遍路>再開! その拾壱 ~ 私と同行二人してくれた相棒たち

 2022.06.22

 大窪寺に向かう前夜テントを張った「道の駅ながお」の向かいに,「おへんろ交流サロン」があった.

 そこでは,大窪寺1つを残して歩き続けたお遍路に,「歩き遍路の結願証明」を発行していた.

 時間的に,サロン閉館後に道の駅に着き,翌早朝出立した私は,その結願証明はいただいてないが,「また戻って申請するのは大変だな~」と思っていると,八十窪の女将は『申請書は家にもあるから,書いてくれたら郵送であなたの家まで証明を送ってもらえるよ』と教えてくれた.

 翌6月1日,朝6時に朝食をいただき,7時過ぎにお接待で作って下さったお握り2つをザックに入れると,私は「八十窪」の大女将や女将さんに厚くお礼を言い,国道377号線をひたすら東に向かった.

 国道からの道は整備された舗装路なので,時折通る車を気にしながら黙々と下ると,やがて南北に走る県道2号線にぶつかる.そこはもう徳島県だった.

 「また,最初の徳島に戻ったんだな...」と僅かな思いに耽りながらも,88番大窪寺から10番切幡寺までの18.2kmを更に進んだ.

 途中には,前日ベテランお遍路に教えてもらった休憩(野宿?)ポイントも1,2あったが,ただひたすら先に進み,徐々に阿波市の街並みに入ると,10番切幡寺が近付いてきた.

 5年前の2017年12月6日,私は四国の歩き遍路を初めて行った.その時もテントを含む重いザックを背負い,通し打ちで歩き回るつもりだったが,12番焼山寺などで厳しい山路の洗礼を受け,年末間際に29番国分寺までで打ち止めせざるを得なかった.

 ただ,その時の記憶が蘇って,順打ちであれば11番藤井寺への通り道となる県道139号線に出た時,見覚えのある四辻などがとても懐かしく目に映った.それに,当時は全く目に入らなかった広い田圃の風景や,辻に立つお地蔵様の存在などに気付き,「ゆっくり歩くってことはこれだけ目に入ってくるものが違うんだ」と,改めて日本の原風景を楽しんだ.


 さて,10番切幡寺に入ると,正直お寺には殆ど見覚えはなかった.と言うのも,一番最初の歩きでは,1~7番十楽寺までは17.5km,8番熊谷寺までなら21.7kmとなり,その辺りで寝所を決めることになる.そのため,翌日は10~11番間の9.3kmや11~12番間の12.9kmが気になり,結構早く回る必要がある.よって,10番辺りの札所をじっくり拝んでいる余裕がない.

 すると,読経と納経を済ませると早々に次に向かうはずで,境内の様子を覚えているはずもなかった.それが今回は逆打ちで,じっくり参拝する時間的猶予もある.

 そのため,改めて境内をゆっくり見せていただくことができたが,お遍路とは「やはりスタンプラリーじゃいけない」と改めて思い知らされる経験だった.

 

 それでも,9番法輪寺には明確な記憶があった.

 というより,門前にある茶屋をよく覚えていた.それは,先を急がなきゃと思いつつ重いザックに疲れ始めた頃で,見えてきた門前茶屋で少し休みたいと腰を下ろしたからだった.その時の茶屋の様子と寸分違わぬ光景がとても懐かしく,法輪寺を打ち終えてから改めて訪ねた.

 前歯が少し欠けた人懐こい70代半ば頃の茶屋のご主人に,5年前にもこちらに伺いやはりお芋を食べたことなどを話すと,ご主人も喜び色々な話をして下さった.そして,今日の歩行距離がちょうど22kmになっていたので,『この辺りでテントを張って泊まれる所を知りませんか』と尋ねると,ご主人は『この店先で寝たらええよ』と言って下さる.

 『えっ! ホントですか?』と改めて確かめてもOKのお返事.

 『そりゃ~助かります』と喜び,話は更に続いた.昔,大工の棟梁をしていたというご主人は,店内に飾る細工物などを私に見せながら,2時間近くも話に花が咲いた.やがて夕方になり,お店を閉めることになったので,ご主人に勧められるまま,私は茶屋店先の横に放置された廃車の軽トラック内で寝かせていただくことにした.

うるし茶屋と寝所となった軽トラ(右奥)
 ただ,ご主人は店から数十キロ離れた地区で暮らされており,田圃を挟み離れた場所には住宅も数件続く.暗くなるに連れ,店先を散歩する付近の住民の方や横の田圃を管理している方などが店先を通られる.そして,閉店後も店の敷地内にいる私を不審そうに見る.

 「そうか,ご主人がいないのに勝手に敷地内で泊まろうとしていると思われているかも...?」と疑いの眼を感じたので,田圃を確認に来られたお一人には事情を話したが,後は仕方ないなと諦めた.

 軽トラ内は窮屈で,やはり店先に置いてある1畳分の長椅子が良かったかななどとも思ったが,長椅子であればより人目につくし,蚊も寄ってくる.そのため狭さは我慢することにして,そのまま休んだ.


 翌朝,店先にお礼の書き置きを残し,朝6時前に茶屋を出立.

 広く続く水田地帯をずうっと歩くと,7時前に8番熊谷寺,7番十楽寺と打ち,5番地蔵寺まで昼前には打てた. 
そして,途中の熊谷寺を抜けた辺りで,遍路地図では載っていない新たな遍路小屋を見つけ,寄ってみた.

 名前は「遍路小屋57号」とあり,「四国八十八か所ヘンロ小屋プロジェクトを支援する会(徳島支部)」が建設した,まだ真新しい小屋だった.その広い敷地に休憩スペースとトイレ・水場があり,「次回お遍路時の絶好寝所だな!」とすごく気に入った.
 そしてよく見ると,小屋の屋根下には「七番から八番の遍路道沿いにある接待所にかけられていたタオル額です」と紹介があり,様々な人生訓が書かれたタオルがズラッと貼リ付けられていた.
 
それらをずうっと見ていると,昔からの歩き遍路がどのような想いでこの四国を歩き続けてきたかが偲ばれ,目頭が熱くなった.


 さて,今回の<歩き遍路>も,巡る札所の数は後僅かになった.
 明日の4番大日寺から1番霊山寺への距離感や,すべき洗濯や風呂の心配,それに和歌山への帰途ルートなどを考えると,今日はここで宿を取ろうと,地蔵寺目前の民宿森本屋を予約した.
 地蔵寺を打った時点は昼直前で,宿に入るには時間が早い.そのため,改めて地蔵寺境内のお地蔵様の石像や修行大師像などをじっくり拝み回り,地蔵時より少し上にある五百羅漢の入口(中は有料)付近も歩いて,時間を過ごした.

 
 ただ,1つだけ,問題があった.
 入会したての「高野山真言宗参与会」からいただいた半袈裟を,私は今回の歩き遍路の際に身に付け歩いた.そうして良いか自分では迷ったので,参与会にその旨伺い了解を得てしたことだった.
 しかし,30寺以上もずっと回る間首に掛けていたので,汗染みや縒れが激しいのは仕方がないとしても,下に垂れる紐の房やそれを束ねた糸が切れ,修繕する必要があった.私は裁縫用具は持ってきたが,その細かな修繕をするには私の技術では不可能.
 そこで,森本屋の女将に,無理を言ってお願いし直してもらった.

 お遍路から帰宅後,半袈裟はクリーニングに出しできるだけ綺麗にしていただいた.そして,金剛杖には遍路前にもしたが帰ってからもたっぷり蜜蝋を塗り直した.ちなみに,金剛杖の先の<捲れ>は硬い地面を突き歩いて自然に木の繊維がほぐれ毛羽立ったものだが,杖購入時にも「杖の先が捲れてきても切ったりしないように.杖はお大師様の分身だし,捲れはずっと歩き続けた証なので...」と教えてもらっていた.
 そのため,ずっと<捲り>は増えているが,最初に買った時よりどの位短くなったのか実感はない.

 何れにせよ,袈裟といい白衣といい,網代笠または金剛杖といい,ずっと私と同行二人してくれた相棒たちだ.その相棒には深く感謝している.
 私が辛く,泣きながら山路を歩いた日々や,崖にかじり付きながら必死でよじ登った様,自然の在るが儘に心地よく身を任せながら過ごしたことなど,これらの物たちはしっかり見ているし知っている.それが,すごく嬉しいし,大切な相棒たちだ.


 そういう想いを,森本屋の宿に入ってからも強く感じ,滅多にしない白衣や頭陀袋さえも洗濯して,翌日に備えることにした.


 そして,いよいよ,四国での最終日を迎えることになる...



2022年6月21日火曜日

<歩き遍路>再開! その拾

 2022.06.21

 「四国八十八か所結願所88番大窪寺」の境内には,結願札所として,長くお遍路さんたちが手にし地を突き共に歩いた金剛杖を奉納できる「寶杖堂(ほうじょうどう)」があった.
 そのお堂の屋根には,お大師様が手にされていたような大きな錫杖(しゃくじょう)が象徴として備わっていた.

 少し離れて「結願錫杖大師像」もあり,そこには「千二百有余年前,お大師様が一切衆生済度~この世で生を受けた全ての命ある者を迷いの苦しみから救い,悟りの境地へと導くこと(コトバンクより)の為に四国八十八ヵ所を開創される際,師匠である中国の恵果和尚より授かった錫杖を大窪寺に身代わりとして納めた」との説明があった.

大窪寺大師堂
 この朝の時間帯(令和4年5月31日午前10時半)も幸いしたのだろう.

 お遍路団体ツアーなどの一群と接触することもなく,歩いて巡って来るお遍路さんにも会わず,境内は静かで,僅かに数人,自家用車で訪れたであろう参拝の方を見かけただけだった.

 御本尊(薬師如来)と大師堂で,いつも通り合掌礼拝から開経偈,般若心経,本尊御真言,光明真言,御宝号,回向を唱え,その後,ここまで無事に辿り着けたことへの感謝,お世話になっている方々へのお礼,見守りたい人たちへの祈りなどを心のなかで唱えると,何か一つ肩が軽くなったような気がした.そして,納経所で最後のその頁に,大窪寺の御朱印をいただいた.

 普段は滅多にしない納経所内の周囲を見回すと,御札や仏具などの陳列の上に,「結願の証」を有償で発する旨の説明と見本の賞状が飾ってある.「なるほど...」と思いそれをお願いすると,暫くして名前入りの賞状をいただいた.そして,『賞状の氏名,日付をよく乾かして...』と言われ,ドライヤーで充分乾かした後,これもいただいた筒に入れた.

 「これで,結願したのか...」とは思ったが,それは「これでお終い」とか「ようやく結願した」という感慨などとは全く異なっていた.それよりも,「(実際にはない)次の89番に行かなくちゃ」とか「もっと歩き続けたい」という想いのほうが強く,そのためにこそ,大窪寺山門下にある民宿「八十窪」に宿を取っていた.

 前も言ったように,宿を予約してもある程度の時間にならないと宿に入れない.ホテルのチェックイン・アウトのような厳密さはないが,案の定「八十窪」の前を通りながら気配を伺っても,中は真っ暗.

 「当たり前だよな」と時間を見ると,まだ午前11時前頃.一応電話を入れると,転送電話に出た女将は外出中とのことで,『この時間なら,キャンセルして次に行かれてもいいですよ』と言われてしまう.それでは宿での情報収集ができないので,『高松市のゲストハウスのオーナーからそちらの名物大女将のお話も伺っているし,何時まででも待ちますから泊めて下さい』と再度お願いする.電話先の女将は苦笑しながら,『分かりました.昼過ぎには帰るので,それまでお待ち下さい』と言ってくれた.

 かくして,「八十窪」の玄関先にザックだけ置かせてもらい,私は付近にある門前の蕎麦屋ならぬうどん屋で,久し振りに落ち着いたお昼をいただくことにした.これも腰がある讃岐うどんを美味しくいただくと,電話で女将に確認した「大窪寺奥の院」へと向かった.

炎童(円堂)坊像


 「大窪寺奥の院」は,参道途中に出るあの急坂な女体山下りを逆に登り,途中で山頂方向とは別に行く路の先にあった.そのため,腹ごしらえした後に再度登る急坂は結構きつく,電話では女将は『険しくないですよ.普通の山路...』と言われていたが,じぇんじぇん違う! 地元の人たちは,「普通」とか「山路」の感覚が違うんだな!と改めて思い知らされたが,とにかくその路を進むと40分ほどで奥の院が見えた.

 しかし,その堂の前にあった掲示には,現在奥の院は改築中で,再興のため寄進を募っているとのこと.お堂の横の崖越しには「炎童(円堂)坊像」が僅かな囲いの中に祀られていたが,他にはブロック塀と板張りの小屋しかなかった.その中に,地元の人達に親しまれている御本尊があるのだろう.

 その後,再び大窪寺前に戻った私は,国道間際の角に腰を下ろし,見渡す限りの景色をゆっくり見たり,更に再びうどん屋に行き,ソフトクリームをいただくなどして,午後2時過ぎまで待った.


 八十窪に一番乗りした私の他には,お客さんはお遍路さんが2名だった.
 どちらも白髪交じりの男性で,やはり言葉少なめのお二人だったが,食堂の隅の椅子にちょこんと座った大女将とその娘さんなのか女将さんが,その場の会話を弾ませてくれた.

 大女将は既出した「大窪寺への正式な遍路道のこと」「かつての鎖場が今は変わったこと」の他,「昔は近在の娘は皆お遍路に出たが,私はそのずうっと前(80代後半~90代と思える大女将の10代後半の時=70,80年程前?)からお遍路したこと」「昔は遍路道と言われる程の道はなく,札所の所在を人に聞いても誰も知らないお寺も多かった.今のような道標も殆どなかった」等々,昔のお遍路話を面白く伺った.

 このブロクの本シリーズ「その六」にも書いた通り,お遍路の歴史は800~1,000年あるらしい.今回の私の遍路でも,江戸時代からあると思われる「町 (丁)石~1丁(60間=109m)毎にある石標」や「街道筋石標」に随分助けられたし,況や「へんろみち保存協力会」や全国の支援団体,「鯖大師」を始めとする寺社僧侶の方々などによる,奥深い山中の迷いポイントに励ましの言葉と共に括り付けて下さった道標などに,どれ程励まされ心の支えになったか言い尽くせない.

 そうした道標もあまりない時期から,お堂の隅に野宿したり,何足も草鞋を持ちながら歩き巡った大女将の苦労は想像することもできないが,そうまでして巡られる<四国遍路>は,様々な想いを抱いて四国に集まって来る人々によってずうっと続けられている.そして,そういうお遍路たちを,四国の人々はやはりずうっと受入れている.その事実だけは,如何なる解釈の余地もなく継続されている.


 結願を果たした歩き遍路は,どういう帰り路を辿るのか,女将に聞いてみた.

 大抵は1番に行きお礼参りをするか,10番に出て10番から1番へ逆打ち(さかうち)する人が多いとのこと.そうではなく,88番から直ちに87番,86番と逆打ちする人も中にはいるようだが,私は10番へ出る路を選んだ.何故なら,再び元来た札所を逆打ちして戻り巡るまでの時間はなかったが,1番に出れば,そこですぐ遍路は終わってしまうからだった.

 「どのように10番に出れば良いのだろう」と聞くともなく呟くと,一緒に食事していたお遍路さんから『ここまで一緒に歩いてきたお遍路さんが近くで野宿しているから,聞いてみたらいいよ』と教えてくれた.何でも,そのお遍路さんは四国巡りを既に13回しているとのことで,道もよく知っているからとのことだった.

 食後,女将さんがお接待で握ってくれたお握り2つを友人の方が持って,近くの公衆トイレ前の休憩スペースにテントを張った野宿お遍路さんの元へ,私を連れて行ってくれた.そして,テントの中から出てきたその方にお会いすると,幾つか手前の札所で私も一,二度お見かけしている方であった.

 テント担いで歩き遍路をしている者同士は,何となくその波長を互いに感じ取ることができた.そのため,少し遠くからではあったが私はその人を覚えていたし,彼も私を見かけていた風だった.そして,10番札所への歩き路や野宿できそうな場所など詳しく教えてくれた.

 ただ,その方は白衣や袈裟を身に着けておらず,最低限の荷物で回っており,その遍路回数などを考えてみても,やがて職業遍路になってしまう雰囲気も感じられた.そうなると,いよいよ現世と来世の境界が付かない次元に迷い込んでしまうようで,それが<歩き遍路>の<怖さ>でもあり,ある意味では<新世界><別次元>への現世からの<飛躍>であるかもしれなかった.

 そういう雰囲気は,私が知っている四国以外の都市などでのホームレスの人達とは少し異なる,異質な波長を感じさせる,独特のものと言ってもいいかもしれなかった.

 とまれ,その彼から10番への路を伺い,改めて部屋に戻ってコースを確認して,その晩は休んだ.




2022年6月17日金曜日

<歩き遍路>再開! その九

 2022.06.17

 「道の駅ながお」の一角に張ったテント内は,前の県道3号線を猛スピードで走るダンプの音が深夜になっても時折聞こえてきて,うるさかった.しかし,私はしっかり眠った.

 そして,朝4時半前には起き用意をして,5時半過ぎには歩き始めたが,昨日の雨をたっぷり吸ったアスファルトの歩道は,割れた継ぎ目からオヒシバなどが私の腰以上に長く伸びずっと続いていた.この道は徳島方面に抜けられる道ではあるが,歩道を使って歩く人なぞまずいないことをそれは示していた.

 

 前山ダム沿いの道の駅から大窪寺までは,3つのルート(遍路道)がある.

 1つは標高410mを通る山路を経て国道377号線に出,女体山をグルっと回っていくルート,2つ目と3つ目は前山ダムから大窪寺までの女体山縦走ルートで,最後の2kmちょっとで2つは合流するが,その手前5,6kmは西側を通るか東側を通るかで分かれた.

 標高は前山ダム辺りで140m程だが,2ルートとも合流手前5,6kmの間に300,400,500mと標高が上がって,合流してからの最高点は地図上では標高776mになる.四国八十八か所の遍路道での最高点は雲辺寺の910mだが,大窪寺も負けず劣らずの高さ.しかも聞くところの「鎖場」もある.ということは...結構,ヤバい !?

 まさか,最後の最後でひょっとしたら一番厳しい札所なの?と少し臆しながらも,私は直行ルートの東側を通る山路に決め,進んだ.少し行くと,今は草が茂るダムの広い貯水用エリアに何か動くものがいる.止まってよく見ると,ずっと遠くなのに,猿の一群が私の気配を感じて森の中に逃げていった.Oh, Wild だぜ!
https://photos.google.com/archive/photo/AF1QipOdA8hC8ISPD1oDhYcqvKZs68zRZrh6Az0hvL

 そして,路は次第に鬱蒼とした森の中に入っていき,途中の神社を抜けるといよいよ道幅数十cmの林道となった.しかし,所々に道標が立っているので進路には安心できたが,山頂からの清水や雨水が小川となって流れており,その様は高野山から富貴地区に行く旧街道の渓谷を思い出させた.
「深い山に<水>は付き物だな」などと思いながら進んだが,その水は後になって「鎖場」があると言われたエリアで手こずらされる一因にもなることを,その時はまだ想像できなかった.
 その後,いよいよ本格的な山路に入ることになった(写真上がその山路入口だが,左に伸びる幅の広い道じゃない.真ん中にある小さな遍路道標示の右横の路?.その拡大図が下の写真).

 その山路は夥しい落ち葉や枝,倒木などで路が被われ,時折覗く岩肌は勿論,地面全体がしっとり濡れていて,歩きにくくはなかったが,山の奥深さをしっかり実感させた.
 そして,その路を抜けると,遠くに目指す女体山山頂が見えてきた!
 
  それから暫く行って,女体山山頂にある大窪寺の2km手前,西側ルートと合流する地点に来た時,この近辺の「太郎兵衛」や「古大窪(ふろくぼ)」の名の由来の掲示物などがあり,一時の憩いになった.しかし,以降の路はどんどん険しさを増し厳しくなった.

 しかも,路とはいえ,硬い岩があちこちに露出する岩礁路で,これがまた昨日の長雨の影響であろう,テカテカと濡れて光っている.「う~ん,こりゃ,滑るな...」と気を引き締めて歩くが,一休みや息継ぎする度,どんどん高度と険しさを増していくその山路には,じっと覚悟を決めるしかなかった.

 やがて山路は,コンクリ造りの階段や石段,木段,岩段?などが多くなり,明らかに "天国への階段 (Stairway to Heven~1971 Led Zeppelinというロックバンドがリリースした曲の題名...)" だななどと思っていた時,遂にガチンコ急斜面に出くわした.


 見るまでもなく,その傾斜に抗って登っていくには,右手に持っている金剛杖は邪魔になる.これから先に「鎖場」が出てくるのであれば尚更なので,今朝アタック前に縛り付けていた網代笠に加えて,金剛杖もザック左側のベルトに差し込み,外れないようにしっかり縛り付けた.
 後は,「岩にかじりついてでも登ってやる!」と覚悟を決めたが,文字通り,それは岩にへばり付きながらでなければ登れない厳しいアタックになった.

 鎖場---と「ゲストハウス若葉屋」のオーナーが言われた場所は,それこそ角度60度はあるであろう岩盤斜面そのものだった.その岩肌には手をかけやすい凹凸も殆どなく,岩盤の隙間の土にしがみ付くように延びる木の根っこがよじ登る際の心強い「手がかり」になったほど,斜面は急で危うかった.

 岩は濡れていて滑る.僅かな岩の窪みを足がかりにしようと爪先を入れても,しっかり喰い込ませないとツルッと滑り靴が外れる.手がかりが何もない所で爪先が滑ったら,10kgのザックの重みが牽引力となって,確実に私の身体を崖下に引き落としてくれる.

 「ヤバいな~」と必至に両手指,両足指を岩面に爪立てしがみつきながら,僅かな手がかり・足がかりを頼りによじ登った.その斜面の途中で,岩盤の険しさを写メに撮ろうと努力したが,やっと片手でスマホを出しカメラを起動,シャッターを切ろうとしても,ちょっとでも間違えば自分がそのまま転落.

よくてカメラを落としてオジャンにしてしまう危険箇所なので,かなり躊躇いながらも,それでもやっと撮った写真がこれ(右3枚~縦2,横1).

 かつてはそこに鎖が張られ,登山者の手がかりとして設けられていたのであろうが,今は鎖はない.鎖があったであろうと思われた箇所には,今は「コ」の字型の大型アンカーボルト(よく掘りの深い放水路の昇降用階段代わりに設置されている)が横に数個,間隔を開けて付いていた.

 後で「八十窪」の大女将に聞いた話では,かつては鎖場があったのだが,その箇所で転落等の事故が起きたため,不安定な鎖ではなく安全性を高めようと,現在の金具に変わったとのこと.

 そうは言っても,私からすれば今も充分な危険箇所で,ましてお遍路が金剛杖を突いて登れるような傾斜角では到底ない.そのため,言い換えれば「軽度?ロッククライミングポイント」と,私は名付けよう!
 ロッククライミングであれば,合計10kgにもなる重いザックや前の頭陀袋を身体に付けて登るなど,あり得ない.バランスを取った微妙な身動きができなくなるからだ.しかも,私は「クライマー」じゃなく<歩き遍路>だー!.それでも,『なんじゃ,こりゃ~!』などと言いながら必死に喰らいついた.

 85番八栗寺手前で泊まった「高柳旅館」のご主人は,その鎖場の高さを『せいぜい1,2mだ』と言われたがとんでもない.実感,建物2階以上を上がる高さがあったので,ざっと7,8m以上はあるだろう.
 そういうリスキーポイントが女体山越え遍路道には今もあり,「どこが "女体" だ~!」などと思いながらも,それは「四国霊場結願所」として「女体山」という剛峰を擁する大窪寺への必須関門なのだろうと,岩礁を登り切った後につくづく思った.


 とまれ,そうしてやっと辿り着いたのが女体山山頂.そこから見下ろすさぬき市の遠望や山の翠の深さにホッと息を撫で下ろしたのも束の間,まだ大窪寺納経は終わっていないと,また歩き始めた.


 大窪寺手前では,僅か1km程の間を340mも一気に下降する.その急坂で,『今度はなだれ落ちかヨー!』とつい愚痴を吐きながらも駆け下りた.すると,参道へと通じる階段が出てきて,そこを降りると先に大師堂に着いた.
 「八十窪」の大女将に後で聞いた話ではあるが,このことからも,正式な参道への遍路道は,国道377号をずうと大回りに回ってくるルートの方かもしれなかった.
 
 何れにせよ,奥深い山頂の寺院である厳かさや趣きはお寺の柱の一つ一つ,墓石や石碑の一つ一つにしっかり現れていて,更に「四国霊場結願所」としての格式も感じられ,印象深かった.その大窪寺では遂に「四国八十八か所 結願の証」をいただき,歩き遍路の誉となった.その大窪寺を打ち終えたのは,午前10時半.
 (道の駅からだが)歩き始めて5時間.前山ダムでの標示より1時間多かったが,何とか札所結願所を打ち終った.
 
 しかし,私は「結願」を果たしたからと言って,正直言って,それに響く感情は全く湧いてこなかった.88番を打った後は,当然89番があるかのように次を目指すことしか意識しなかったし,「もっと歩き続けたい」というのが本音だった.
 そのためにこそ,今夜,お遍路の定宿となっている「八十窪」に泊まり,結願を果たした以後の<歩き遍路>の成り行きを,情報として確かめたかった...