2022.06.21
「四国八十八か所結願所88番大窪寺」の境内には,結願札所として,長くお遍路さんたちが手にし地を突き共に歩いた金剛杖を奉納できる「寶杖堂(ほうじょうどう)」があった.少し離れて「結願錫杖大師像」もあり,そこには「千二百有余年前,お大師様が一切衆生済度~この世で生を受けた全ての命ある者を迷いの苦しみから救い,悟りの境地へと導くこと(コトバンクより)の為に四国八十八ヵ所を開創される際,師匠である中国の恵果和尚より授かった錫杖を大窪寺に身代わりとして納めた」との説明があった.
| 大窪寺大師堂 |
お遍路団体ツアーなどの一群と接触することもなく,歩いて巡って来るお遍路さんにも会わず,境内は静かで,僅かに数人,自家用車で訪れたであろう参拝の方を見かけただけだった.
御本尊(薬師如来)と大師堂で,いつも通り合掌礼拝から開経偈,般若心経,本尊御真言,光明真言,御宝号,回向を唱え,その後,ここまで無事に辿り着けたことへの感謝,お世話になっている方々へのお礼,見守りたい人たちへの祈りなどを心のなかで唱えると,何か一つ肩が軽くなったような気がした.そして,納経所で最後のその頁に,大窪寺の御朱印をいただいた.
普段は滅多にしない納経所内の周囲を見回すと,御札や仏具などの陳列の上に,「結願の証」を有償で発する旨の説明と見本の賞状が飾ってある.「なるほど...」と思いそれをお願いすると,暫くして名前入りの賞状をいただいた.そして,『賞状の氏名,日付をよく乾かして...』と言われ,ドライヤーで充分乾かした後,これもいただいた筒に入れた.
「これで,結願したのか...」とは思ったが,それは「これでお終い」とか「ようやく結願した」という感慨などとは全く異なっていた.それよりも,「(実際にはない)次の89番に行かなくちゃ」とか「もっと歩き続けたい」という想いのほうが強く,そのためにこそ,大窪寺山門下にある民宿「八十窪」に宿を取っていた.
前も言ったように,宿を予約してもある程度の時間にならないと宿に入れない.ホテルのチェックイン・アウトのような厳密さはないが,案の定「八十窪」の前を通りながら気配を伺っても,中は真っ暗.
「当たり前だよな」と時間を見ると,まだ午前11時前頃.一応電話を入れると,転送電話に出た女将は外出中とのことで,『この時間なら,キャンセルして次に行かれてもいいですよ』と言われてしまう.それでは宿での情報収集ができないので,『高松市のゲストハウスのオーナーからそちらの名物大女将のお話も伺っているし,何時まででも待ちますから泊めて下さい』と再度お願いする.電話先の女将は苦笑しながら,『分かりました.昼過ぎには帰るので,それまでお待ち下さい』と言ってくれた.
かくして,「八十窪」の玄関先にザックだけ置かせてもらい,私は付近にある門前の蕎麦屋ならぬうどん屋で,久し振りに落ち着いたお昼をいただくことにした.これも腰がある讃岐うどんを美味しくいただくと,電話で女将に確認した「大窪寺奥の院」へと向かった.
| 炎童(円堂)坊像 |
「大窪寺奥の院」は,参道途中に出るあの急坂な女体山下りを逆に登り,途中で山頂方向とは別に行く路の先にあった.そのため,腹ごしらえした後に再度登る急坂は結構きつく,電話では女将は『険しくないですよ.普通の山路...』と言われていたが,じぇんじぇん違う! 地元の人たちは,「普通」とか「山路」の感覚が違うんだな!と改めて思い知らされたが,とにかくその路を進むと40分ほどで奥の院が見えた.
しかし,その堂の前にあった掲示には,現在奥の院は改築中で,再興のため寄進を募っているとのこと.お堂の横の崖越しには「炎童(円堂)坊像」が僅かな囲いの中に祀られていたが,他にはブロック塀と板張りの小屋しかなかった.その中に,地元の人達に親しまれている御本尊があるのだろう.
その後,再び大窪寺前に戻った私は,国道間際の角に腰を下ろし,見渡す限りの景色をゆっくり見たり,更に再びうどん屋に行き,ソフトクリームをいただくなどして,午後2時過ぎまで待った.
大女将は既出した「大窪寺への正式な遍路道のこと」「かつての鎖場が今は変わったこと」の他,「昔は近在の娘は皆お遍路に出たが,私はそのずうっと前(80代後半~90代と思える大女将の10代後半の時=70,80年程前?)からお遍路したこと」「昔は遍路道と言われる程の道はなく,札所の所在を人に聞いても誰も知らないお寺も多かった.今のような道標も殆どなかった」等々,昔のお遍路話を面白く伺った.
このブロクの本シリーズ「その六」にも書いた通り,お遍路の歴史は800~1,000年あるらしい.今回の私の遍路でも,江戸時代からあると思われる「町 (丁)石~1丁(60間=109m)毎にある石標」や「街道筋石標」に随分助けられたし,況や「へんろみち保存協力会」や全国の支援団体,「鯖大師」を始めとする寺社僧侶の方々などによる,奥深い山中の迷いポイントに励ましの言葉と共に括り付けて下さった道標などに,どれ程励まされ心の支えになったか言い尽くせない.そうした道標もあまりない時期から,お堂の隅に野宿したり,何足も草鞋を持ちながら歩き巡った大女将の苦労は想像することもできないが,そうまでして巡られる<四国遍路>は,様々な想いを抱いて四国に集まって来る人々によってずうっと続けられている.そして,そういうお遍路たちを,四国の人々はやはりずうっと受入れている.その事実だけは,如何なる解釈の余地もなく継続されている.
結願を果たした歩き遍路は,どういう帰り路を辿るのか,女将に聞いてみた.
大抵は1番に行きお礼参りをするか,10番に出て10番から1番へ逆打ち(さかうち)する人が多いとのこと.そうではなく,88番から直ちに87番,86番と逆打ちする人も中にはいるようだが,私は10番へ出る路を選んだ.何故なら,再び元来た札所を逆打ちして戻り巡るまでの時間はなかったが,1番に出れば,そこですぐ遍路は終わってしまうからだった.
「どのように10番に出れば良いのだろう」と聞くともなく呟くと,一緒に食事していたお遍路さんから『ここまで一緒に歩いてきたお遍路さんが近くで野宿しているから,聞いてみたらいいよ』と教えてくれた.何でも,そのお遍路さんは四国巡りを既に13回しているとのことで,道もよく知っているからとのことだった.
食後,女将さんがお接待で握ってくれたお握り2つを友人の方が持って,近くの公衆トイレ前の休憩スペースにテントを張った野宿お遍路さんの元へ,私を連れて行ってくれた.そして,テントの中から出てきたその方にお会いすると,幾つか手前の札所で私も一,二度お見かけしている方であった.
テント担いで歩き遍路をしている者同士は,何となくその波長を互いに感じ取ることができた.そのため,少し遠くからではあったが私はその人を覚えていたし,彼も私を見かけていた風だった.そして,10番札所への歩き路や野宿できそうな場所など詳しく教えてくれた.
ただ,その方は白衣や袈裟を身に着けておらず,最低限の荷物で回っており,その遍路回数などを考えてみても,やがて職業遍路になってしまう雰囲気も感じられた.そうなると,いよいよ現世と来世の境界が付かない次元に迷い込んでしまうようで,それが<歩き遍路>の<怖さ>でもあり,ある意味では<新世界><別次元>への現世からの<飛躍>であるかもしれなかった.
そういう雰囲気は,私が知っている四国以外の都市などでのホームレスの人達とは少し異なる,異質な波長を感じさせる,独特のものと言ってもいいかもしれなかった.
とまれ,その彼から10番への路を伺い,改めて部屋に戻ってコースを確認して,その晩は休んだ.
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