2022年6月12日日曜日

<歩き遍路>再開! その四

 2022.06.11

 「カァ... カァ...ァ...」

 5月24日朝5時前,寝ぼけたカラスの鳴き声で起こされた.

 公園の東屋に張ったテントの薄い生地越しには,まだ薄暗い陽の光しか映らなかったが,そのままゆっくり起きてテントを撤収した.東屋の脇に置いてあった竹箒で周辺を掃除すると,ザックのパッキングなどを済ませ準備を整える.そして,琴弾公園を午前6時半前には出立した.

 早朝,公園をジョギングする人などに挨拶しながら,入口付近の自販機で水を補給し,そのまま観音寺から70番本山寺に続く財田川沿いの4,5kmの道を歩き始めた.財田川は川幅も広く静かに流れ,時折鷺のような鳥も川面にいてキラキラ光っていた.

 焼山寺や横峰寺,大窪寺へのような険しい山路や,室戸岬の金剛福寺へ永遠と続く海岸沿いの遍路道とは違って,川沿いの道は穏やかで,心静かに歩くことができた.


 その本山寺には小一時間で着き,見事な五重塔の傍で少し休むと,早々に次の71番弥谷寺までの11kmちょっとを歩き始めた.その遍路道は,ほぼ国道11号線に沿った道で,小さな池があちこちにある辺りを縫うように歩き続けると,やがて11号から分かれ西に延びてていく.国道11号は三豊市に南北に伸びる道で,山中の同時間帯に比べ,通勤や商用やらで行き交う車がとても多い.それでも,遍路道として定まっていることからその国道をひたすら歩いたが,できるだけ早くそこを通り過ぎたかった.

 ちょうどその中間点手前まで来た時,まだお昼には早かったが讃岐うどんの店の前を通りかかったので,名物のうどんをいただいた.美味しかったのだが,食べたらここ数日の疲れがグッと出てきた.

 休憩後また歩きだしてから,「今夜は早めに休みたいな」と歩を止めずに地図を確かめると,弥谷寺直前には太子堂や公衆トイレもあるが,途中の道はずっと郊外エリアで,地図上に公園の記載はない.また,寝所にできそうな遍路小屋など勿論なく,ましてテントを張れるような休憩スペースもない.

 町外れの郊外というのは,テントで野宿できそうな場所が意外に少ない.下手な所でテントを張ろうものなら,通報され警察が来ることもあるし,まだ日が落ちない内に(落ちてからも)郊外の道路脇でテントを張れば不審者扱いされる.ただ,今日の疲れ具合では,弥谷寺直前の太子堂まで歩き通せるか,少し不安だった.

 「このままだと,今夜の寝所に困ることになるかな...」と思い始めたその時,ほぼ三豊市の町のど真ん中なのに,昔からお遍路さん目当てで営んでいる風の「お遍路さん大歓迎!」と書かれた看板のある「ほ志川旅館」に出くわした.「えっ!」と思いつつ,時間はまだ午後2時過ぎではあったが「ここしかない!」と即断.敷地に入り,古い木戸をガラガラっと開けた.

 『すいませ~ん! 御免くださ~い!』

 そう大きな声を出して呼んでも,応答がない.「やはり看板はあっても,コロナもあるし,もうやっていないのかな?」と思い始めたその時,玄関脇の垣根の横から出てきたらしい高齢の女性が,後ろから『は~い』と声をかけた.

 『あの~,ちょっと早いんですが,今晩泊めていただけませんか?』と尋ねる.

 『え~... いいですヨ』とご婦人.

 『そうですか,いや~,助かります.ちょっと疲れちゃってて... あの,食事は付きますか? おいくらになりますか?』

 『え~っと,素泊まりで4,000円です.食事はもうしていないんですヨ~』

 『いや,それで結構です.助かります』と,早々に今晩の寝所をお願いした.

 聞けば,その女将さんは,以前は人を雇い食事付きでやっていたが,お遍路さんも少なくなって,歳も80過ぎたので,今は部屋を貸すだけだと言われた.他にお客さんは「実習生の学生さんが1人いるだけ」とのことだった.

 食事は11号線を挟んだ向かいにコンビニもスーパーもあり,ホームセンターもあるので,全く不自由はなさそうだった.通された部屋は昔ながらのトイレ・風呂別の6畳間だったが,それなりに整理され片付き,落ち着いた和室だった.

 部屋でザックの荷を解き,早速洗濯をさせてもらっている内にお風呂も入られるとのことだったので,汗を流させてもらった.そして,風呂上がりに洗濯物を干し,夕食用の弁当でもと向かいのスーパーに行き,小分けの惣菜などを買った.お遍路に出る前も,よくスーパーのお惣菜を買って食べているので,お遍路に出てからも同じことをしている自分が少し可笑しかった.

 そして,ホームセンターにも行き,取り付けようと思っていたペットボトルホルダーを買い,ザックのショルダーハーネスに付けてみた.これで,歩きながら水分補給したい時,ザックを降ろさなくてもすぐ飲料が飲めるようになって,大正解だった.

 こうして,歩き始めて4日目の安定した寝所が確保され,気持ちよく寝ることができた.


 翌朝(5/25)4時半起床.

 昨夜は早く休んだこともあり,すっかり体力も気力も回復している.朝,部屋のお茶をいただき,体調を整えると,女将さんに挨拶して6時前に出立.

 ほ志川旅館からの遍路道は,11号線から少しずつ逸れて西に向かい,標高220mへの登路となる.

 標高こそ僅かだが,弥谷寺はその周辺の深い山間,特に切り立った岩肌に抱かれるように建てられた寺院の造りなど,今回の歩き遍路で最も印象に残るお寺となったかもしれない.

 11号から西に延びた遍路道は程なく山路となり,1kmちょっと歩くと急な石段混じりの参道になる.その石段は何回かに分かれ500段以上続きやがて本殿に達するが,まず一段階登った所に山門があり,それを抜けると高さ数メートルある大きな大日如来と思われる立像が迎えてくれる.
 そして,更に続く石段をどんどん登ると,岸壁にぶつかり「水場」があり祠があるが,最後に社屋内に設けられた本堂に着く.その中に進むと,お大師様が勉学されたという「岩窟奥の院」を拝むことができる.


 それは,言葉では表現できない厳粛な空気に包まれ,その前で拝んでいると,激しく感情を揺さぶられる霊気を感じる.

 真言宗徒でもない私が,お大師様(弘法大師)の教えを理解するなぞ微塵もできないが,でも,奥深い山奥のこの洞窟のような岩窟に籠もり,来る日も来る日も経典の学びに勉めたであろうことを想像すると,この場にしてさもありなんと,納得せざるを得なかった.その印象は,以後も私の中に強く残った.

 そのためか,弥谷寺を出ると,72番曼荼羅寺,73番出釈迦寺,74番甲山寺,75番善通寺本堂・御影堂,続く76番金倉寺まで,一気に打った.その距離は合わせて12kmほどだが,それぞれにお堂や塔の印象は残っても,私の頭の中には弥谷寺の岩窟に鎮座されたお大師様のお顔がこびりついて離れなかった.

 5日目は76番を打った時点で計18km程歩いていたが,76番周辺は国道11号と高松自動車道が延びる多度津町や丸亀市の只中で,やはり遍路小屋などのテントを張れる場所がありそうにない.最初の区切り打ちの際に知り合った藤森さんという得度された方が,歩きお遍路を対象に善根宿や無償または安価な宿の一覧を作っておられ,「藤森リスト」として歩き遍路者の間に流通している.私もそれを持っていたが,ここまで来て善根宿にお世話になるより,テントを設営できそうな場所を探そうとあちこち回ったが,その内,夕方間際になってしまった.

 しかも,次の77番道隆寺はJR多度津駅のすぐ傍で,駅まで行けばベンチもあるだろうと目指して歩いた.しかし,善通寺市に入って住宅街を通り過ぎている内,少し近道をと浮気心を出したのが間違いだった.同じような住宅街の光景に単純な道を間違い,1km程歩いてまた元歩いた辺りに戻る.

 『えっ!』と驚き,また振り出しに戻るが,遍路道を1kmも東に寄った金倉川の横に出たりと,一気に迷いと疲れが出てきた.「町歩きは好かん!」と気分も落ち込んできて,こりゃダメだとスマホで宿を探すと,画面の最初に「チサンイン丸亀善通寺」というホテルが出てきた.他も当たったが,部屋が空いている中では一番安い.

 仕方なくそこを予約(素泊まり)して,ホテルまで向かおうとよく地図を見ると,何と,打ち終えた76番近くで,通り過ぎてきた丸亀市に3km以上戻る位置にある.『えーっ!』と思わず声が出たが,今からそこをキャンセルし宿を探すとしたらまた結構な時間と手間がかかり,宿が見つかるかどうかも分からない.最悪の選択!と思いつつも,また元来た道を50分近くも歩いて戻り,何とかチェックインした.

 今回の歩き遍路中の,最大の失敗と言えるだろうが,食事なしの素泊まりだったはずの翌朝(5/26),何を勘違いしたのだろう.朝,洗濯した衣類を更に乾かそうと,6時頃に1階フロント横の乾燥機を使ったら,『朝食はこちらでお摂り下さい』と早番らしいホテルの人が声をかけてきた.誰もいないフロント横のスペースに簡単な朝食バイキングがあり,私はついそのまま朝食をいただいた.

 そして,7時頃に出立しようと1階に降りる際,「あれ? 俺は食事なしの素泊まりじゃなかったっけ?」とその時気付き,フロントでその旨伝え,必要に応じて追加料金を支払おうとすると,その早番フロントマンの中年の男性は,『もう片付けてしまったので結構ですよ』と言われ,私は結果的に朝食をお接待していただいたことになった.ホテルで料金の一部をフリーにしてもらったのは初めてだったが,こういうこともあるのだなと,深々頭を下げた.


 以後,77番道隆寺,78番郷照寺,79番天皇寺は,JR予讃線に沿って各4~7km間隔で続く町中の札所であった.天皇寺の手前には「八十場の水」という枯れない湧き水の名所もあり,昔は旅に疲れたお遍路などの喉を潤し憩いの場であっただろうと思われた.また,天皇寺の境内は砂利がきれいに整えられ,天皇の参拝寺社らしい趣があった.

 しかし,既に書いたように,それら札所がある町中には遍路小屋も東屋もなく,気の利いた公園なども付近になかった.そのため,20km近く市街を歩いた時点でもう諦め,天皇寺手前の一番安い「ビジネス旅館」と名がつく宿に泊まった.

 この町中連続の札所には,正直,私の印象は薄い.しかし,今でこそ栄えた場所に位置しても,昔,札所としてお遍路が巡り歩いていた時期は,街道沿いの有り難い札所として重んじられただろうと考えると,時代の移り変わりには何とも言えないものを感じた.


 5月27日,朝6時半前には宿を出た.

 再び天皇寺を拝んだ後,約7km先の80番国分寺を10時半前に打った.

 その後,ここから81番白峯寺までは地図上6.5km,それから82番根香寺までは更に5kmとある.しかし,白峯寺は標高280mあり,続く82番根香寺は標高360mを超える山頂にある.山路を歩けば根香寺到着は3時間以上かかるのは必至.そうした時間的なことや持参すべき食料のことを考えると,この辺りで補給しなければならない.

 そのため国分寺を打った後,付近にあるうどん店まで一旦戻った.

 昔から営んでいる風のその店は,ほぼ2つのセットメニューのどちらかを選ぶ方式で,私は手打ちうどんと炊込みご飯セットをいただいた.そして,うどんで腹が膨れたので,店の女主人に勧められるまま,残ったご飯を自分で小さなおにぎり2つにした.これと前から持っている非常食を合わせれば,途中野宿となっても凌げるなと判断し,アタックを開始した.

 標高はそれ程高くないとしても,2~3の山全体が広大な自衛隊演習場となっている地域で,それを縫うようにして遍路道が設けられている(元々は遍路道が先だけど...).国分寺から北上した道は4km以上先で東西2つに別れ,西に白峯寺,東に根香寺となるが,その地域の特性上,自衛隊関係者やお遍路以外,周辺は誰も通らない.

 両寺の割りと手前までは,自衛隊演習場の関係からであろう道は舗装整備され,歩くのに苦労はないが,舗装路を外れて登りが始まると,それなりのブッシュや岩路を横切る遍路道となった.

 ただ,白峯寺手前の自衛隊演習場の某かの建物をフェンス越しに通り過ぎ,ブッシュの中を更にひたすら進むと,岩や石を交えた下りの遍路道の傍らに,「摩尼輪塔と下乗石」と名が付く大きな史跡が突然現れた.

 その説明文を読むと『...苦しい仏道修行の中でも特に最終の位を表す「摩尼輪(塔の円錐部分)」にちなんで呼ばれている』もので,塔の下に「下乗」と書いてあるのは『...長い遍路道もやっと聖地に近付いたことを教えている』ことや『ここからは聖地であるから,どんな高貴な者でも乗り物から降りて自分で歩いて参拝しなさいということ』との断り書きがあった.また,『この摩尼輪塔は,鎌倉時代末の1321年(元応3年2月18日)に密教の僧,金剛仏師宗明によって建てられた全国でも珍しい塔』であるとも記されていた.

 「そうだよ.札所に行くには,きちんと自分の足で歩きなさいよ!」と,自分の歩き遍路を勇気付ける史跡を目にした時,「でも,昔は,高貴な人でもこうした険しい山路を歩み,札所を拝み巡る旅をしていたんだな...それに比べて,今の時代はおエライさんのどれだけの人がそうした営みに務めているだろうか」と,世相の有り様が問われてならなかった.

 かくして,荒れた遍路道を上り詰めた先に,その白峯寺が鎮座していた.

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