2022年6月14日火曜日

<歩き遍路>再開! その六

 2022.06.14

 81番白峯寺への路は,自衛隊演習場の間を縫うようにして続く岩混じりの山路であった.

 そこを上り下りして,札所手前の「摩尼輪塔・下乗」の史跡からはほぼ下り路となった.

 ここ数日雨は降っていなかったが,山間の山路は朝露や僅かな岩清水などで所々濡れ,路の間に飛び出す岩肌なども湿っていた.そのため,滑らないよう気を付けて歩いてはいたが,今回の遍路で私は初めて滑ってガツンと転んだ.10kgザックを背中に背負い,ずっと歩き続けて疲れていると,見事に横倒しになった後も中々身体を起こせない.「え~い!」と踏ん張りながら,やっとの思いで起き上がった.

 そして,次の82番への戻り道(往復路)ともなるその路を下り切ると,路の終わりにはチェーンが張られ,車は無理だがモトクロスバイクなども侵入できないようになっていた.しかも,横に設置された掲示を見ると,「大雨が降るとここから300m先の地点は冠水するので,雨天時通行できません」とある.そんな窪みだらけの路が遍路道になっている.それだけ,この山路から参拝に来る人がまずいないということなのだろう.

 珍しくだが,その路では白峯寺を打ち戻ってきたであろう,中年に差し掛かったばかりの男性と女性に出会った.男性は普通のハイキングスタイルだったが,女性は白衣は勿論,お遍路用白ズボンに同じく白脚絆も着けた正式なお遍路姿で,杖を突きながら俯いて登ってきた.

 どういう事情があって白峯寺を参拝されてきたのか,衣装の様が全く違う男女がどういう間柄なのか,そうしたことは想像も付かないが,お遍路には他人には分かり得ない理由を抱え巡り歩く人が多い.そんな二人と擦れ違った時,何故かお二人には心穏やかに生きていただきたいと感じた.


 かつての参道であったろうその路はやがて白峯寺社殿横に繋がり,そこを通って山門に出る.山門の前は,これが今の参道?と見間違うような広めの駐車場と,山路とは反対側に立派な車道が続いていて,お寺は駐車場の前を切り取るように落ちた山谷の間でグンと建っていた.

 今のように道が開けていなければ,奥深い山間の峡谷沿いにそびえ立つ荘厳な寺院そのものであったろうに,車で気軽に来れるようになったばかりに,その有り難さが損なわれているように私は感じた.

 とまれ,その白峯寺を打ったのが午後3時半前.次の82番根香寺までは約5km.

 「暗くならないうちに行くか!」と決め,歩き始める.しかし,この81~82番の山路は,結構キツく,山路であるが故に1時間少々ではつかないと覚悟はしていた.標高300m弱の白峯寺からの山路は次第に傾斜をつけ,80番国分寺からの分岐点で東に延びる路は,標高440m程の高さになる.

 やがて険しい山路から一応整備された県道281号線に出たが,程なくまた山路になった.そして,遂に根香寺,その直前200m程の所に来た時,何と小綺麗な遍路小屋に出くわした.「えっ!」と驚くと共に,「今夜はここに泊めていただこう」と喜び,根香寺に急いだ.

 根香寺は,私が住まわせいただいている高野山から40kmほど西に行くと,根来衆などでも有名な同名異字の「根来寺」があり,同じ名前だななどと思いながら訪ねる.こちらも無数の参拝者で踏み続けられ歪になった石段を登ると山門があり,更に石段を上ると本殿に向かうという,奥深い山間のお寺に相応しい威厳と趣きがあった.

 町中の整ったお寺もいいが,私は81番,82番などのこうした山深い荘厳な寺院の方が好きだった.

 さて,その根香寺を打ったのが午後4時45分.あまりゆっくりもしていられないなと,もと来た路を急いで戻り,あの遍路小屋へ.


 その小屋の前には,お遍路さんが休憩時に飲めるウォーターポットやコップ,お菓子箱などが置かれていた(残念ながら既に空).そして,小屋内に入るとお遍路を迎え入れようとする温かい気遣いがひしひしと伝わってきた.

 室内はきちんと片付けられ,窓枠を除き総板張りの山小屋風.その梁や木壁のあちこちに,お世話になった多くの遍路人の納め札が所狭しと貼られている.また,小屋には様々な案内表示や緊急時・忘れ物をした時の連絡先,更に家庭用の貼付けお灸まで置いてある.

 小屋は簡素だがロフトスペースもあり,複数人泊まっても困らない造りになっている.それに携帯を充電できる電源もあり,加えて小屋の外には簡易な別棟でトイレ・洗面台が設けられている.

 「このHospitality spirit は何なんだ!」とよく見ると,土地を提供し建設資金を工面されたのは「禅喝破道場」を運営されている野田大燈なる方.それは「四国八十八か所ヘンロ小屋プロジェクト」による第51号遍路小屋でもあり,「NPO法人遍路おもてなしネットワーク」という組織もバックアップしている.

 「五色台子どもおもてなし処」と名付けられたその小屋や別棟のトイレ・洗面台などの建設資金は,地元の企業や個人は元より,各地から寄付が集まって造られたとのこと.

 更に,定期的に小屋の掃除や施設管理をしているのは,社会福祉法人「四恩の里」(香川県高松市)が運営する「若竹学園」という児童心理治療施設であった.

 それは,「...心理的問題を抱え日常生活の多岐にわたり支障をきたしている子どもたちに,医療的な観点から生活支援を基盤とした心理治療(中略)や学校教育との緊密な連携による総合的な治療・支援を行う施設(「全国児童心理治療施設協議会」HPから)」で,「過去は不登校の子どもが入所することが多かったが,児童虐待防止法が制定以来,虐待を受けた子供の入所が急増し,現在は入所する子どもの78.1%となっている(中央法規出版「児童・家庭福祉」)」とのこと.

 若竹学園に入所する前,自分が受けたであろう厳しい虐待や心身共の苦労に拘らず,この小屋を定期的に掃除し,トイレを磨き,自分たちの小遣いを出し合いお菓子を提供して,遍路人への励ましカードまで用意し,訪れる人々を労おうとしている.そのカードの裏には,何と救急テープまで挟み入れる気遣い.

 数々の葛藤の中からこうした気遣いができるようになっている子どもたち(園生)の心の成長にも強く打たれるし,そうした利用者を日々支援している職員関係者の努力にも頭が下がる.

 40年余,東京・神奈川で障害者支援施設に関わってきた私としては,この涙ぐましい遍路小屋を実運営する「若竹学園」の利用者(彼らは園生と言っている)・職員関係者に,心からの謝意と熱烈な賛美を贈ろうと,「お遍路連絡ノート」に熱い想いを書き綴った.


 歩き遍路をしていると,時にこうした心温まる遭遇や人との出会いがある.

 お遍路に関する様々な資料や多くの関係書物を読んでも,巡り続けるお遍路の詳しい事情には触れないとする不文律や,それをそのまま許容する寛容な態度,そして,お茶やお菓子等の飲食物や寝場所の提供,時にお金を下さることもある様子など,それが「お接待」という四国の<文化>であることが多く記されている.

 今回の私のお遍路でも,通り過ぎた車が脇に止まり,歩いている私に冷たいペットボトルのお茶を差し出して,『頑張って下さいネ』と爽やかに立ち去った中年男性もいた.その<心根>を,単に<文化>という<慣習的なもの>に短絡させることはできない.

 私は四国の町中やその郊外でこそテント設営に困ったが,四国以外の他の都道府県では,山間ですら勝手にテントを張ったり東屋に野宿すれば,警察にご厄介になる確率は高い.それが,四国では大目に見てもらえる.理由は,お遍路だからである.

 日々の暮らしや生業から逸脱して,<死に態>としての白装束(白衣)を纏い,巡礼者として各地の札所を巡り歩きながら,路半ばで倒れた際は,周辺の村人により墓標=卒塔婆代わりに土饅頭に金剛杖を差し立ててもらう.そのため,路を突いて歩く金剛杖の頭には五輪塔を形どった刻みがあり,それに墓標と同じ「空・風・火・水・地」を表す梵字が書かれている.しかも,金剛杖はお大師様の化身として扱われるため,遍路人と常に<二人>で<同行>行脚することとなる.

 そうしたお遍路の中には,最近は「職業遍路」と呼ばれ,僧ではないが街角で托鉢したり乞食(こつじき)して,着の身着のまま四国をずっと歩き回り続けている者もいる.ホームレスとの区別がつかないなどを通り越し,既に定まった住所も持たず(住民票なし),永遠と放浪を続ける場合もあり,社会保障的観点からは保護の対象になるケースではある.

 「そういう人をお遍路と呼ぶのか」という見方や,「お遍路自体をもう受入れたくない」という世相も時代と共に高まりつつあるのだろう.事実,私が四国を歩いていて,都市部以外で道で出会って挨拶しても,返事を返してくれなかった人は5人中3人までもいた.そのため,必ずしも「お遍路に優しい四国」とは言えなくなりつつあるのかもしれない.


 とはいえ,そうしたお遍路を受け入れる<文化>は,一節では「平安~安土桃山時代(1160~1600?)に修行者が四国を回り,一般人は江戸時代(1600~1868)にかけて目立ってきた」とのこと.そうすると,一千年近くの間,四国はお遍路を受入れ続けてきたことになる.そうした非日常的なお遍路の有り様や存在を,四国の人々は自分たちの<日常>と共に<在る(存在する)>ことを認め,支えてきた.

 

 これらのことをつらつら考えるに,四国のお遍路は,<人の暮らし>や<生>の有り様を真に考え答えを求めようと来る人に対して,果たしている役割はかなり大きいに違いない.

 お遍路を受け入れる四国の<文化>は,この10年或いは20年以上,世界中で求められ続ける<多様性>を認める価値観そのものであるように思える.しかも,遍路は,容赦ない自然の洗礼を受ける険しい山野を歩き巡り,<弘法大師空海(お大師様)>や<神仏>,<天地万物>への自然な<信仰>を元に営まれ続けている.増して,自分たちの<生>の横で力尽き行き倒れたお遍路の遺体を埋葬するなど,<死>を間近に受け入れてきた昔の風習などを思えば,四国の<文化>の根底には,<日常>を超えた<超世界>が形作られているのではないかと想像する.

 四国には,そうした<別の世界>があると感じる.そうした価値観を,私たちの<日常>からは見通せなくなった時,人は四国を求めて歩き始めるのかもしれない.

 また,「四国に行こう」

 1度目,2度目,3度目,そして4度目になれば,また<視える世界>が変わるのかもしれない...

0 件のコメント:

コメントを投稿