2022年6月13日月曜日

<歩き遍路>再開! その伍

 2022.06.13

 『何故,四国を歩くの?』

 『それは...四国を歩いて,自分を見つめ直したいから...』

 『それって,四国に行かなきゃできないの? (四国に)行かなくてもできるんじゃないの?』

 <歩き遍路>を始める時,勤めていた職場に了解を得るためその旨伝えると,それを知った親しい職員さんからそう聞かれた.


 私は,今回の歩き遍路の前に,区切り打ちを2回していた.その最初の区切り打ちをした時,「俺は何故,こんなに苦しい思いをして歩いているのだろう?」と,路を歩きながら何度も自分に問いかけた.

 前述したように,歩き遍路はほぼ皆1日20km程を歩く.現代では,8割方が整備された舗装路になっているというが,僅かずつ息継ぎをしなければ登れない険しい山路や,「遍路転がし」といい踏み外せば谷底に転げ落ちるような危うい箇所も幾つかある.また,行き先が全く見えない水平線の彼方まで永遠に続くと思われる海岸線を,ひたすら歩くこともある.

 そういう遍路道を,肩に喰い込む重いザックを背負いながら何日も歩くと,誰でも上に書いた自問に迫られることになる.歩き遍路は,期間が限られ区切り打ちをする場合を除き,大抵は期限のない,大げさに言えば無限の旅に挑むことに等しい.無論,現実には「体力と金が尽きるまで」という条件付きだが,気持ちの上では期限はない.すると,有り余る時間の中で,考えることは尽きない.

 旅立つ前「自分を見つめ直すために遍路に出る」ことは,何度も自分に確かめていた.だから,「今更,何を言っているのか!」と自分に喝を入れながらも,歩いている身体が悲鳴を上げ始めると,<思考>の回路が破綻する.否,思考は無秩序に入り乱れ,あちこちに角度を放って,それぞれアナーキーに呟き始める.そして,それらがグチャグチャになりパンク寸前まで行った時,思考は<本音>という単純化を迫られていく.

 やがて「俺って,何なんだろう...」と,自分を見つめる最後の部屋の窓が幾つも開き始める.

 「あの時,何故俺はああいう対応しかできなかったんだろう」「何故,俺はあんなことを言ってしまったんだろう」「俺って,何のために仕事してきたんだろう」「大切な人たちに,ホントに酷いことばかりしてきたじゃないか...」「俺の人生って,何だったんだろう」「俺みたいな奴に,生きる価値なんかあるんだろうか...」等々,腹の底から沸き立つ呻吟を何度も繰り返す.

 そして,心身ともに疲れ果て考えるのも嫌になった時,本音が出始める.

 「でも,俺って,ホントは○○したかったんだよな...」

 「できることなら,土下座でも何でもして,またあの時に戻って,やり直したい...」

 しかし,その本音は,この現との狭間で,儚くも消えていく.


 札所という定点を巡り歩く旅ではあるが,札所を巡るそのことよりも,<路を歩く>ことで自問自答する過程が,私にとって大きな意味や価値を持つようになった.


 <歩く>ことが,大切なのである.歩きながら<考える>ことが大切なのだ.

 そして,行きつ戻りつのその思考は,支離滅裂に陥り,次第に考えることに疲れ果て,何事をも思わずひたすら歩き続けるようになる.<何も考えずに歩く>ことは,やがて某かの<安寧>をもたらす.

 <安寧>という表現が不正確なら,<安定>でも<定まり>でも<静けさ>でも<調和>でも良い.それ以上でもなければ以下でもない.心がちょうど満たされた状態.

 イメージで言えば,盃に盛った水が溢れる寸前で,こぼれもせずしっかりと整っている状態.そういう心の状態が,ずっと歩き続けることで出来上がっていく.

 自分を問い続ける過程,<歩き遍路>は,私にとって,そういうものだった.


 

0 件のコメント:

コメントを投稿