2022.06.08
今回の歩き遍路では,空腹を覚えることがまずなかった.
ただ,<水を飲む>ことが如何に大切かを知らされる旅ではあった.
歩き始めた初日,ある事情のため,前泊の岡山から最初に目指す65番三角寺の最寄り駅に着いたのが昼少し前だった.駅の待合いで早速お遍路の白衣を羽織り半袈裟を首に掛け,網代笠を被って竹刀袋から金剛杖を取り出し右手に握った.そして,街中に出ると通りがかった下校中の高校生に道を確かめ,しっかり歩き始めた.
街を抜けると,徐々に三角寺に向けたなだらかな登りが始まり,ひたすら無心に歩くと次第に汗が吹き出てきた.道程半ばの公園で一休みして,たっぷりお茶を入れた水筒から水分補給すると,三角寺までの約7kmの残りを一気に歩き通した.三角寺には1時間半少々で着き,時間はまだ午後2時前だった.
今回,私は札所の寺院だけでなく,なるべく別格寺院や札所の奥の院にも寄りながら歩こうと決めていた.そのため,三角寺の次には,その奥の院である仙龍寺を目的とした.その仙龍寺までの距離は,三角寺から概ね9~11km.概算で2時間半と予測.
歩き遍路では,1日の歩行距離を20km程度と考える人が多いと思うが,三角寺を午後2時頃出れば,仙龍寺到着は午後4時半から5時.時間的にも距離的にも,この仙龍寺辺りがほぼ1日の限界で,今夜は仙龍寺周年で野宿になるだろうと思われた.
そして,仙龍寺目指して進むも,午後3時過ぎの木々の下の山路は結構薄暗く険しく,途中で一休みしながら水を飲もうとしたその時,私は重大なことに気が付いた.そう! 水が殆ど水筒に残っていなかったのである.
三角寺アタック前には,750ml入る水筒にお茶を満杯に詰め,ザック(バックパック・リュックサック)のサイドポケットに挟み入れていた.しかし,何回かの休憩の度に水分摂取し,「三角寺で補給しなきゃいけないな」と思いつつも先を急ぐことに気を取られ,水筒補給をすっかり忘れていた.
透明ではない水筒の残り水量を確かめようと振って音を聞くと,底から3cmあるかないかの量.つまり,コップ半分ほどしか残っていない見当になる.三角寺からの途中には全く水場はなかったし,これから仙龍寺までにもそれは期待できそうにもない.しかも,現在地は仙龍寺まで後4~5kmはある地点だと思われた.そのため,これ以上歩けば一層水分補給が必要になり,飲める水を失うだけだと考えた.
歩き始めの初日,摂った水量は,朝の岡山のホテルで飲んだコップ1杯200mlのミネラルウォーターと,歩き始める前に自販機で飲んだ500mlの飲料,それに水筒に残る量を引いた650ml程のお茶の計1リットルとコップ1杯半程で,かいた汗の量を思うと悲しくなるくらい少ない.よって,ガブガブと水筒から水を飲みたいところだが,これから最低1~2時間はかかる仙龍寺までの行程を,残りコップ半量の水分で補うのは至難の業.よって,今日はこれ以上の歩きは止めるのが賢明と,この付近で野宿することにした.
テントの設営場所として,車道用に多少整備された林道の脇のスペースを見つけそこに張った.そして,テント内で寝袋を広げ寝る体制をとったが,飲める水がない辛さをしみじみ実感した.しかし,コップ半量のお茶は,明日,仙龍寺に着くまでの命綱だよね,と自分に言い聞かせ寝ることにした.
寝入る少し前には,テントの数メートル先で何やら獣の鳴き声も聞こえたが,狭い寝袋の中で身体は頻繁に手足の腱反射を起こし,昨日までとは明らかに違う有り様に身体が驚いているようだった.そんな漆黒の闇の中,その日は夜9時前には寝に落ちた.
翌朝は4時半には目覚めたが,昨夜からの喉の渇きは尾を引くこともなく,辛い感じはなかった.6時過ぎにはテント撤収等を終え出立.お不動様を祀る65番三角寺の奥の院仙龍寺への道程は,アタック当初の急峻な登りは10,15分で終わり,後は「奈落の底」にまっしぐらと思えるほどの下り坂の連続だった.
考えてみれば,仙龍寺は滝行で知られるお寺.強い滝の落差を設けるためにはかなりの高低差が必要なのだろうが,昨日,1~2時間と思われた野営地から仙龍寺への道程は,下る山路を3時間近くもかかり,何と着いたのは10時頃.ようやく着いたその仙龍寺は,コロナの影響からか宿坊は閉鎖しており,閑散としていた.しかし,考えてみればそれは閑散ではなく,修験寺の静寂そのものであった.そして,初めてだったが,本堂は社屋内にあった.そのため,脱靴し奥へ進み,お不動様とお大師様の御前で読経し始めると,何故か落涙してくる.その涙は,厳しい山路を超えてようやく辿り着いた感慨からでないのは確かだった...
納経を終えると,そこでようやく水を飲んだ.ただ,喉の渇きに飢えて水が欲しい!という感じは全くなく,コップ1,2杯の水をいただくと,それで乾きは充分潤えた.それこそ滝のような汗を山ほどかいている自分の身体が,2日間で2リットルにも満たない水で満足したことがとても不思議でならなかった.
ただ,その仙龍寺ではカメラマニアの車移動遍路人が現れ私に付きまとい,写真を何枚も撮られたので,早々に雲辺寺に向かおうとすると,先ほどの御坊が『そちらの路は急ですよ』と教えてくれた.でも,「私はその路から来たんですけど...」と心の内で思いながらも,多分,御坊は『左膝が悪くて読経するのに正座できないのです』と断った私を案じて声を掛けて下さったのであろう.その心根に,思わず「南無大師遍照金剛...」と呟く.
カメラマニアの追随を払うように,66番雲辺寺に向け山路を再び歩き出した.
今度は,奈落の底の逆バージョン,つまり否が応でも天まで続く急な上り坂.網代笠を被っていては登る数メートル先が見えないので,すぐ笠を脱ぎザックに縛り付ける.そして,また登り続けたが,目当ての国道に出るまでに進むべき路の反対側に行ったり,また戻ったりを何度も繰り返してしまった.その時,以前流行った「話を聞かない男,地図が読めない女」という本の題名が頭に浮かび,「ホントに地図が読めない男だよな~」と自分に呆れるしかなかった.
でも,今回の私の<歩き遍路>は,過去2回の,時間に追われ御朱印を授かることが主目的で歩き続けるような,悪く言えばスタンプラリーのようなものとは大分違っていた.尤も,お遍路が御朱印を授かるには,どの札所でも午前7時から午後5時までの間と決まっているため,どうしてもその時間に間に合うように動かざるを得ないが,宿取りの予約や明るい時間内に入るべき時間的制約とは無縁の旅が,今回の私の歩き方だった.
言い換えれば,路を間違ったら間違ったなりに,戻るのであればまた振り出しに戻って,地図上の「へんろ道」ばかりが遍路の路ではない...という,今ある事実に素直に向き合う<歩き>に努めた.それは,テントや寝袋を背負っている安心感に支えられてはいたが,<有りの儘>に身を処し事に当たることが大切なのだと思えてきたからに相違なかった.
そして,ようやく常福寺に辿り着いた.
令和元年の最初の区切り打ちの時には,特に12番焼山寺への登攀時,2~3歩進んでは金剛杖を腰の後ろに添え,つっかえ棒のようにして休んではまた進みを繰り返したが,今回の同じ場面では,10歩20歩歩いては金剛杖を胸の前に添え,突っ張り棒のように身体を前のめりに支え,息を整えてはまた進むという動作になった.敢えて言えば,足がスッと前に出なくて休んでも,前のめりになって進む姿勢だけは保とうとしたのかもしれない.
そんな思いをしながら,何とか着いた常福寺(椿堂)のご住職は「歩き遍路に優しい」との噂通りで,歩き遍路には御朱印代(300円)は求めず押して下さった.88か所の札所+αの寺院で,唯一の出来事だった.
さて,昨夜のテント泊に対して,今夜はどうしても洗濯の必要があり宿取りしなければならないと,雲辺寺手前5km程にある民宿に電話をした.しかし既に満杯とのことで,そこの親父さんから別の民宿を紹介された.しかも,最初に泊まろうとした民宿まで車で迎えに来てくれるとのこと.電話でその予約が取れたので,常福寺を打った後,7km弱先にある目当ての民宿まで歩いた.
そして,目当ての民宿に迎えに来てくれた別の民宿の方の車に乗せられ,更に北にある民宿に向かった...
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