2022.06.22
| 森本屋室内の額 |
4番大日寺,3番金泉寺,2番極楽寺と遡るに連れ,私には見覚えのある道やお寺の風景が溢れてきて,「あ~,ここは! あそこは…」など,眠っていた記憶が蘇ってきた.
そして,金泉寺を打った後くらいであろうか,1番霊山寺方面から,真新しい白衣と菅笠,金剛杖を身に纏った明らかに20代と思われる男女が一人ずつ,少し経ってまた一人と,歩いてやって来る.それも,女性が多く,見るとまだ若い,昨日まで街中でいつものお化粧や洒落た服など着こなしていたであろう風の「お姉さん」が,如何にも着慣れない白衣や菅笠を緊張して纏って歩いて来る.
| 3番金泉寺山門 |
それでも女性たちは比較的落ち着いていて,反対側から歩いてくる大きなザックを背負った私を見つけると,如何にも「ベテランお遍路見~つけた!」ふうな表情(それは決して嫌味ではなく優しい目線だったが)をする人もいて,私がすれ違いざま『こんにちは』と挨拶すると,挨拶だけはきちんと返してくれた.
しかし,同じ年頃と思われる数少ない男性たちは,ある者は借りてきた猫のように定まらない出で立ちでぎこちなく歩いているし,他のある者は他の女性陣と同じグループなのか,そのグループに遅れてしまった風に,お遍路姿で道を走ってくる者もいた.
「歩き遍路は走るなよ!」などと思いながらその人を見ていたが,間隔が開いても続けて歩いて来るその一群のそれぞれの表情に5年前の自分の姿も重なって,苦笑いせざるを得なかった.
| 4番大日寺本堂 |
また,4番大日寺には,かつて苦い思い出があった.
5年前,私は1番から順に巡ってきて,慣れないザックの重さや長時間の歩きに身も心もかなり疲れ始めて,大日寺を打つ前後どちらかに,予約した宿の人に近くまで車で迎えに来てもらったことがあった.
当時の大日寺への道は今では大変整備され見違えるように広く綺麗な舗装路になっていたが,5年前はまだ砂利混じりの土埃も充分立つ緩やかな登りの田舎道で,私は「歩き遍路って,こんなに大変なの!」と半ば音を上げつつあるタイミングだった.
そのため,道が改まっていることを知らなかった私は,今回は一定の覚悟を決め大日寺にアプローチしたが,キレイな舗装路のままアッという間に着いてしまって,全く拍子抜けしてしまった.それは,単に道が綺麗になったばかりでなく,結願を果たした私の歩き遍路としての脚力や覚悟が,それを容易にしたのだと,後になって思い直した.
| 1番霊仙寺山門 皆最初にこの門を潜る |
霊仙寺山門手前にあるそのお遍路用品店に着くと,今私の手元にある金剛杖や白衣,納経帳などを買い求めた5年前のあれやこれやの思い出が,一気に蘇ってきた.それでもまず,1番霊仙寺の読経,納経からと,再び見慣れた山門を潜ると,午後1時前には同寺を打ち終えた.
「さあ,後はどうやって高野山に帰ろう...」
それは,数日前から気になっていたことだったが,来たルートのように新幹線で帰るには,四国のJR主要駅から対岸の岡山駅に出る必要がある.これは来た通りの逆順路になるので最後の選択肢だった.
そうではない別のルートで帰ろうとすると,ほぼ選択肢は3つ.
1つは徳島空港から飛行機で関空?に行き帰る方法.2つ目はやはり徳島駅から高速鳴門経由で,高速バスで難波・大阪方面に帰る方法.3つ目は徳島からフェリーで和歌山経由で帰る方法.この3つの中なら,私はできればフェリーで帰りたかった.
そのため,フェリーへのアクセスを調べると,霊仙寺を打ち終わった12:50のほぼ20分後13:11に,霊仙寺前からJR鳴門駅に行く市営バスがある.しかも,そのバスは11時代,12時代には全くない時間割.『え~っ!』とグットタイミングであることを確認した後,喉の渇きを埋め荷物を整理する時間が欲しかったので,早速「門前一番街」へ.
店ではソフトクリームを食べトイレをして,ザックの荷物整理を急いでした.そして,1,2分前にはバス停に戻りバスを待つと,来たバス内はそれなりに混んでいたが何とか席に座れ,鳴門駅には13:50に着いた.そして,フェリーに乗れる徳島港行きのバスはJR徳島駅から出るため,鳴門駅から徳島駅行きの電車時間を確かめると,これまたほぼ10分後の14:03に電車が出るらしい.
再び『え~っ!』と驚き,切符を買うと,既にホームにはそのローカル電車が待っていた.この電車では学校帰りの高校生の一郡がほぼ席を占めるように乗っていたが,私も何とか座れ,その座席の上でお遍路姿の白衣や袈裟を袋にしまい,金剛杖を竹刀袋に入れて,後は徳島駅に着くまでゆっくりできた.
そして,徳島駅に着きフェリーが出る徳島港行きのバスを探すと,これこそほぼ数分後に出るジャストタイミング.何とも驚き『え~っ!』と声を発する間もなく,バスは港に向かった.そして,徳島港にバスが着いたのが15:55.その港で,明るい内に和歌山に着く最後のフェリー便の発時間は16:30.その30分少々は,足りなかったお土産や船内で飲食するビール・つまみなどを買うにちょうど良い時間だった.
このように,私が和歌山に帰るために,今回ほど最適かつ最速タイミングで各手段が揃うこともそうなかろうと,驚きを通り越す以上のものを感じた.これらの中には,1~2,3時間に1本しかない交通手段もあり,神業的タイミングの連続で可能となったとしか思えなかったが,これぞまさしく「お大師様のなせる技!」と天を仰ぐのだった.
「あ~! 南無大師遍照金剛!」
| 徳島港発フェリー船中から,鳴門方面に沈む夕日を望む |
かくして私は,迷う暇もないほど次々と徳島港に導かれ,気が付けば和歌山港に向かうフェリー船中の人となった.そして,フェリーが進むに連れ,次第に夕日が海面を包むように輝き始めると,初めて四国を離れる実感が湧いてきた.
「さらば,四国よ!」
インスタにもその光景を載せながら,三度目の四国との別れを告げるのだった.
そして,和歌山港に着いたのは午後6時半過ぎ.
この時間から高野山に帰るのは車以外ではほぼ無理なので,ここから中心部までバスに乗り,和歌山駅から徒歩30分離れた料金安めのアパホテルに泊まった.
和歌山で宿に泊まったのは初めてで,地方都市の割に意外に宿の値段が高いのでビックリしたが,選択の余地はなかった.かくして,私の四国歩き遍路はほぼ終わったが,最後に高野山奥の院へのお礼参りを残していた.
翌朝,和歌山市から高野山へのアクセスは昨日の四国での最適タイミングと真逆で,高野山に通じる南海電鉄~ケーブルに乗るには,極めて本数の少ない和歌山~橋本駅の僅かな電車を逃さず乗るしかなかった.
しかも,泊まったアパホテルから和歌山駅へも,その時間帯で適切な公共アクセスはほぼなく,歩いて駅まで行くにはもう時間がなかった.そのため,今回お遍路で最も身近な和歌山市内であるにも拘わらず初めてタクシーを使い,駅まで急いだ.タクシーの運転手さんには電車が出るほぼ5,6分前にかろうじて和歌山駅に着けてもらい,何とか間に合った.
そして,その後は多少の待ち時間を経ながらケーブルに乗れ,私は最後の歩きのため,ケーブルの高野山駅待合いで再び遍路姿に変身した.その待合いには20代位の息子さんを連れた老夫婦がいらっしゃり,私が遍路姿に着替えているのを見ると,『これからお遍路に行かれるのですか?』と声を掛けられた.
『いえ,四国八十八箇所を結願して,奥の院にお礼参りに歩いていくところです』と返すと,『私も行きたいのだけれど,もうこの歳では行かれない...』と声を漏らされた.それでも,細やかなその幸せを味わうように,ご家族揃って仲良く町内行きのバスに向かわれた.
私はケーブル高野山駅の駅舎を出た所で,顎の元に束ねる網代笠の紐を締め直し,右手に金剛杖をしっかり握ると,再び金剛杖の突き音高く響かせながら,何度か歩いた町内に出る舗装路を歩き始めた.
町内への道は,何回歩いてもほぼ40分程かかった.
10kgあるザックを担いでもそのかかった時間は変わらず,私はいつもの千手院交差点に向け表通りを進むと,本山前で合掌し,広い駐車場後ろから大学正門の方に回り,お世話になっている安養院さんの前でも合掌,ご宝号を唱えた後,また表通りに合流して,後はひたすら一の橋に向かった.
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| 奥の院中の橋門前 |
そして,灯籠堂とその奥の御廟前で使い慣れた頭陀袋から線香を3本出し,御廟前の大きな香炉に立てると,開経偈,般若心経,ご宝号を唱え無事四国を回れたことなどを報告し感謝をお伝えした.そのまま納経所に向かい,御朱印をいただいたが,その納経所には以前お世話になった顔見知りの所員の方がおられ,歩き遍路をしてきたことを報告した.すると,その所員の方は,労いの言葉とともに三度目の重ね印を押して下さった.
私はその方に勧められるまま事務所を訪ね,納所さんにもご挨拶しようとしたが,生憎ご不在でお会いできなかった.そして,そのまま再び参道を通り,中の橋霊園に抜ける道を通って転軸山公園から団地裏側に出て,自室まで辿り着いた.その時,既に昼を1,2時間回る時間にはなっていたが,半月間に亘る私の3度目の<歩き遍路>は,こうしてようやく幕を閉じることができた.
過去2回の歩き遍路よりずうと重い荷物を担いだままのハードな旅であったにも拘らず,むしろ足取り軽く旅ができ,無事怪我もなく帰れたことに,心からお大師様や八百万の神様,そして天国?の母親に感謝した.
それでも,今回の<歩き遍路>ではこれまでになく種々の想いを抱き,その意味や意義を深く考えさせられることになった.それらについて,まとまりないままではあるが,是非次回,最後に1回だけ述べてみたい.
それが私の<歩き遍路>の,目下の集大成になるはずだから...

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