2022.06.16
「ポンチョを被り,下にスパッツつければ,レインズボンはいらないな.
文庫本も読む余裕がない.レスキューシートはテント・寝袋あるのでいらない...」
今回の歩き遍路では,主に就寝時の防寒具としてメリノウールのアンダーシャツ・タイツを持ってきた.高野山だけでなく,5月末の香川県の最低気温は6度を下回る時もあり,山中テント内だと寒さがこたえるからだった.
しかし,6月に入る頃には大分暖かくなり,逆に熱中症などが心配される時期になったので,厳選に厳選を重ねた荷物を更に軽くするため,防寒用品は郵便で送り返した.加えて,上記の荷物を不要と決めまた送ることにした.僅か数百グラムの減量だが,精神的には大分軽くなる.
宿泊まりの良い点には,こうした荷物の返送を宅急便で頼めることもある.ただ,今回はロシアのウクライナ侵攻などで荷物の輸送コストも大分上がったので安易な返送は控えたが,「荷物送り返し」は歩き遍路の常套手段でもあった.
山頂にある寺院ではどこも眼下を一望できるが,そのエリアだけは世の流れと隔絶した気配が漂い,静かで厳かな,独特の気力を感じる.そして,そうした寺院の境内にはどこにも岩肌が剥き出しになった岩盤があり,これが香川のお寺特有の景色なのだなと思われた.八栗寺も同様に,本堂,太子堂共に裏山の木々を背負って,岩盤の造形を巧みに取り入れ建っていた.
その八栗寺を打ち,86番志度寺に向かう.山路を降り切ると広い舗装路に出るが,そこを少し行くと「二ツ池親水公園」がある.その手前の草むらだらけの道端に,大きな母子観音像が建っていた.
私は住まわせていただいている高野山や富貴周辺でも「お地蔵様」が大好きで,こうした母子観音にもつい目が行ってしまう.四国にはこうした観音像だけでなく,お地蔵様がとても多く供えられている.札所を巡るお遍路ではあるが,荘厳な寺院の一方でこうした素朴な神仏像にむしろ心惹かれる私としては,その都度立ち止まり合掌して歩いた.
「二ツ池親水公園」に寄りトイレを済ませるなどした時点でまだ朝8時前頃であったが,見ると公園の池の手前の板張りで,家庭用の自転車に大きな荷物を括り付け,その足元で裸足になって寝ている人がいる.最初は私と同じ歩き遍路の野宿組かと思ったが,自転車という組み合わせや白衣・袈裟はどこにもないため,少し違った.
「はて,彼はホームレスなのかな」と思い見とれたが,悠々と池に向かって素足を投げ出し,お腹には新聞紙を乗せ(かけ?)気持ちよさそうに寝ている姿を見ると,「う~ん,彼と私とどこが違うのだろう?」と考えさせられた.そして,こういう現実が共存する四国の有り様には何か独特のものを感じて,四国の奥の深さに一層興味を惹かれた.
それからは86番志度寺,87番長尾寺と一気に打った.
85番八栗寺からは86番は6.5km,それから87番へは7kmと地図上ではあるが,どちらも町中郊外の県道3号線沿いにあるお寺で,そこをひたすら歩いていく.ただこの遍路道は前半,志度湾沿いにずっと続いていて,急に道が開け久し振りに(志度湾の)海を一望できた時は「さずが四国!」と,とても嬉しかった.それに,湾岸には由緒ある塩竈神社や平賀源内ゆかりの記念館などもあり,そこを見ながら歩いていると飽きなかった.
気が付けば,5月30日,「四国八十八箇所札所巡り」も後一番を残して最後となる.
「後,一番か~」と思う一方で,町中ではあったがこの86番から87番の路の印象も結構深いものがあった. 山路歩きが多かった遍路道で急に開けた海に遭遇し,暫く海に見とれていたこと,その途中の川のような水路に無数の亀が甲羅干ししていて,私が近付くと順に水に飛び込む様が面白かったこと,「天才,異才」と称された平賀源内と同じく蘭学に携わった杉田玄白との意外な交友を改めて知ったり,圧巻は種田山頭火の「からすないて わたしもひとり」の自筆句碑を見られたこと...
「漂白の俳人」とか「放浪の俳人」などと言われた彼は,山口県に生まれ,戦前,出家得度してから全国を行乞(ぎょうこつ)放浪し,各地の草庵に移り住みながら「自由律俳句」という定型に縛られない自由闊達な手法で句を詠んだ.ただ,その酒癖の悪さから身を持ち崩し,支援者から助けられながら何とか生計を立てていた.
そうした彼も,ここに来てこの句を詠んだのであろう.そのことを想像すると,<各地を回り,歩き,接し,感じて,発する>生き方を生涯に亘り通し続けた彼に,ある種の尊敬と羨望を感じてならなかった.
さて,いよいよ88番大窪寺への旅となる.
87番から88番へは距離にして15.1km.長尾寺到着は午後2時半で,打ち終わったのがほぼ3時だから,到底今日中には着かない.
しかも,長尾寺から1km2kmは郊外のほぼ平坦な舗装路を進むが,後は進むに連れ高度を増す山路になっていく.それに,噂に聞いた「鎖場」(実際に行ってみたら鎖ではなかったが...)の岩場がある路.また,女体山山頂付近にある大窪寺に着いても,そこから降りる路も同様に長く,どう考えても大窪寺を打った後の進路もよく検討する必要がある.
そのため,高松市内のゲストハウス若葉屋のご主人が勧めてくれ,大窪寺下にある名物宿「八十窪」に昼頃電話し,明日の宿泊をお願いした.その宿で,結願した後のお遍路の各種の情報を収集することが目的だった.しかし,その前に,今日のこれからの行程をどうするか,それが問題だ.
「大窪寺に,近付ける所まで行こう!」
山中だったら大体いつもこんな感じで,何とかしてきた.そのため,今回もと思い長尾寺からのさぬき市中心部を抜けた.そして,暫く行き県道3号線沿いの登り路を進み始めて程なく,雨がしとしと降ってきた.今回のお遍路で,歩き途中でこの位の一定量の雨に振られることは初めてだった.そのため,ポンチョを出して被って歩くのは,少し様子を見てからにしようと,そのまま歩いた.
雨はずうっと降り続いた.「しとしと」からやがて「パラパラ」に変わり,一定量降り続いたが,頭には網代笠があり笠の縁から雫は垂れるが頭は濡れない.白衣の袖は濡れたが,元々背中は汗でびっしょりなので,今更「濡れた!」という違和感はほぼない.ズボンはポリエステル生地,靴はゴアテックス製なので,水が染み込むことはほぼない.
こんなことから,雨に濡れてもそのまま歩き続けたが,時間的には既に午後4時を廻り,長尾寺から5km程先にある前山ダムに通じる県道と遍路道が合流した辺りで雨は強くなった.既に1時間以上雨に濡れているだろうか.すると,県道に合流してからその道路の拡張工事なのか,工事作業が行われていて,県道をたまに走る車の通行指示などをしていた.
そうした工事風景や車を尻目に黙々と舗装路の登路を進んでいると,峠の上の東屋が見えてきた.「本日はあそこで終了かな?」と思いながら着き,暫し雨を凌ぐつもりでザックを降ろしたが,雨は降り止む気配がない.東屋の道向かいは道路工事の資材置き場や休憩所の拠点となっており,交通指示をする人も向かいにいた.
少々休むが,雨は止む気配なし.そこで,「もう今日はここを宿にしよう」と決め,洗濯ロープを張ったりして,濡れた白衣や手拭いなどを吊るし始めた.その東屋の周りには草が伸びていたので気付かなかったが,よく見ると前山ダムの堤防がすぐ横にドンとあり,制御されている水がジャージャー流れている.
「へえ~」と思い雨に濡れながらその様子を見ていると,東屋の脇に掲示があり,後200mで「へんろ資料展示室」があることや,大窪寺まで県道直進では10.6kmだがダムを渡り女体山越えルートで後7.8km,それを並足歩行すれば約4時間かかるなどの手書き表示があった.
「何れにせよ,今日はここでストップだ」と決め,午後4時半頃に道路工事の人たちも工事を止め撤収準備を始めたのを機に,私もテントを張り出そうかなと思った午後5時,急に雨が止んだ.
「えっ!」と思い地図を確かめると,表示のあった「へんろ資料展示室」とは「道の駅」があるエリアにあるものらしい.そこで,「ここに泊まるより道の駅が more better だ!」と,慌ててまた荷物をまとめた.そして,雨が止んでいる内に移動しようと,一目散に道の駅を目指した.
歩いて10分もあったろうか.
ダムを回り込むように登った先に,「道の駅」はあった.その手前には「前山おへんろ交流サロン」なるものもあり,広いスペースに車の駐車場は勿論,自販機数台,トイレ,休憩スペースなどが揃っていた.「やった~!」と,瞬時の移動の決断をした自分を褒めながら,「さて,どこにテントを張ろうか」と回ってみると,道の駅のトイレの横に「へんろ路の朝市」なる大看板があるスペースがあった.
朝市をするらしい場所はビニール幕で仕切りられ,朝まで開くことはなさそう.すると,いつも通り朝が早い私としては,早めにテントを撤収すればここで問題なしと判断し,トイレ・水場,自販機が近いこの場所にテントを張ることにした.
しかし,お遍路は元より,広大な駐車場にも1台しか車は停まっておらず,何とも整った設備に対して観光客や来訪者が少ないこと.時間も午後5時を回ったので当然かも知れないが,人の気配がない寂しいばかりの「道の駅ながお」だった.
それからは心配された雨は降り出すこともなく,空はどんよりしていたが,快適な寝所を確保することができた.場所は大窪寺まで後10kmの地点.地図を見ると後1km足らずで大窪寺への本格的な山路になり,そのすぐ脇には「遍路道中物故者供養碑」もある.
「大窪寺,恐るべし!」 1人で気合を入れ直す一夜だったが,程なく😴.
「あ~ 大窪寺」 遂に明日,決戦!

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