2022年6月22日水曜日

<歩き遍路>再開! その拾壱 ~ 私と同行二人してくれた相棒たち

 2022.06.22

 大窪寺に向かう前夜テントを張った「道の駅ながお」の向かいに,「おへんろ交流サロン」があった.

 そこでは,大窪寺1つを残して歩き続けたお遍路に,「歩き遍路の結願証明」を発行していた.

 時間的に,サロン閉館後に道の駅に着き,翌早朝出立した私は,その結願証明はいただいてないが,「また戻って申請するのは大変だな~」と思っていると,八十窪の女将は『申請書は家にもあるから,書いてくれたら郵送であなたの家まで証明を送ってもらえるよ』と教えてくれた.

 翌6月1日,朝6時に朝食をいただき,7時過ぎにお接待で作って下さったお握り2つをザックに入れると,私は「八十窪」の大女将や女将さんに厚くお礼を言い,国道377号線をひたすら東に向かった.

 国道からの道は整備された舗装路なので,時折通る車を気にしながら黙々と下ると,やがて南北に走る県道2号線にぶつかる.そこはもう徳島県だった.

 「また,最初の徳島に戻ったんだな...」と僅かな思いに耽りながらも,88番大窪寺から10番切幡寺までの18.2kmを更に進んだ.

 途中には,前日ベテランお遍路に教えてもらった休憩(野宿?)ポイントも1,2あったが,ただひたすら先に進み,徐々に阿波市の街並みに入ると,10番切幡寺が近付いてきた.

 5年前の2017年12月6日,私は四国の歩き遍路を初めて行った.その時もテントを含む重いザックを背負い,通し打ちで歩き回るつもりだったが,12番焼山寺などで厳しい山路の洗礼を受け,年末間際に29番国分寺までで打ち止めせざるを得なかった.

 ただ,その時の記憶が蘇って,順打ちであれば11番藤井寺への通り道となる県道139号線に出た時,見覚えのある四辻などがとても懐かしく目に映った.それに,当時は全く目に入らなかった広い田圃の風景や,辻に立つお地蔵様の存在などに気付き,「ゆっくり歩くってことはこれだけ目に入ってくるものが違うんだ」と,改めて日本の原風景を楽しんだ.


 さて,10番切幡寺に入ると,正直お寺には殆ど見覚えはなかった.と言うのも,一番最初の歩きでは,1~7番十楽寺までは17.5km,8番熊谷寺までなら21.7kmとなり,その辺りで寝所を決めることになる.そのため,翌日は10~11番間の9.3kmや11~12番間の12.9kmが気になり,結構早く回る必要がある.よって,10番辺りの札所をじっくり拝んでいる余裕がない.

 すると,読経と納経を済ませると早々に次に向かうはずで,境内の様子を覚えているはずもなかった.それが今回は逆打ちで,じっくり参拝する時間的猶予もある.

 そのため,改めて境内をゆっくり見せていただくことができたが,お遍路とは「やはりスタンプラリーじゃいけない」と改めて思い知らされる経験だった.

 

 それでも,9番法輪寺には明確な記憶があった.

 というより,門前にある茶屋をよく覚えていた.それは,先を急がなきゃと思いつつ重いザックに疲れ始めた頃で,見えてきた門前茶屋で少し休みたいと腰を下ろしたからだった.その時の茶屋の様子と寸分違わぬ光景がとても懐かしく,法輪寺を打ち終えてから改めて訪ねた.

 前歯が少し欠けた人懐こい70代半ば頃の茶屋のご主人に,5年前にもこちらに伺いやはりお芋を食べたことなどを話すと,ご主人も喜び色々な話をして下さった.そして,今日の歩行距離がちょうど22kmになっていたので,『この辺りでテントを張って泊まれる所を知りませんか』と尋ねると,ご主人は『この店先で寝たらええよ』と言って下さる.

 『えっ! ホントですか?』と改めて確かめてもOKのお返事.

 『そりゃ~助かります』と喜び,話は更に続いた.昔,大工の棟梁をしていたというご主人は,店内に飾る細工物などを私に見せながら,2時間近くも話に花が咲いた.やがて夕方になり,お店を閉めることになったので,ご主人に勧められるまま,私は茶屋店先の横に放置された廃車の軽トラック内で寝かせていただくことにした.

うるし茶屋と寝所となった軽トラ(右奥)
 ただ,ご主人は店から数十キロ離れた地区で暮らされており,田圃を挟み離れた場所には住宅も数件続く.暗くなるに連れ,店先を散歩する付近の住民の方や横の田圃を管理している方などが店先を通られる.そして,閉店後も店の敷地内にいる私を不審そうに見る.

 「そうか,ご主人がいないのに勝手に敷地内で泊まろうとしていると思われているかも...?」と疑いの眼を感じたので,田圃を確認に来られたお一人には事情を話したが,後は仕方ないなと諦めた.

 軽トラ内は窮屈で,やはり店先に置いてある1畳分の長椅子が良かったかななどとも思ったが,長椅子であればより人目につくし,蚊も寄ってくる.そのため狭さは我慢することにして,そのまま休んだ.


 翌朝,店先にお礼の書き置きを残し,朝6時前に茶屋を出立.

 広く続く水田地帯をずうっと歩くと,7時前に8番熊谷寺,7番十楽寺と打ち,5番地蔵寺まで昼前には打てた. 
そして,途中の熊谷寺を抜けた辺りで,遍路地図では載っていない新たな遍路小屋を見つけ,寄ってみた.

 名前は「遍路小屋57号」とあり,「四国八十八か所ヘンロ小屋プロジェクトを支援する会(徳島支部)」が建設した,まだ真新しい小屋だった.その広い敷地に休憩スペースとトイレ・水場があり,「次回お遍路時の絶好寝所だな!」とすごく気に入った.
 そしてよく見ると,小屋の屋根下には「七番から八番の遍路道沿いにある接待所にかけられていたタオル額です」と紹介があり,様々な人生訓が書かれたタオルがズラッと貼リ付けられていた.
 
それらをずうっと見ていると,昔からの歩き遍路がどのような想いでこの四国を歩き続けてきたかが偲ばれ,目頭が熱くなった.


 さて,今回の<歩き遍路>も,巡る札所の数は後僅かになった.
 明日の4番大日寺から1番霊山寺への距離感や,すべき洗濯や風呂の心配,それに和歌山への帰途ルートなどを考えると,今日はここで宿を取ろうと,地蔵寺目前の民宿森本屋を予約した.
 地蔵寺を打った時点は昼直前で,宿に入るには時間が早い.そのため,改めて地蔵寺境内のお地蔵様の石像や修行大師像などをじっくり拝み回り,地蔵時より少し上にある五百羅漢の入口(中は有料)付近も歩いて,時間を過ごした.

 
 ただ,1つだけ,問題があった.
 入会したての「高野山真言宗参与会」からいただいた半袈裟を,私は今回の歩き遍路の際に身に付け歩いた.そうして良いか自分では迷ったので,参与会にその旨伺い了解を得てしたことだった.
 しかし,30寺以上もずっと回る間首に掛けていたので,汗染みや縒れが激しいのは仕方がないとしても,下に垂れる紐の房やそれを束ねた糸が切れ,修繕する必要があった.私は裁縫用具は持ってきたが,その細かな修繕をするには私の技術では不可能.
 そこで,森本屋の女将に,無理を言ってお願いし直してもらった.

 お遍路から帰宅後,半袈裟はクリーニングに出しできるだけ綺麗にしていただいた.そして,金剛杖には遍路前にもしたが帰ってからもたっぷり蜜蝋を塗り直した.ちなみに,金剛杖の先の<捲れ>は硬い地面を突き歩いて自然に木の繊維がほぐれ毛羽立ったものだが,杖購入時にも「杖の先が捲れてきても切ったりしないように.杖はお大師様の分身だし,捲れはずっと歩き続けた証なので...」と教えてもらっていた.
 そのため,ずっと<捲り>は増えているが,最初に買った時よりどの位短くなったのか実感はない.

 何れにせよ,袈裟といい白衣といい,網代笠または金剛杖といい,ずっと私と同行二人してくれた相棒たちだ.その相棒には深く感謝している.
 私が辛く,泣きながら山路を歩いた日々や,崖にかじり付きながら必死でよじ登った様,自然の在るが儘に心地よく身を任せながら過ごしたことなど,これらの物たちはしっかり見ているし知っている.それが,すごく嬉しいし,大切な相棒たちだ.


 そういう想いを,森本屋の宿に入ってからも強く感じ,滅多にしない白衣や頭陀袋さえも洗濯して,翌日に備えることにした.


 そして,いよいよ,四国での最終日を迎えることになる...



0 件のコメント:

コメントを投稿