2022年6月30日木曜日

<歩き遍路>再開! その拾参 ~ <現世>と<来世>の狭間を彷徨い続ける<迷い人>

2022.06.30 

 『何故,歩き遍路するの?』

 今から2年少し前,2回目の歩き遍路に出る時,職場のある人からそう聞かれて明確に答えられなかった.しかし,その後,私は私的文書の中で次のように書いた.

 私にとって<歩き遍路する>ということは、自分の身体に1日20km以上を<歩き続け>させる負荷を加えることで自分を一定の限界に追い込み、そこから産まれ出てくる自分の本音や、それにも疲れ果て嫌でも頭が空っぽ(無心)になった後に湧いてくる様々な想いを確かめる手段と言えました』

 今回の歩き遍路では,その「空っぽになった後で湧いてくる様々な想い」の更にその後に結局<何も考えずただひたすら歩く>ことが自分にとって意味があると気付くことができた本編「その伍」)



 <歩く>こと,または<歩き続ける>ことが<歩き遍路>の目的.

 一見,この自明とも思える論理の裏に,<歩き遍路>がその過程で抱える心の葛藤や意識の変化が山ほど隠れている.


 (歩き)お遍路は,本来,死装束としての白衣に身を包み,道中で行き倒れ(否,死ぬために何度も巡り続け),死んだら自分の土饅頭に刺してもらう卒塔婆代わりの五輪塔を刻んだ金剛杖を手に,歩き出す.歩く以外に手段がなかった庶民のお遍路なので,お遍路は即ち<歩き遍路>である.

 そして,お遍路が巡り歩く札所は,神(御本尊や弘法大師など)や佛を祀る場である.それは庶民の日々の日常を超越した神聖な場であると同時に,日常の次にある<来世>を象徴している.その<来世>の象徴の場,つまり<来世>への入口で,<歩き遍路>は神々に必死に祈りを捧げる.それは,<来世>に安らかに繋がりたいとする<歩き遍路>の<心>のあらわれである.


 一方で,<歩き遍路>(の身体)は,<現世>に生きる(ある)存在である.この世の<生き物>である以上,飲食はするし,日々の生業を立て,暮らし,人との関係の中で生きている.だが,そうした<日常>に疑問を感じ,疲れ,または嫌になり,或いは離れようと思って,お遍路に出る.

 一旦お遍路に出ると,<歩き遍路>は基本的に<現世>に基づかない.

 既出の辰濃和男氏が著書『四国遍路』で,名刺や腕時計を持って遍路を回ることの無意味さを説いているが,<現世>の生業や暮らしや価値観から離れ歩くのが,お遍路の求めるところである.勿論,来世物のように,無食,無飲,無眠を通すことはできないが,皆,なるべく意識は<現世>の外にある.

 その究極の一つに,今の<職業遍路>やそれに類いする者たちがあるように思う.

 僧侶でもない彼らが町角で乞食し,お堂や東屋での野宿を転々として,ほぼ着の身着のままで四国中を歩き続ける.それ以外に彼らが為すことはほぼないと言える.そうした,本当に四国を歩き続けている彼らなら,<現世>に身を置きながらも,意識は既に<来世>にあるように見える.

 私が約30年前に暫くいたインドの,ガンガーのほとりダサシュワメッドガートで,インド各地から「死を待つ老人たち」が集まるという館のことを知った.その館で,老人たちは殆ど飲まず食わずで死が訪れる時を待つという.やがて亡くなってから,聖なる川ガンガーに戻るためにである.

 ガートで死を待つその老人たちと同様,本気の<職業遍路>は,歩き続けながら<現世>と<来世>の狭間に潜む<死への入口>を探し当てようとしているのかもしれない.故に,そういう彼らが一番望むところは,<行き倒れ>なのかもしれない.


 詰まるところ,<歩き遍路>は,<現世>と<来世>の狭間を彷徨う<迷い人>だ.

 ただ,<迷う>ことは決して否定的な意味合いではない.否,むしろ<迷う>ことこそ,現在の自分の<有り様>を振り返っている証拠ではないか.特に歳をとってから<迷う>ことは,世間では<未熟者>を指すような風潮もあるが,私には自分の<正直さ>が現れる兆候のように思える.

 10~20代のがむしゃらに突っ張って過ごした時,30~40代の家庭や子どもを抱えひたむきに暮らした時,50代の仕事などに精一杯傾注した時などを越えて,その先に60~70代,或いはそれ以上の年齢の時を迎える.その入口で,人は<迷う>.

 それは人によって違うだろうが,私は<迷う>ことは,<それまでの自分の人生を大いに振り返ること>とイコールだと考えている.その<振り返り>のために,一旦<現世>を置き,離れて見ることがとても大切に思う.

 <振り返る>プロセスでは,散々<迷い>や<後悔>や<懺悔>に苦しむ時があるだろう.そして,それらの<葛藤>の中から,自分を否定し,死んでしまいたいと思う時も来るかもしれない.でも,<大いに振り返る>とは,そういう覚悟を伴う.


 と,ここまで書いて,今から56年前,お遍路の結願を果たした小豆島からの帰り,乗った汽船から瀬戸内海に身を投げた歌舞伎役者,市川団蔵のことを思い出した.勿論詳細は分からないが,梨園の世界で4歳から80歳に至るまで脇役としての大名を担い演じ続け,ようやくその役目を終え引退できた後,かねてからの希望であったお遍路をした後での自殺であった.

 その役者は,今まで自分が世話になり亡くなった人たちの戒名・俗名をずらりと書いた笈摺(袖なし白衣)を着て巡拝を続けたというが,旅の途中,『我死なば 香典受けな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ』という辞世の歌を詠んだという.

 そうした彼を『思えば彼の生涯は,団蔵の家に生まれ,団蔵と名乗らざるを得なかった自分を呪い続けた生涯であった.その生涯の果てに,彼は遍路の旅を地獄の道行に変え,極楽往生の願いを堕地獄の願望に変えて,我と我が生命を断った」と評した人もいたが,逆に『誰にも煩わされることのない浄土への巡礼の日々...それは何十年脇役として生き抜いた老優の,生涯最良の幾十日だったのかもしれない』と認める人もいた.

 人の目には<振り返り>は様々に映るだろうし,評価も分かれる.でも,遍路の旅が一歩間違えば自死に至るような最も厳しい<振り返り>になったとしても,それが大切ではないか.

 そうした地獄のような<苦しみ>を伴う<振り返り>を嫌ほど味わえば,その後に,私の場合は不思議と<無>や<無心>が訪れた.
 考えてみれば,昔から,様々な人生経験を積んだ老人たちが醸し出す雰囲気には,<静寂>というものがある.それは多くの人生の果てに,<無>の境地に至ったことのある老人たちに共通する趣きなのかもしれない.私は未だに<静寂さ>に包まれるまでの境遇に至らず日々一喜一憂に終始しているが,その<無心>の次にくるであろう,静かなる<終末>への覚悟はし始めている.

 私にとって<歩き遍路>とは,人生の<静寂>に向けて備えるべき<有り難く(difficult)><得難い>総括過程に他ならない.今後も,団蔵のように発作的に?身を投げるようなことが全く起こらないとは限らないが,それでも<振り返り>を持てない人生などには意味を感じない.

 それが結論するところは,私はこれからもずっと<歩き遍路>を続けるだろうということ.

 私にとって<歩き遍路>とは,そうした覚悟を自分に呼び起こしてくれる,重い成行きだった.


本編 了 


2022年6月22日水曜日

<歩き遍路>再開! その拾弐 ~ 新旧遍路の交差点

 2022.06.22

森本屋室内の額
 令和4年6月3日,5番地蔵寺前の民宿「森本屋」を朝7時過ぎには出た.

 4番大日寺,3番金泉寺,2番極楽寺と遡るに連れ,私には見覚えのある道やお寺の風景が溢れてきて,「あ~,ここは! あそこは…」など,眠っていた記憶が蘇ってきた.

 

 そして,金泉寺を打った後くらいであろうか,1番霊山寺方面から,真新しい白衣と菅笠,金剛杖を身に纏った明らかに20代と思われる男女が一人ずつ,少し経ってまた一人と,歩いてやって来る.それも,女性が多く,見るとまだ若い,昨日まで街中でいつものお化粧や洒落た服など着こなしていたであろう風の「お姉さん」が,如何にも着慣れない白衣や菅笠を緊張して纏って歩いて来る.

3番金泉寺山門
 「初めてのお使い」ならぬ「初めてのお遍路」だ.

 それでも女性たちは比較的落ち着いていて,反対側から歩いてくる大きなザックを背負った私を見つけると,如何にも「ベテランお遍路見~つけた!」ふうな表情(それは決して嫌味ではなく優しい目線だったが)をする人もいて,私がすれ違いざま『こんにちは』と挨拶すると,挨拶だけはきちんと返してくれた.

 しかし,同じ年頃と思われる数少ない男性たちは,ある者は借りてきた猫のように定まらない出で立ちでぎこちなく歩いているし,他のある者は他の女性陣と同じグループなのか,そのグループに遅れてしまった風に,お遍路姿で道を走ってくる者もいた.

 「歩き遍路は走るなよ!」などと思いながらその人を見ていたが,間隔が開いても続けて歩いて来るその一群のそれぞれの表情に5年前の自分の姿も重なって,苦笑いせざるを得なかった.

4番大日寺本堂

 また,4番大日寺には,かつて苦い思い出があった.

 5年前,私は1番から順に巡ってきて,慣れないザックの重さや長時間の歩きに身も心もかなり疲れ始めて,大日寺を打つ前後どちらかに,予約した宿の人に近くまで車で迎えに来てもらったことがあった.

 当時の大日寺への道は今では大変整備され見違えるように広く綺麗な舗装路になっていたが,5年前はまだ砂利混じりの土埃も充分立つ緩やかな登りの田舎道で,私は「歩き遍路って,こんなに大変なの!」と半ば音を上げつつあるタイミングだった.

 そのため,道が改まっていることを知らなかった私は,今回は一定の覚悟を決め大日寺にアプローチしたが,キレイな舗装路のままアッという間に着いてしまって,全く拍子抜けしてしまった.それは,単に道が綺麗になったばかりでなく,結願を果たした私の歩き遍路としての脚力や覚悟が,それを容易にしたのだと,後になって思い直した.

1番霊仙寺山門 皆最初にこの門を潜る
 それでもその大日寺を無事打ち,続けて3番,2番を打ち終えると,後は1番霊仙寺を残すだけとなった.そして,県道12号線を更に1km半ほど東に行くと,殆どのお遍路さんビギナーが遍路用具を揃えるであろう「門前一番街」という店に着く.

 霊仙寺山門手前にあるそのお遍路用品店に着くと,今私の手元にある金剛杖や白衣,納経帳などを買い求めた5年前のあれやこれやの思い出が,一気に蘇ってきた.それでもまず,1番霊仙寺の読経,納経からと,再び見慣れた山門を潜ると,午後1時前には同寺を打ち終えた.

 「さあ,後はどうやって高野山に帰ろう...」

 それは,数日前から気になっていたことだったが,来たルートのように新幹線で帰るには,四国のJR主要駅から対岸の岡山駅に出る必要がある.これは来た通りの逆順路になるので最後の選択肢だった.

 そうではない別のルートで帰ろうとすると,ほぼ選択肢は3つ.

 1つは徳島空港から飛行機で関空?に行き帰る方法.2つ目はやはり徳島駅から高速鳴門経由で,高速バスで難波・大阪方面に帰る方法.3つ目は徳島からフェリーで和歌山経由で帰る方法.この3つの中なら,私はできればフェリーで帰りたかった.

 そのため,フェリーへのアクセスを調べると,霊仙寺を打ち終わった12:50のほぼ20分後13:11に,霊仙寺前からJR鳴門駅に行く市営バスがある.しかも,そのバスは11時代,12時代には全くない時間割.『え~っ!』とグットタイミングであることを確認した後,喉の渇きを埋め荷物を整理する時間が欲しかったので,早速「門前一番街」へ.

 店ではソフトクリームを食べトイレをして,ザックの荷物整理を急いでした.そして,1,2分前にはバス停に戻りバスを待つと,来たバス内はそれなりに混んでいたが何とか席に座れ,鳴門駅には13:50に着いた.そして,フェリーに乗れる徳島港行きのバスはJR徳島駅から出るため,鳴門駅から徳島駅行きの電車時間を確かめると,これまたほぼ10分後の14:03に電車が出るらしい.

 再び『え~っ!』と驚き,切符を買うと,既にホームにはそのローカル電車が待っていた.この電車では学校帰りの高校生の一郡がほぼ席を占めるように乗っていたが,私も何とか座れ,その座席の上でお遍路姿の白衣や袈裟を袋にしまい,金剛杖を竹刀袋に入れて,後は徳島駅に着くまでゆっくりできた.

 そして,徳島駅に着きフェリーが出る徳島港行きのバスを探すと,これこそほぼ数分後に出るジャストタイミング.何とも驚き『え~っ!』と声を発する間もなく,バスは港に向かった.そして,徳島港にバスが着いたのが15:55.その港で,明るい内に和歌山に着く最後のフェリー便の発時間は16:30.その30分少々は,足りなかったお土産や船内で飲食するビール・つまみなどを買うにちょうど良い時間だった.

 このように,私が和歌山に帰るために,今回ほど最適かつ最速タイミングで各手段が揃うこともそうなかろうと,驚きを通り越す以上のものを感じた.これらの中には,1~2,3時間に1本しかない交通手段もあり,神業的タイミングの連続で可能となったとしか思えなかったが,これぞまさしく「お大師様のなせる技!」と天を仰ぐのだった.

「あ~! 南無大師遍照金剛!」

徳島港発フェリー船中から,鳴門方面に沈む夕日を望む

 かくして私は,迷う暇もないほど次々と徳島港に導かれ,気が付けば和歌山港に向かうフェリー船中の人となった.そして,フェリーが進むに連れ,次第に夕日が海面を包むように輝き始めると,初めて四国を離れる実感が湧いてきた.

 「さらば,四国よ!」

 インスタにもその光景を載せながら,三度目の四国との別れを告げるのだった.


 そして,和歌山港に着いたのは午後6時半過ぎ.

 この時間から高野山に帰るのは車以外ではほぼ無理なので,ここから中心部までバスに乗り,和歌山駅から徒歩30分離れた料金安めのアパホテルに泊まった.

 和歌山で宿に泊まったのは初めてで,地方都市の割に意外に宿の値段が高いのでビックリしたが,選択の余地はなかった.かくして,私の四国歩き遍路はほぼ終わったが,最後に高野山奥の院へのお礼参りを残していた.


 翌朝,和歌山市から高野山へのアクセスは昨日の四国での最適タイミングと真逆で,高野山に通じる南海電鉄~ケーブルに乗るには,極めて本数の少ない和歌山~橋本駅の僅かな電車を逃さず乗るしかなかった.

 しかも,泊まったアパホテルから和歌山駅へも,その時間帯で適切な公共アクセスはほぼなく,歩いて駅まで行くにはもう時間がなかった.そのため,今回お遍路で最も身近な和歌山市内であるにも拘わらず初めてタクシーを使い,駅まで急いだ.タクシーの運転手さんには電車が出るほぼ5,6分前にかろうじて和歌山駅に着けてもらい,何とか間に合った.

 そして,その後は多少の待ち時間を経ながらケーブルに乗れ,私は最後の歩きのため,ケーブルの高野山駅待合いで再び遍路姿に変身した.その待合いには20代位の息子さんを連れた老夫婦がいらっしゃり,私が遍路姿に着替えているのを見ると,『これからお遍路に行かれるのですか?』と声を掛けられた.

 『いえ,四国八十八箇所を結願して,奥の院にお礼参りに歩いていくところです』と返すと,『私も行きたいのだけれど,もうこの歳では行かれない...』と声を漏らされた.それでも,細やかなその幸せを味わうように,ご家族揃って仲良く町内行きのバスに向かわれた.

 私はケーブル高野山駅の駅舎を出た所で,顎の元に束ねる網代笠の紐を締め直し,右手に金剛杖をしっかり握ると,再び金剛杖の突き音高く響かせながら,何度か歩いた町内に出る舗装路を歩き始めた.


 町内への道は,何回歩いてもほぼ40分程かかった.

 10kgあるザックを担いでもそのかかった時間は変わらず,私はいつもの千手院交差点に向け表通りを進むと,本山前で合掌し,広い駐車場後ろから大学正門の方に回り,お世話になっている安養院さんの前でも合掌,ご宝号を唱えた後,また表通りに合流して,後はひたすら一の橋に向かった.

奥の院中の橋門前
 奥の院参道にはそれなりの数の参拝客がいらっしゃったが,大きなザックを担ぎ網代笠を被って急ぎ足で御廟に向かっている遍路姿の私を見ると,皆さん自然と道を開けて下さった.

 そして,灯籠堂とその奥の御廟前で使い慣れた頭陀袋から線香を3本出し,御廟前の大きな香炉に立てると,開経偈,般若心経,ご宝号を唱え無事四国を回れたことなどを報告し感謝をお伝えした.そのまま納経所に向かい,御朱印をいただいたが,その納経所には以前お世話になった顔見知りの所員の方がおられ,歩き遍路をしてきたことを報告した.すると,その所員の方は,労いの言葉とともに三度目の重ね印を押して下さった.

 私はその方に勧められるまま事務所を訪ね,納所さんにもご挨拶しようとしたが,生憎ご不在でお会いできなかった.そして,そのまま再び参道を通り,中の橋霊園に抜ける道を通って転軸山公園から団地裏側に出て,自室まで辿り着いた.その時,既に昼を1,2時間回る時間にはなっていたが,半月間に亘る私の3度目の<歩き遍路>は,こうしてようやく幕を閉じることができた.

 過去2回の歩き遍路よりずうと重い荷物を担いだままのハードな旅であったにも拘らず,むしろ足取り軽く旅ができ,無事怪我もなく帰れたことに,心からお大師様や八百万の神様,そして天国?の母親に感謝した.

 それでも,今回の<歩き遍路>ではこれまでになく種々の想いを抱き,その意味や意義を深く考えさせられることになった.それらについて,まとまりないままではあるが,是非次回,最後に1回だけ述べてみたい.

 それが私の<歩き遍路>の,目下の集大成になるはずだから...



<歩き遍路>再開! その拾壱 ~ 私と同行二人してくれた相棒たち

 2022.06.22

 大窪寺に向かう前夜テントを張った「道の駅ながお」の向かいに,「おへんろ交流サロン」があった.

 そこでは,大窪寺1つを残して歩き続けたお遍路に,「歩き遍路の結願証明」を発行していた.

 時間的に,サロン閉館後に道の駅に着き,翌早朝出立した私は,その結願証明はいただいてないが,「また戻って申請するのは大変だな~」と思っていると,八十窪の女将は『申請書は家にもあるから,書いてくれたら郵送であなたの家まで証明を送ってもらえるよ』と教えてくれた.

 翌6月1日,朝6時に朝食をいただき,7時過ぎにお接待で作って下さったお握り2つをザックに入れると,私は「八十窪」の大女将や女将さんに厚くお礼を言い,国道377号線をひたすら東に向かった.

 国道からの道は整備された舗装路なので,時折通る車を気にしながら黙々と下ると,やがて南北に走る県道2号線にぶつかる.そこはもう徳島県だった.

 「また,最初の徳島に戻ったんだな...」と僅かな思いに耽りながらも,88番大窪寺から10番切幡寺までの18.2kmを更に進んだ.

 途中には,前日ベテランお遍路に教えてもらった休憩(野宿?)ポイントも1,2あったが,ただひたすら先に進み,徐々に阿波市の街並みに入ると,10番切幡寺が近付いてきた.

 5年前の2017年12月6日,私は四国の歩き遍路を初めて行った.その時もテントを含む重いザックを背負い,通し打ちで歩き回るつもりだったが,12番焼山寺などで厳しい山路の洗礼を受け,年末間際に29番国分寺までで打ち止めせざるを得なかった.

 ただ,その時の記憶が蘇って,順打ちであれば11番藤井寺への通り道となる県道139号線に出た時,見覚えのある四辻などがとても懐かしく目に映った.それに,当時は全く目に入らなかった広い田圃の風景や,辻に立つお地蔵様の存在などに気付き,「ゆっくり歩くってことはこれだけ目に入ってくるものが違うんだ」と,改めて日本の原風景を楽しんだ.


 さて,10番切幡寺に入ると,正直お寺には殆ど見覚えはなかった.と言うのも,一番最初の歩きでは,1~7番十楽寺までは17.5km,8番熊谷寺までなら21.7kmとなり,その辺りで寝所を決めることになる.そのため,翌日は10~11番間の9.3kmや11~12番間の12.9kmが気になり,結構早く回る必要がある.よって,10番辺りの札所をじっくり拝んでいる余裕がない.

 すると,読経と納経を済ませると早々に次に向かうはずで,境内の様子を覚えているはずもなかった.それが今回は逆打ちで,じっくり参拝する時間的猶予もある.

 そのため,改めて境内をゆっくり見せていただくことができたが,お遍路とは「やはりスタンプラリーじゃいけない」と改めて思い知らされる経験だった.

 

 それでも,9番法輪寺には明確な記憶があった.

 というより,門前にある茶屋をよく覚えていた.それは,先を急がなきゃと思いつつ重いザックに疲れ始めた頃で,見えてきた門前茶屋で少し休みたいと腰を下ろしたからだった.その時の茶屋の様子と寸分違わぬ光景がとても懐かしく,法輪寺を打ち終えてから改めて訪ねた.

 前歯が少し欠けた人懐こい70代半ば頃の茶屋のご主人に,5年前にもこちらに伺いやはりお芋を食べたことなどを話すと,ご主人も喜び色々な話をして下さった.そして,今日の歩行距離がちょうど22kmになっていたので,『この辺りでテントを張って泊まれる所を知りませんか』と尋ねると,ご主人は『この店先で寝たらええよ』と言って下さる.

 『えっ! ホントですか?』と改めて確かめてもOKのお返事.

 『そりゃ~助かります』と喜び,話は更に続いた.昔,大工の棟梁をしていたというご主人は,店内に飾る細工物などを私に見せながら,2時間近くも話に花が咲いた.やがて夕方になり,お店を閉めることになったので,ご主人に勧められるまま,私は茶屋店先の横に放置された廃車の軽トラック内で寝かせていただくことにした.

うるし茶屋と寝所となった軽トラ(右奥)
 ただ,ご主人は店から数十キロ離れた地区で暮らされており,田圃を挟み離れた場所には住宅も数件続く.暗くなるに連れ,店先を散歩する付近の住民の方や横の田圃を管理している方などが店先を通られる.そして,閉店後も店の敷地内にいる私を不審そうに見る.

 「そうか,ご主人がいないのに勝手に敷地内で泊まろうとしていると思われているかも...?」と疑いの眼を感じたので,田圃を確認に来られたお一人には事情を話したが,後は仕方ないなと諦めた.

 軽トラ内は窮屈で,やはり店先に置いてある1畳分の長椅子が良かったかななどとも思ったが,長椅子であればより人目につくし,蚊も寄ってくる.そのため狭さは我慢することにして,そのまま休んだ.


 翌朝,店先にお礼の書き置きを残し,朝6時前に茶屋を出立.

 広く続く水田地帯をずうっと歩くと,7時前に8番熊谷寺,7番十楽寺と打ち,5番地蔵寺まで昼前には打てた. 
そして,途中の熊谷寺を抜けた辺りで,遍路地図では載っていない新たな遍路小屋を見つけ,寄ってみた.

 名前は「遍路小屋57号」とあり,「四国八十八か所ヘンロ小屋プロジェクトを支援する会(徳島支部)」が建設した,まだ真新しい小屋だった.その広い敷地に休憩スペースとトイレ・水場があり,「次回お遍路時の絶好寝所だな!」とすごく気に入った.
 そしてよく見ると,小屋の屋根下には「七番から八番の遍路道沿いにある接待所にかけられていたタオル額です」と紹介があり,様々な人生訓が書かれたタオルがズラッと貼リ付けられていた.
 
それらをずうっと見ていると,昔からの歩き遍路がどのような想いでこの四国を歩き続けてきたかが偲ばれ,目頭が熱くなった.


 さて,今回の<歩き遍路>も,巡る札所の数は後僅かになった.
 明日の4番大日寺から1番霊山寺への距離感や,すべき洗濯や風呂の心配,それに和歌山への帰途ルートなどを考えると,今日はここで宿を取ろうと,地蔵寺目前の民宿森本屋を予約した.
 地蔵寺を打った時点は昼直前で,宿に入るには時間が早い.そのため,改めて地蔵寺境内のお地蔵様の石像や修行大師像などをじっくり拝み回り,地蔵時より少し上にある五百羅漢の入口(中は有料)付近も歩いて,時間を過ごした.

 
 ただ,1つだけ,問題があった.
 入会したての「高野山真言宗参与会」からいただいた半袈裟を,私は今回の歩き遍路の際に身に付け歩いた.そうして良いか自分では迷ったので,参与会にその旨伺い了解を得てしたことだった.
 しかし,30寺以上もずっと回る間首に掛けていたので,汗染みや縒れが激しいのは仕方がないとしても,下に垂れる紐の房やそれを束ねた糸が切れ,修繕する必要があった.私は裁縫用具は持ってきたが,その細かな修繕をするには私の技術では不可能.
 そこで,森本屋の女将に,無理を言ってお願いし直してもらった.

 お遍路から帰宅後,半袈裟はクリーニングに出しできるだけ綺麗にしていただいた.そして,金剛杖には遍路前にもしたが帰ってからもたっぷり蜜蝋を塗り直した.ちなみに,金剛杖の先の<捲れ>は硬い地面を突き歩いて自然に木の繊維がほぐれ毛羽立ったものだが,杖購入時にも「杖の先が捲れてきても切ったりしないように.杖はお大師様の分身だし,捲れはずっと歩き続けた証なので...」と教えてもらっていた.
 そのため,ずっと<捲り>は増えているが,最初に買った時よりどの位短くなったのか実感はない.

 何れにせよ,袈裟といい白衣といい,網代笠または金剛杖といい,ずっと私と同行二人してくれた相棒たちだ.その相棒には深く感謝している.
 私が辛く,泣きながら山路を歩いた日々や,崖にかじり付きながら必死でよじ登った様,自然の在るが儘に心地よく身を任せながら過ごしたことなど,これらの物たちはしっかり見ているし知っている.それが,すごく嬉しいし,大切な相棒たちだ.


 そういう想いを,森本屋の宿に入ってからも強く感じ,滅多にしない白衣や頭陀袋さえも洗濯して,翌日に備えることにした.


 そして,いよいよ,四国での最終日を迎えることになる...



2022年6月21日火曜日

<歩き遍路>再開! その拾

 2022.06.21

 「四国八十八か所結願所88番大窪寺」の境内には,結願札所として,長くお遍路さんたちが手にし地を突き共に歩いた金剛杖を奉納できる「寶杖堂(ほうじょうどう)」があった.
 そのお堂の屋根には,お大師様が手にされていたような大きな錫杖(しゃくじょう)が象徴として備わっていた.

 少し離れて「結願錫杖大師像」もあり,そこには「千二百有余年前,お大師様が一切衆生済度~この世で生を受けた全ての命ある者を迷いの苦しみから救い,悟りの境地へと導くこと(コトバンクより)の為に四国八十八ヵ所を開創される際,師匠である中国の恵果和尚より授かった錫杖を大窪寺に身代わりとして納めた」との説明があった.

大窪寺大師堂
 この朝の時間帯(令和4年5月31日午前10時半)も幸いしたのだろう.

 お遍路団体ツアーなどの一群と接触することもなく,歩いて巡って来るお遍路さんにも会わず,境内は静かで,僅かに数人,自家用車で訪れたであろう参拝の方を見かけただけだった.

 御本尊(薬師如来)と大師堂で,いつも通り合掌礼拝から開経偈,般若心経,本尊御真言,光明真言,御宝号,回向を唱え,その後,ここまで無事に辿り着けたことへの感謝,お世話になっている方々へのお礼,見守りたい人たちへの祈りなどを心のなかで唱えると,何か一つ肩が軽くなったような気がした.そして,納経所で最後のその頁に,大窪寺の御朱印をいただいた.

 普段は滅多にしない納経所内の周囲を見回すと,御札や仏具などの陳列の上に,「結願の証」を有償で発する旨の説明と見本の賞状が飾ってある.「なるほど...」と思いそれをお願いすると,暫くして名前入りの賞状をいただいた.そして,『賞状の氏名,日付をよく乾かして...』と言われ,ドライヤーで充分乾かした後,これもいただいた筒に入れた.

 「これで,結願したのか...」とは思ったが,それは「これでお終い」とか「ようやく結願した」という感慨などとは全く異なっていた.それよりも,「(実際にはない)次の89番に行かなくちゃ」とか「もっと歩き続けたい」という想いのほうが強く,そのためにこそ,大窪寺山門下にある民宿「八十窪」に宿を取っていた.

 前も言ったように,宿を予約してもある程度の時間にならないと宿に入れない.ホテルのチェックイン・アウトのような厳密さはないが,案の定「八十窪」の前を通りながら気配を伺っても,中は真っ暗.

 「当たり前だよな」と時間を見ると,まだ午前11時前頃.一応電話を入れると,転送電話に出た女将は外出中とのことで,『この時間なら,キャンセルして次に行かれてもいいですよ』と言われてしまう.それでは宿での情報収集ができないので,『高松市のゲストハウスのオーナーからそちらの名物大女将のお話も伺っているし,何時まででも待ちますから泊めて下さい』と再度お願いする.電話先の女将は苦笑しながら,『分かりました.昼過ぎには帰るので,それまでお待ち下さい』と言ってくれた.

 かくして,「八十窪」の玄関先にザックだけ置かせてもらい,私は付近にある門前の蕎麦屋ならぬうどん屋で,久し振りに落ち着いたお昼をいただくことにした.これも腰がある讃岐うどんを美味しくいただくと,電話で女将に確認した「大窪寺奥の院」へと向かった.

炎童(円堂)坊像


 「大窪寺奥の院」は,参道途中に出るあの急坂な女体山下りを逆に登り,途中で山頂方向とは別に行く路の先にあった.そのため,腹ごしらえした後に再度登る急坂は結構きつく,電話では女将は『険しくないですよ.普通の山路...』と言われていたが,じぇんじぇん違う! 地元の人たちは,「普通」とか「山路」の感覚が違うんだな!と改めて思い知らされたが,とにかくその路を進むと40分ほどで奥の院が見えた.

 しかし,その堂の前にあった掲示には,現在奥の院は改築中で,再興のため寄進を募っているとのこと.お堂の横の崖越しには「炎童(円堂)坊像」が僅かな囲いの中に祀られていたが,他にはブロック塀と板張りの小屋しかなかった.その中に,地元の人達に親しまれている御本尊があるのだろう.

 その後,再び大窪寺前に戻った私は,国道間際の角に腰を下ろし,見渡す限りの景色をゆっくり見たり,更に再びうどん屋に行き,ソフトクリームをいただくなどして,午後2時過ぎまで待った.


 八十窪に一番乗りした私の他には,お客さんはお遍路さんが2名だった.
 どちらも白髪交じりの男性で,やはり言葉少なめのお二人だったが,食堂の隅の椅子にちょこんと座った大女将とその娘さんなのか女将さんが,その場の会話を弾ませてくれた.

 大女将は既出した「大窪寺への正式な遍路道のこと」「かつての鎖場が今は変わったこと」の他,「昔は近在の娘は皆お遍路に出たが,私はそのずうっと前(80代後半~90代と思える大女将の10代後半の時=70,80年程前?)からお遍路したこと」「昔は遍路道と言われる程の道はなく,札所の所在を人に聞いても誰も知らないお寺も多かった.今のような道標も殆どなかった」等々,昔のお遍路話を面白く伺った.

 このブロクの本シリーズ「その六」にも書いた通り,お遍路の歴史は800~1,000年あるらしい.今回の私の遍路でも,江戸時代からあると思われる「町 (丁)石~1丁(60間=109m)毎にある石標」や「街道筋石標」に随分助けられたし,況や「へんろみち保存協力会」や全国の支援団体,「鯖大師」を始めとする寺社僧侶の方々などによる,奥深い山中の迷いポイントに励ましの言葉と共に括り付けて下さった道標などに,どれ程励まされ心の支えになったか言い尽くせない.

 そうした道標もあまりない時期から,お堂の隅に野宿したり,何足も草鞋を持ちながら歩き巡った大女将の苦労は想像することもできないが,そうまでして巡られる<四国遍路>は,様々な想いを抱いて四国に集まって来る人々によってずうっと続けられている.そして,そういうお遍路たちを,四国の人々はやはりずうっと受入れている.その事実だけは,如何なる解釈の余地もなく継続されている.


 結願を果たした歩き遍路は,どういう帰り路を辿るのか,女将に聞いてみた.

 大抵は1番に行きお礼参りをするか,10番に出て10番から1番へ逆打ち(さかうち)する人が多いとのこと.そうではなく,88番から直ちに87番,86番と逆打ちする人も中にはいるようだが,私は10番へ出る路を選んだ.何故なら,再び元来た札所を逆打ちして戻り巡るまでの時間はなかったが,1番に出れば,そこですぐ遍路は終わってしまうからだった.

 「どのように10番に出れば良いのだろう」と聞くともなく呟くと,一緒に食事していたお遍路さんから『ここまで一緒に歩いてきたお遍路さんが近くで野宿しているから,聞いてみたらいいよ』と教えてくれた.何でも,そのお遍路さんは四国巡りを既に13回しているとのことで,道もよく知っているからとのことだった.

 食後,女将さんがお接待で握ってくれたお握り2つを友人の方が持って,近くの公衆トイレ前の休憩スペースにテントを張った野宿お遍路さんの元へ,私を連れて行ってくれた.そして,テントの中から出てきたその方にお会いすると,幾つか手前の札所で私も一,二度お見かけしている方であった.

 テント担いで歩き遍路をしている者同士は,何となくその波長を互いに感じ取ることができた.そのため,少し遠くからではあったが私はその人を覚えていたし,彼も私を見かけていた風だった.そして,10番札所への歩き路や野宿できそうな場所など詳しく教えてくれた.

 ただ,その方は白衣や袈裟を身に着けておらず,最低限の荷物で回っており,その遍路回数などを考えてみても,やがて職業遍路になってしまう雰囲気も感じられた.そうなると,いよいよ現世と来世の境界が付かない次元に迷い込んでしまうようで,それが<歩き遍路>の<怖さ>でもあり,ある意味では<新世界><別次元>への現世からの<飛躍>であるかもしれなかった.

 そういう雰囲気は,私が知っている四国以外の都市などでのホームレスの人達とは少し異なる,異質な波長を感じさせる,独特のものと言ってもいいかもしれなかった.

 とまれ,その彼から10番への路を伺い,改めて部屋に戻ってコースを確認して,その晩は休んだ.




2022年6月17日金曜日

<歩き遍路>再開! その九

 2022.06.17

 「道の駅ながお」の一角に張ったテント内は,前の県道3号線を猛スピードで走るダンプの音が深夜になっても時折聞こえてきて,うるさかった.しかし,私はしっかり眠った.

 そして,朝4時半前には起き用意をして,5時半過ぎには歩き始めたが,昨日の雨をたっぷり吸ったアスファルトの歩道は,割れた継ぎ目からオヒシバなどが私の腰以上に長く伸びずっと続いていた.この道は徳島方面に抜けられる道ではあるが,歩道を使って歩く人なぞまずいないことをそれは示していた.

 

 前山ダム沿いの道の駅から大窪寺までは,3つのルート(遍路道)がある.

 1つは標高410mを通る山路を経て国道377号線に出,女体山をグルっと回っていくルート,2つ目と3つ目は前山ダムから大窪寺までの女体山縦走ルートで,最後の2kmちょっとで2つは合流するが,その手前5,6kmは西側を通るか東側を通るかで分かれた.

 標高は前山ダム辺りで140m程だが,2ルートとも合流手前5,6kmの間に300,400,500mと標高が上がって,合流してからの最高点は地図上では標高776mになる.四国八十八か所の遍路道での最高点は雲辺寺の910mだが,大窪寺も負けず劣らずの高さ.しかも聞くところの「鎖場」もある.ということは...結構,ヤバい !?

 まさか,最後の最後でひょっとしたら一番厳しい札所なの?と少し臆しながらも,私は直行ルートの東側を通る山路に決め,進んだ.少し行くと,今は草が茂るダムの広い貯水用エリアに何か動くものがいる.止まってよく見ると,ずっと遠くなのに,猿の一群が私の気配を感じて森の中に逃げていった.Oh, Wild だぜ!
https://photos.google.com/archive/photo/AF1QipOdA8hC8ISPD1oDhYcqvKZs68zRZrh6Az0hvL

 そして,路は次第に鬱蒼とした森の中に入っていき,途中の神社を抜けるといよいよ道幅数十cmの林道となった.しかし,所々に道標が立っているので進路には安心できたが,山頂からの清水や雨水が小川となって流れており,その様は高野山から富貴地区に行く旧街道の渓谷を思い出させた.
「深い山に<水>は付き物だな」などと思いながら進んだが,その水は後になって「鎖場」があると言われたエリアで手こずらされる一因にもなることを,その時はまだ想像できなかった.
 その後,いよいよ本格的な山路に入ることになった(写真上がその山路入口だが,左に伸びる幅の広い道じゃない.真ん中にある小さな遍路道標示の右横の路?.その拡大図が下の写真).

 その山路は夥しい落ち葉や枝,倒木などで路が被われ,時折覗く岩肌は勿論,地面全体がしっとり濡れていて,歩きにくくはなかったが,山の奥深さをしっかり実感させた.
 そして,その路を抜けると,遠くに目指す女体山山頂が見えてきた!
 
  それから暫く行って,女体山山頂にある大窪寺の2km手前,西側ルートと合流する地点に来た時,この近辺の「太郎兵衛」や「古大窪(ふろくぼ)」の名の由来の掲示物などがあり,一時の憩いになった.しかし,以降の路はどんどん険しさを増し厳しくなった.

 しかも,路とはいえ,硬い岩があちこちに露出する岩礁路で,これがまた昨日の長雨の影響であろう,テカテカと濡れて光っている.「う~ん,こりゃ,滑るな...」と気を引き締めて歩くが,一休みや息継ぎする度,どんどん高度と険しさを増していくその山路には,じっと覚悟を決めるしかなかった.

 やがて山路は,コンクリ造りの階段や石段,木段,岩段?などが多くなり,明らかに "天国への階段 (Stairway to Heven~1971 Led Zeppelinというロックバンドがリリースした曲の題名...)" だななどと思っていた時,遂にガチンコ急斜面に出くわした.


 見るまでもなく,その傾斜に抗って登っていくには,右手に持っている金剛杖は邪魔になる.これから先に「鎖場」が出てくるのであれば尚更なので,今朝アタック前に縛り付けていた網代笠に加えて,金剛杖もザック左側のベルトに差し込み,外れないようにしっかり縛り付けた.
 後は,「岩にかじりついてでも登ってやる!」と覚悟を決めたが,文字通り,それは岩にへばり付きながらでなければ登れない厳しいアタックになった.

 鎖場---と「ゲストハウス若葉屋」のオーナーが言われた場所は,それこそ角度60度はあるであろう岩盤斜面そのものだった.その岩肌には手をかけやすい凹凸も殆どなく,岩盤の隙間の土にしがみ付くように延びる木の根っこがよじ登る際の心強い「手がかり」になったほど,斜面は急で危うかった.

 岩は濡れていて滑る.僅かな岩の窪みを足がかりにしようと爪先を入れても,しっかり喰い込ませないとツルッと滑り靴が外れる.手がかりが何もない所で爪先が滑ったら,10kgのザックの重みが牽引力となって,確実に私の身体を崖下に引き落としてくれる.

 「ヤバいな~」と必至に両手指,両足指を岩面に爪立てしがみつきながら,僅かな手がかり・足がかりを頼りによじ登った.その斜面の途中で,岩盤の険しさを写メに撮ろうと努力したが,やっと片手でスマホを出しカメラを起動,シャッターを切ろうとしても,ちょっとでも間違えば自分がそのまま転落.

よくてカメラを落としてオジャンにしてしまう危険箇所なので,かなり躊躇いながらも,それでもやっと撮った写真がこれ(右3枚~縦2,横1).

 かつてはそこに鎖が張られ,登山者の手がかりとして設けられていたのであろうが,今は鎖はない.鎖があったであろうと思われた箇所には,今は「コ」の字型の大型アンカーボルト(よく掘りの深い放水路の昇降用階段代わりに設置されている)が横に数個,間隔を開けて付いていた.

 後で「八十窪」の大女将に聞いた話では,かつては鎖場があったのだが,その箇所で転落等の事故が起きたため,不安定な鎖ではなく安全性を高めようと,現在の金具に変わったとのこと.

 そうは言っても,私からすれば今も充分な危険箇所で,ましてお遍路が金剛杖を突いて登れるような傾斜角では到底ない.そのため,言い換えれば「軽度?ロッククライミングポイント」と,私は名付けよう!
 ロッククライミングであれば,合計10kgにもなる重いザックや前の頭陀袋を身体に付けて登るなど,あり得ない.バランスを取った微妙な身動きができなくなるからだ.しかも,私は「クライマー」じゃなく<歩き遍路>だー!.それでも,『なんじゃ,こりゃ~!』などと言いながら必死に喰らいついた.

 85番八栗寺手前で泊まった「高柳旅館」のご主人は,その鎖場の高さを『せいぜい1,2mだ』と言われたがとんでもない.実感,建物2階以上を上がる高さがあったので,ざっと7,8m以上はあるだろう.
 そういうリスキーポイントが女体山越え遍路道には今もあり,「どこが "女体" だ~!」などと思いながらも,それは「四国霊場結願所」として「女体山」という剛峰を擁する大窪寺への必須関門なのだろうと,岩礁を登り切った後につくづく思った.


 とまれ,そうしてやっと辿り着いたのが女体山山頂.そこから見下ろすさぬき市の遠望や山の翠の深さにホッと息を撫で下ろしたのも束の間,まだ大窪寺納経は終わっていないと,また歩き始めた.


 大窪寺手前では,僅か1km程の間を340mも一気に下降する.その急坂で,『今度はなだれ落ちかヨー!』とつい愚痴を吐きながらも駆け下りた.すると,参道へと通じる階段が出てきて,そこを降りると先に大師堂に着いた.
 「八十窪」の大女将に後で聞いた話ではあるが,このことからも,正式な参道への遍路道は,国道377号をずうと大回りに回ってくるルートの方かもしれなかった.
 
 何れにせよ,奥深い山頂の寺院である厳かさや趣きはお寺の柱の一つ一つ,墓石や石碑の一つ一つにしっかり現れていて,更に「四国霊場結願所」としての格式も感じられ,印象深かった.その大窪寺では遂に「四国八十八か所 結願の証」をいただき,歩き遍路の誉となった.その大窪寺を打ち終えたのは,午前10時半.
 (道の駅からだが)歩き始めて5時間.前山ダムでの標示より1時間多かったが,何とか札所結願所を打ち終った.
 
 しかし,私は「結願」を果たしたからと言って,正直言って,それに響く感情は全く湧いてこなかった.88番を打った後は,当然89番があるかのように次を目指すことしか意識しなかったし,「もっと歩き続けたい」というのが本音だった.
 そのためにこそ,今夜,お遍路の定宿となっている「八十窪」に泊まり,結願を果たした以後の<歩き遍路>の成り行きを,情報として確かめたかった...






2022年6月16日木曜日

<歩き遍路>再開! その八

 2022.06.16

 「ポンチョを被り,下にスパッツつければ,レインズボンはいらないな.

 文庫本も読む余裕がない.レスキューシートはテント・寝袋あるのでいらない...」

 今回の歩き遍路では,主に就寝時の防寒具としてメリノウールのアンダーシャツ・タイツを持ってきた.高野山だけでなく,5月末の香川県の最低気温は6度を下回る時もあり,山中テント内だと寒さがこたえるからだった.

 しかし,6月に入る頃には大分暖かくなり,逆に熱中症などが心配される時期になったので,厳選に厳選を重ねた荷物を更に軽くするため,防寒用品は郵便で送り返した.加えて,上記の荷物を不要と決めまた送ることにした.僅か数百グラムの減量だが,精神的には大分軽くなる.

 宿泊まりの良い点には,こうした荷物の返送を宅急便で頼めることもある.ただ,今回はロシアのウクライナ侵攻などで荷物の輸送コストも大分上がったので安易な返送は控えたが,「荷物送り返し」は歩き遍路の常套手段でもあった.


 さて85番八栗寺は泊まった高柳旅館から1kmちょっとの所だったが,標高230mの山頂にあるためケーブル設置されていた.その駅の横から続く山路は荒い砂利混じりのコンクリート道で,それを登っていくと小さな不動明王の碑や菩薩像などが点在する.

 山頂にある寺院ではどこも眼下を一望できるが,そのエリアだけは世の流れと隔絶した気配が漂い,静かで厳かな,独特の気力を感じる.そして,そうした寺院の境内にはどこにも岩肌が剥き出しになった岩盤があり,これが香川のお寺特有の景色なのだなと思われた.八栗寺も同様に,本堂,太子堂共に裏山の木々を背負って,岩盤の造形を巧みに取り入れ建っていた.

 その八栗寺を打ち,86番志度寺に向かう.

 山路を降り切ると広い舗装路に出るが,そこを少し行くと「二ツ池親水公園」がある.その手前の草むらだらけの道端に,大きな母子観音像が建っていた.

 私は住まわせていただいている高野山や富貴周辺でも「お地蔵様」が大好きで,こうした母子観音にもつい目が行ってしまう.四国にはこうした観音像だけでなく,お地蔵様がとても多く供えられている.札所を巡るお遍路ではあるが,荘厳な寺院の一方でこうした素朴な神仏像にむしろ心惹かれる私としては,その都度立ち止まり合掌して歩いた.

 「二ツ池親水公園」に寄りトイレを済ませるなどした時点でまだ朝8時前頃であったが,見ると公園の池の手前の板張りで,家庭用の自転車に大きな荷物を括り付け,その足元で裸足になって寝ている人がいる.最初は私と同じ歩き遍路の野宿組かと思ったが,自転車という組み合わせや白衣・袈裟はどこにもないため,少し違った.

 「はて,彼はホームレスなのかな」と思い見とれたが,悠々と池に向かって素足を投げ出し,お腹には新聞紙を乗せ(かけ?)気持ちよさそうに寝ている姿を見ると,「う~ん,彼と私とどこが違うのだろう?」と考えさせられた.そして,こういう現実が共存する四国の有り様には何か独特のものを感じて,四国の奥の深さに一層興味を惹かれた.


 それからは86番志度寺,87番長尾寺と一気に打った.

 85番八栗寺からは86番は6.5km,それから87番へは7kmと地図上ではあるが,どちらも町中郊外の県道3号線沿いにあるお寺で,そこをひたすら歩いていく.ただこの遍路道は前半,志度湾沿いにずっと続いていて,急に道が開け久し振りに(志度湾の)海を一望できた時は「さずが四国!」と,とても嬉しかった.それに,湾岸には由緒ある塩竈神社や平賀源内ゆかりの記念館などもあり,そこを見ながら歩いていると飽きなかった.


 気が付けば,5月30日,「四国八十八箇所札所巡り」も後一番を残して最後となる.

 「後,一番か~」と思う一方で,町中ではあったがこの86番から87番の路の印象も結構深いものがあった.

 山路歩きが多かった遍路道で急に開けた海に遭遇し,暫く海に見とれていたこと,その途中の川のような水路に無数の亀が甲羅干ししていて,私が近付くと順に水に飛び込む様が面白かったこと,「天才,異才」と称された平賀源内と同じく蘭学に携わった杉田玄白との意外な交友を改めて知ったり,圧巻は種田山頭火の「からすないて わたしもひとり」の自筆句碑を見られたこと...

 「漂白の俳人」とか「放浪の俳人」などと言われた彼は,山口県に生まれ,戦前,出家得度してから全国を行乞(ぎょうこつ)放浪し,各地の草庵に移り住みながら「自由律俳句」という定型に縛られない自由闊達な手法で句を詠んだ.ただ,その酒癖の悪さから身を持ち崩し,支援者から助けられながら何とか生計を立てていた.

 そうした彼も,ここに来てこの句を詠んだのであろう.そのことを想像すると,<各地を回り,歩き,接し,感じて,発する>生き方を生涯に亘り通し続けた彼に,ある種の尊敬と羨望を感じてならなかった.


 さて,いよいよ88番大窪寺への旅となる.

 87番から88番へは距離にして15.1km.長尾寺到着は午後2時半で,打ち終わったのがほぼ3時だから,到底今日中には着かない.

 しかも,長尾寺から1km2kmは郊外のほぼ平坦な舗装路を進むが,後は進むに連れ高度を増す山路になっていく.それに,噂に聞いた「鎖場」(実際に行ってみたら鎖ではなかったが...)の岩場がある路.また,女体山山頂付近にある大窪寺に着いても,そこから降りる路も同様に長く,どう考えても大窪寺を打った後の進路もよく検討する必要がある.

 そのため,高松市内のゲストハウス若葉屋のご主人が勧めてくれ,大窪寺下にある名物宿「八十窪」に昼頃電話し,明日の宿泊をお願いした.その宿で,結願した後のお遍路の各種の情報を収集することが目的だった.しかし,その前に,今日のこれからの行程をどうするか,それが問題だ.

 「大窪寺に,近付ける所まで行こう!」

 山中だったら大体いつもこんな感じで,何とかしてきた.そのため,今回もと思い長尾寺からのさぬき市中心部を抜けた.そして,暫く行き県道3号線沿いの登り路を進み始めて程なく,雨がしとしと降ってきた.今回のお遍路で,歩き途中でこの位の一定量の雨に振られることは初めてだった.そのため,ポンチョを出して被って歩くのは,少し様子を見てからにしようと,そのまま歩いた.

 雨はずうっと降り続いた.「しとしと」からやがて「パラパラ」に変わり,一定量降り続いたが,頭には網代笠があり笠の縁から雫は垂れるが頭は濡れない.白衣の袖は濡れたが,元々背中は汗でびっしょりなので,今更「濡れた!」という違和感はほぼない.ズボンはポリエステル生地,靴はゴアテックス製なので,水が染み込むことはほぼない.

 こんなことから,雨に濡れてもそのまま歩き続けたが,時間的には既に午後4時を廻り,長尾寺から5km程先にある前山ダムに通じる県道と遍路道が合流した辺りで雨は強くなった.既に1時間以上雨に濡れているだろうか.すると,県道に合流してからその道路の拡張工事なのか,工事作業が行われていて,県道をたまに走る車の通行指示などをしていた.

 そうした工事風景や車を尻目に黙々と舗装路の登路を進んでいると,峠の上の東屋が見えてきた.「本日はあそこで終了かな?」と思いながら着き,暫し雨を凌ぐつもりでザックを降ろしたが,雨は降り止む気配がない.東屋の道向かいは道路工事の資材置き場や休憩所の拠点となっており,交通指示をする人も向かいにいた.

 少々休むが,雨は止む気配なし.そこで,「もう今日はここを宿にしよう」と決め,洗濯ロープを張ったりして,濡れた白衣や手拭いなどを吊るし始めた.その東屋の周りには草が伸びていたので気付かなかったが,よく見ると前山ダムの堤防がすぐ横にドンとあり,制御されている水がジャージャー流れている.


 「へえ~」と思い雨に濡れながらその様子を見ていると,東屋の脇に掲示があり,後200mで「へんろ資料展示室」があることや,大窪寺まで県道直進では10.6kmだがダムを渡り女体山越えルートで後7.8km,それを並足歩行すれば約4時間かかるなどの手書き表示があった.

 「何れにせよ,今日はここでストップだ」と決め,午後4時半頃に道路工事の人たちも工事を止め撤収準備を始めたのを機に,私もテントを張り出そうかなと思った午後5時,急に雨が止んだ.

 「えっ!」と思い地図を確かめると,表示のあった「へんろ資料展示室」とは「道の駅」があるエリアにあるものらしい.そこで,「ここに泊まるより道の駅が more better だ!」と,慌ててまた荷物をまとめた.そして,雨が止んでいる内に移動しようと,一目散に道の駅を目指した.

 

 歩いて10分もあったろうか.

 ダムを回り込むように登った先に,「道の駅」はあった.その手前には「前山おへんろ交流サロン」なるものもあり,広いスペースに車の駐車場は勿論,自販機数台,トイレ,休憩スペースなどが揃っていた.「やった~!」と,瞬時の移動の決断をした自分を褒めながら,「さて,どこにテントを張ろうか」と回ってみると,道の駅のトイレの横に「へんろ路の朝市」なる大看板があるスペースがあった.

 朝市をするらしい場所はビニール幕で仕切りられ,朝まで開くことはなさそう.すると,いつも通り朝が早い私としては,早めにテントを撤収すればここで問題なしと判断し,トイレ・水場,自販機が近いこの場所にテントを張ることにした.

 しかし,お遍路は元より,広大な駐車場にも1台しか車は停まっておらず,何とも整った設備に対して観光客や来訪者が少ないこと.時間も午後5時を回ったので当然かも知れないが,人の気配がない寂しいばかりの「道の駅ながお」だった.

 それからは心配された雨は降り出すこともなく,空はどんよりしていたが,快適な寝所を確保することができた.場所は大窪寺まで後10kmの地点.地図を見ると後1km足らずで大窪寺への本格的な山路になり,そのすぐ脇には「遍路道中物故者供養碑」もある.


 「大窪寺,恐るべし!」 1人で気合を入れ直す一夜だったが,程なく😴.

 「あ~ 大窪寺」 遂に明日,決戦!


2022年6月15日水曜日

<歩き遍路>再開! その七


 2022.06.15

 愛しの「五色台子どもおもてなし処」を朝6時に出立.

 83番一宮寺に向けた山路の前半は,3km弱の間に一気に300m以上も下り降りる急な坂であった.その途中で一旦は市道らしき舗装路に出たがすぐ山路に戻る.やがて地面が僅かしか見えない雑草が生い茂った山路となり,その脇には,小川や沼と思える水溜まりが続く.

 路の上には木々の枝葉が濃く覆い被さり辺りを薄暗くして,足下の雑草の地面は湿地帯に近かった.誰が言ったやら,その山路は「マムシロード」(右写真)と呼ばれるルートで,如何にもマムシが出てきそうな路だった.



 そのため,面倒だが一旦ザックや頭陀袋を肩から降ろし,雨天時に着けるゴア製のスパッツを足首から脛にかけて装着して,マムシ対策をして再び歩き出した.

 草むらから見える道幅は約10cmで,オヒシバなど丈の長い草が伸びていると,地面もよく見えない.それで,ブッシュ漕ぎのように草を掻き分けて進むが,「これじゃマムシが出てきても分からないな」などと思いながら進んだ.


ゲ,ゲ,ゲ! 右写真の左下部分拡大したら,
     こんなん出てきました! "ヘビ" じゃねの?

 昨夜の寝所から「マムシロード」には約40分で着いたが,次の一宮寺までは82番から12km程の道程.その手前5kmには別格寺院香西寺があり,山路はそこで終わる.一宮寺までの残り7kmは,県道177号線の舗装路がずっと続くが,正直,私が苦手な一般舗装路だ.

 そんなことを思いながら歩いていたせいか,一宮寺までの道は迷うような道ではないのに,山路から町中郊外,JR駅がある中心部を抜け,ほぼ「碁盤の目」状に区切られた田畑エリアに入ってから,遍路道を見失う.郊外の田畑・住宅街なので,遍路道の道標など殆どなく,大きな区画の畑道を1本間違うと,結構な回り道をしてまた遍路道を見つけなければならない.

 私はそれまでに,国道や県道など大きな街道にほぼ平行して走る山沿いの遍路道には大体感が働き,「こっちに逸れると遍路道はあるよネ」など当てずっぽうに歩いても見つけることができるようになっていた.しかし,町外れ郊外のエリアではその感は全く当たらず,終いにスマホのグーグルマップで調べても地図表示と縮尺が違い,目印となる建物やランドマークを見つけられない.

 「ホントに地図が読めない男だよな~」と自分に呆れながら,行ったり来たりする.そのため,町中郊外の歩きには苦手意識が強く,こういう時は大抵最後には消耗して付近で宿を探すことになる.でも,一宮寺には何とか辿り着き,「町中キライ!」とばかりに早々に84番方面に向かおうと出立した.


 83番一宮寺から84番屋島寺は,距離にして13.6km.一宮寺を発ったのがほぼ昼前だったので,これから歩くとちょうど夕方前か,と思いながら進む.

 しかし,場所は高松市中心街のほぼど真ん中.高松自動車道や道幅の広い国道11号線,JR高徳線も平行して走り,やはり広い国道193号線と県道280号線が平行してそれをクロスしている.メイン通りにはコンビニは勿論,ビジネスホテルや旅館も立ち並び,そんな中ではお遍路姿は明らかに場違いだった.そのため,国道沿いを歩いている時,近くに停まった車から降りてきたアジア系の女性に,私は遍路姿をスマホでパチリと撮られる始末.

 「こりゃダメだ」とばかりに,近くの宿をネットで探す.

 すると,安宿などは既に満杯で,比較的値段が手頃なゲストハウスに空きが1部屋あった.そこを早速予約する.グーグルマップを見ながら,やはり大きな県道・市道に挟まれたエリアの一角にあるその宿に何とか歩いていくと,すぐ近くに来た時,道の向こうから頭にバンダナを巻いてロングスカートを軽やかに穿いた30代位の女性が,学齢前位の子ども2人を連れて歩いてきた.

 ゲストハウスだから,ひょっとしたらそこのオーナーだったりして...などと思いながら『こんにちは』と挨拶してすれ違うと,少し経ってから子ども2人が追いかけてきて,『ゲストハウスにお泊まりですか?』と声をかけた.

 『そうです.電話した○村と申します』と,私は網代笠を被った頭を子どもたちに下げた.その様子を見ていたバンダナの女性はニコニコしながら,『ゲストハウスの者です.お待ちしてました...』と言い,子どもたちには『パパを呼んできて!』と返した.

 かくして,私は高松市の「ゲストハウス若葉屋」に28日の宿をとることになった.


 「若葉屋」のご主人は,上の子を連れ歩き遍路をしたこともあるそうで,部屋に案内する前に「へんろみち保存協力会」編の地図を机の上に広げ,「ここは〇〇,あそこは△△」などと色々説明してくれた.お話がお好きなようで,その他にも『高野山に帰るにはフェリールートだったらこの切符を買えば○○で,夜行バスなら△△で...』と暫く話しただろうか.

 そして,通された部屋は機能的かつ現代的な和風で,如何にも外国人も泊まるゲストハウスらしい雰囲気を醸し出していた.事実,そのご主人(とはいえまだ30代ないしは40始め)は外語大を卒業されたそうで,色々世界も歩かれたとのこと.

 『私もインドに1年8ヶ月ほど住んでいました』と言うと,『インドのどちらに?』とか『何をされていたんですか?』など,話は広がった.それでも疲れていたこともあり,教えていただいた近所?の中華飯店に早めに行き,ビール片手に久々に中華料理を楽しむと,後から来るらしい他の泊まり客の到着を待たず,先に休ませてもらった.

 私の身体は,テント生活でのスタイルが定着して,久々に飲んだビールは大瓶1本飲めば十二分,眠りは午後6時を過ぎれば何時でもOKというペースになっていた.

 ただ,寝る前にゲストハウスのご主人から伺った話では,88番大窪寺への山路には鎖場があり,そこの険しい山路は結構大変で,一緒に行った長男の子が泣きながら歩いたことや,どうもその遍路道として認知されている山路は正規の参道に通じる路ではないらしく,ずっと国道377号線沿いに大回りするルートが正式らしいとの話を聞かされ,一番最後の札所も中々のものなんだなと覚悟をした.


 翌朝6時過ぎ,ザックに残っていたブドウ糖菓子ラムネを10個程,「ゲストハウス若葉屋」の息子さんたちへのプレゼントとして机に置き,静かに宿を発った.

 春日川やその分岐流から壇ノ浦に抜ける川沿いの町中を,相変わらず町には不相応な遍路姿で歩いているので,途中,川沿いのコンクリートでできた堤で一休みしている時,その上の陸橋を走る車の窓から,私は物珍しそうに見つめられた.

 そして,JR高徳線に平行して走る,昔風の簡素な白壁で造られた高松琴平電鉄志度線の「琴電屋島駅」を横目に,小高い山頂にある屋島寺に登り始めた.

 屋島寺への参道となる山路は,1km半程の距離を一気に300m近く登るため,10kgザックを担いで上がる私にはそれなりにキツかった.町中にそびえる寺院らしく,道こそ舗装され軽装で登る一般参拝客も多かったが,ここで私は10歩進んでは息継ぎし,また進んでは息継ぎするという動作を繰り返した.何度も折り曲がる参道を登るほどに眼下の町は開けてきて,高松市が一望された.

 しかし,いよいよ緑濃い参道に入ろうとすると,道沿いに「猪がでます.林内には入らないで下さい」と書かれた掲示板がある.これまでの三角寺,雲辺寺,白峯寺など山深い所ではみなそうだが,四国では特に「猪」の出没に注意せよとの掲示が多く,襲われて怪我をした人も少なくないそうだ.

 こうした多くの人が通る寺院の参道においてすらそうなのだから,<生き物>は人間だけではないことを実感する.

 そして,ようやく着いた屋島寺は,開創が唐の僧鑑真和尚で,その弟子が初代住職となったが,初めの律宗から弘法大師が真言宗に改めさせた寺とのこと.鎌倉時代末期の建築とあるその寺は,どことなく他寺と違う雰囲気を感じさせたが詳しいことは分からない.

 ただ,弘法大師は他宗を改宗するなど,単に真言宗を開創流布しただけではないストーリーもあったことを知ると,それなりに種々の歴史を積み重ねたのであろうと,何か感慨深いものがあった.

 屋島寺の帰り,路は違えどまた猪侵入防止柵を設けた箇所があり,猪被害は半端ないと知った.

 ただ,この日,ホントに珍しくも歩いていて頭痛がしだした.知り合いへの報告用に打っているインスタにも,「本日,午前中歩いただけで頭痛がイタイ! 炎天下のねっつー症かってーの?」と,夜,コメント付写真を載せた.

 お遍路歩き始めて今日で9日目.

 そろそろ疲れが出てくる頃ではあったが,これまで天気もよく炎天下の日差しもキツイ日が続いた.

 網代笠はツバ広で日差しをよく避けてくれ,木製経木で組まれた笠内は風通しも良かったが,直射を跳ね返す力はない.そのため,長時間熱射を浴び続けると,頭蓋内の脳に響いたのだろう.炎天下の熱射=ねっつう(熱中?)症,久し振りの自然災害?だった.

 それがために,屋島寺から4kmちょっと行った所の旅館に連絡し,昼を2時間程過ぎたばかりだったが逃げ込ませてもらった.昨日に続く宿泊まり.ちょっと贅沢だが止むを得ないと,納得することにした.


2022年6月14日火曜日

<歩き遍路>再開! その六

 2022.06.14

 81番白峯寺への路は,自衛隊演習場の間を縫うようにして続く岩混じりの山路であった.

 そこを上り下りして,札所手前の「摩尼輪塔・下乗」の史跡からはほぼ下り路となった.

 ここ数日雨は降っていなかったが,山間の山路は朝露や僅かな岩清水などで所々濡れ,路の間に飛び出す岩肌なども湿っていた.そのため,滑らないよう気を付けて歩いてはいたが,今回の遍路で私は初めて滑ってガツンと転んだ.10kgザックを背中に背負い,ずっと歩き続けて疲れていると,見事に横倒しになった後も中々身体を起こせない.「え~い!」と踏ん張りながら,やっとの思いで起き上がった.

 そして,次の82番への戻り道(往復路)ともなるその路を下り切ると,路の終わりにはチェーンが張られ,車は無理だがモトクロスバイクなども侵入できないようになっていた.しかも,横に設置された掲示を見ると,「大雨が降るとここから300m先の地点は冠水するので,雨天時通行できません」とある.そんな窪みだらけの路が遍路道になっている.それだけ,この山路から参拝に来る人がまずいないということなのだろう.

 珍しくだが,その路では白峯寺を打ち戻ってきたであろう,中年に差し掛かったばかりの男性と女性に出会った.男性は普通のハイキングスタイルだったが,女性は白衣は勿論,お遍路用白ズボンに同じく白脚絆も着けた正式なお遍路姿で,杖を突きながら俯いて登ってきた.

 どういう事情があって白峯寺を参拝されてきたのか,衣装の様が全く違う男女がどういう間柄なのか,そうしたことは想像も付かないが,お遍路には他人には分かり得ない理由を抱え巡り歩く人が多い.そんな二人と擦れ違った時,何故かお二人には心穏やかに生きていただきたいと感じた.


 かつての参道であったろうその路はやがて白峯寺社殿横に繋がり,そこを通って山門に出る.山門の前は,これが今の参道?と見間違うような広めの駐車場と,山路とは反対側に立派な車道が続いていて,お寺は駐車場の前を切り取るように落ちた山谷の間でグンと建っていた.

 今のように道が開けていなければ,奥深い山間の峡谷沿いにそびえ立つ荘厳な寺院そのものであったろうに,車で気軽に来れるようになったばかりに,その有り難さが損なわれているように私は感じた.

 とまれ,その白峯寺を打ったのが午後3時半前.次の82番根香寺までは約5km.

 「暗くならないうちに行くか!」と決め,歩き始める.しかし,この81~82番の山路は,結構キツく,山路であるが故に1時間少々ではつかないと覚悟はしていた.標高300m弱の白峯寺からの山路は次第に傾斜をつけ,80番国分寺からの分岐点で東に延びる路は,標高440m程の高さになる.

 やがて険しい山路から一応整備された県道281号線に出たが,程なくまた山路になった.そして,遂に根香寺,その直前200m程の所に来た時,何と小綺麗な遍路小屋に出くわした.「えっ!」と驚くと共に,「今夜はここに泊めていただこう」と喜び,根香寺に急いだ.

 根香寺は,私が住まわせいただいている高野山から40kmほど西に行くと,根来衆などでも有名な同名異字の「根来寺」があり,同じ名前だななどと思いながら訪ねる.こちらも無数の参拝者で踏み続けられ歪になった石段を登ると山門があり,更に石段を上ると本殿に向かうという,奥深い山間のお寺に相応しい威厳と趣きがあった.

 町中の整ったお寺もいいが,私は81番,82番などのこうした山深い荘厳な寺院の方が好きだった.

 さて,その根香寺を打ったのが午後4時45分.あまりゆっくりもしていられないなと,もと来た路を急いで戻り,あの遍路小屋へ.


 その小屋の前には,お遍路さんが休憩時に飲めるウォーターポットやコップ,お菓子箱などが置かれていた(残念ながら既に空).そして,小屋内に入るとお遍路を迎え入れようとする温かい気遣いがひしひしと伝わってきた.

 室内はきちんと片付けられ,窓枠を除き総板張りの山小屋風.その梁や木壁のあちこちに,お世話になった多くの遍路人の納め札が所狭しと貼られている.また,小屋には様々な案内表示や緊急時・忘れ物をした時の連絡先,更に家庭用の貼付けお灸まで置いてある.

 小屋は簡素だがロフトスペースもあり,複数人泊まっても困らない造りになっている.それに携帯を充電できる電源もあり,加えて小屋の外には簡易な別棟でトイレ・洗面台が設けられている.

 「このHospitality spirit は何なんだ!」とよく見ると,土地を提供し建設資金を工面されたのは「禅喝破道場」を運営されている野田大燈なる方.それは「四国八十八か所ヘンロ小屋プロジェクト」による第51号遍路小屋でもあり,「NPO法人遍路おもてなしネットワーク」という組織もバックアップしている.

 「五色台子どもおもてなし処」と名付けられたその小屋や別棟のトイレ・洗面台などの建設資金は,地元の企業や個人は元より,各地から寄付が集まって造られたとのこと.

 更に,定期的に小屋の掃除や施設管理をしているのは,社会福祉法人「四恩の里」(香川県高松市)が運営する「若竹学園」という児童心理治療施設であった.

 それは,「...心理的問題を抱え日常生活の多岐にわたり支障をきたしている子どもたちに,医療的な観点から生活支援を基盤とした心理治療(中略)や学校教育との緊密な連携による総合的な治療・支援を行う施設(「全国児童心理治療施設協議会」HPから)」で,「過去は不登校の子どもが入所することが多かったが,児童虐待防止法が制定以来,虐待を受けた子供の入所が急増し,現在は入所する子どもの78.1%となっている(中央法規出版「児童・家庭福祉」)」とのこと.

 若竹学園に入所する前,自分が受けたであろう厳しい虐待や心身共の苦労に拘らず,この小屋を定期的に掃除し,トイレを磨き,自分たちの小遣いを出し合いお菓子を提供して,遍路人への励ましカードまで用意し,訪れる人々を労おうとしている.そのカードの裏には,何と救急テープまで挟み入れる気遣い.

 数々の葛藤の中からこうした気遣いができるようになっている子どもたち(園生)の心の成長にも強く打たれるし,そうした利用者を日々支援している職員関係者の努力にも頭が下がる.

 40年余,東京・神奈川で障害者支援施設に関わってきた私としては,この涙ぐましい遍路小屋を実運営する「若竹学園」の利用者(彼らは園生と言っている)・職員関係者に,心からの謝意と熱烈な賛美を贈ろうと,「お遍路連絡ノート」に熱い想いを書き綴った.


 歩き遍路をしていると,時にこうした心温まる遭遇や人との出会いがある.

 お遍路に関する様々な資料や多くの関係書物を読んでも,巡り続けるお遍路の詳しい事情には触れないとする不文律や,それをそのまま許容する寛容な態度,そして,お茶やお菓子等の飲食物や寝場所の提供,時にお金を下さることもある様子など,それが「お接待」という四国の<文化>であることが多く記されている.

 今回の私のお遍路でも,通り過ぎた車が脇に止まり,歩いている私に冷たいペットボトルのお茶を差し出して,『頑張って下さいネ』と爽やかに立ち去った中年男性もいた.その<心根>を,単に<文化>という<慣習的なもの>に短絡させることはできない.

 私は四国の町中やその郊外でこそテント設営に困ったが,四国以外の他の都道府県では,山間ですら勝手にテントを張ったり東屋に野宿すれば,警察にご厄介になる確率は高い.それが,四国では大目に見てもらえる.理由は,お遍路だからである.

 日々の暮らしや生業から逸脱して,<死に態>としての白装束(白衣)を纏い,巡礼者として各地の札所を巡り歩きながら,路半ばで倒れた際は,周辺の村人により墓標=卒塔婆代わりに土饅頭に金剛杖を差し立ててもらう.そのため,路を突いて歩く金剛杖の頭には五輪塔を形どった刻みがあり,それに墓標と同じ「空・風・火・水・地」を表す梵字が書かれている.しかも,金剛杖はお大師様の化身として扱われるため,遍路人と常に<二人>で<同行>行脚することとなる.

 そうしたお遍路の中には,最近は「職業遍路」と呼ばれ,僧ではないが街角で托鉢したり乞食(こつじき)して,着の身着のまま四国をずっと歩き回り続けている者もいる.ホームレスとの区別がつかないなどを通り越し,既に定まった住所も持たず(住民票なし),永遠と放浪を続ける場合もあり,社会保障的観点からは保護の対象になるケースではある.

 「そういう人をお遍路と呼ぶのか」という見方や,「お遍路自体をもう受入れたくない」という世相も時代と共に高まりつつあるのだろう.事実,私が四国を歩いていて,都市部以外で道で出会って挨拶しても,返事を返してくれなかった人は5人中3人までもいた.そのため,必ずしも「お遍路に優しい四国」とは言えなくなりつつあるのかもしれない.


 とはいえ,そうしたお遍路を受け入れる<文化>は,一節では「平安~安土桃山時代(1160~1600?)に修行者が四国を回り,一般人は江戸時代(1600~1868)にかけて目立ってきた」とのこと.そうすると,一千年近くの間,四国はお遍路を受入れ続けてきたことになる.そうした非日常的なお遍路の有り様や存在を,四国の人々は自分たちの<日常>と共に<在る(存在する)>ことを認め,支えてきた.

 

 これらのことをつらつら考えるに,四国のお遍路は,<人の暮らし>や<生>の有り様を真に考え答えを求めようと来る人に対して,果たしている役割はかなり大きいに違いない.

 お遍路を受け入れる四国の<文化>は,この10年或いは20年以上,世界中で求められ続ける<多様性>を認める価値観そのものであるように思える.しかも,遍路は,容赦ない自然の洗礼を受ける険しい山野を歩き巡り,<弘法大師空海(お大師様)>や<神仏>,<天地万物>への自然な<信仰>を元に営まれ続けている.増して,自分たちの<生>の横で力尽き行き倒れたお遍路の遺体を埋葬するなど,<死>を間近に受け入れてきた昔の風習などを思えば,四国の<文化>の根底には,<日常>を超えた<超世界>が形作られているのではないかと想像する.

 四国には,そうした<別の世界>があると感じる.そうした価値観を,私たちの<日常>からは見通せなくなった時,人は四国を求めて歩き始めるのかもしれない.

 また,「四国に行こう」

 1度目,2度目,3度目,そして4度目になれば,また<視える世界>が変わるのかもしれない...

2022年6月13日月曜日

<歩き遍路>再開! その伍

 2022.06.13

 『何故,四国を歩くの?』

 『それは...四国を歩いて,自分を見つめ直したいから...』

 『それって,四国に行かなきゃできないの? (四国に)行かなくてもできるんじゃないの?』

 <歩き遍路>を始める時,勤めていた職場に了解を得るためその旨伝えると,それを知った親しい職員さんからそう聞かれた.


 私は,今回の歩き遍路の前に,区切り打ちを2回していた.その最初の区切り打ちをした時,「俺は何故,こんなに苦しい思いをして歩いているのだろう?」と,路を歩きながら何度も自分に問いかけた.

 前述したように,歩き遍路はほぼ皆1日20km程を歩く.現代では,8割方が整備された舗装路になっているというが,僅かずつ息継ぎをしなければ登れない険しい山路や,「遍路転がし」といい踏み外せば谷底に転げ落ちるような危うい箇所も幾つかある.また,行き先が全く見えない水平線の彼方まで永遠に続くと思われる海岸線を,ひたすら歩くこともある.

 そういう遍路道を,肩に喰い込む重いザックを背負いながら何日も歩くと,誰でも上に書いた自問に迫られることになる.歩き遍路は,期間が限られ区切り打ちをする場合を除き,大抵は期限のない,大げさに言えば無限の旅に挑むことに等しい.無論,現実には「体力と金が尽きるまで」という条件付きだが,気持ちの上では期限はない.すると,有り余る時間の中で,考えることは尽きない.

 旅立つ前「自分を見つめ直すために遍路に出る」ことは,何度も自分に確かめていた.だから,「今更,何を言っているのか!」と自分に喝を入れながらも,歩いている身体が悲鳴を上げ始めると,<思考>の回路が破綻する.否,思考は無秩序に入り乱れ,あちこちに角度を放って,それぞれアナーキーに呟き始める.そして,それらがグチャグチャになりパンク寸前まで行った時,思考は<本音>という単純化を迫られていく.

 やがて「俺って,何なんだろう...」と,自分を見つめる最後の部屋の窓が幾つも開き始める.

 「あの時,何故俺はああいう対応しかできなかったんだろう」「何故,俺はあんなことを言ってしまったんだろう」「俺って,何のために仕事してきたんだろう」「大切な人たちに,ホントに酷いことばかりしてきたじゃないか...」「俺の人生って,何だったんだろう」「俺みたいな奴に,生きる価値なんかあるんだろうか...」等々,腹の底から沸き立つ呻吟を何度も繰り返す.

 そして,心身ともに疲れ果て考えるのも嫌になった時,本音が出始める.

 「でも,俺って,ホントは○○したかったんだよな...」

 「できることなら,土下座でも何でもして,またあの時に戻って,やり直したい...」

 しかし,その本音は,この現との狭間で,儚くも消えていく.


 札所という定点を巡り歩く旅ではあるが,札所を巡るそのことよりも,<路を歩く>ことで自問自答する過程が,私にとって大きな意味や価値を持つようになった.


 <歩く>ことが,大切なのである.歩きながら<考える>ことが大切なのだ.

 そして,行きつ戻りつのその思考は,支離滅裂に陥り,次第に考えることに疲れ果て,何事をも思わずひたすら歩き続けるようになる.<何も考えずに歩く>ことは,やがて某かの<安寧>をもたらす.

 <安寧>という表現が不正確なら,<安定>でも<定まり>でも<静けさ>でも<調和>でも良い.それ以上でもなければ以下でもない.心がちょうど満たされた状態.

 イメージで言えば,盃に盛った水が溢れる寸前で,こぼれもせずしっかりと整っている状態.そういう心の状態が,ずっと歩き続けることで出来上がっていく.

 自分を問い続ける過程,<歩き遍路>は,私にとって,そういうものだった.