2021年12月25日土曜日

ご挨拶

2021.12.25

 これに時々目を通していただいている皆様に,ご挨拶申し上げます.

 いつも気にかけていただき,有難うございます.

 私事,来春前まで半力?傾注していることあり,年末年始の世事一切について勝手ながら失礼させていただく旨を,ご報告いたします.

 例年も,時期を逸せずご挨拶などできておらず恐れ入りますが,今回は全く音沙汰の気配もなしということになりますので, 誠に申し訳ありません.

 皆様には,来年もたまには思い出していただけるような細やかな存在でありたいと願っておりますので,どうか宜しくお願い申し上げます.

遍路人


P.S. 世の中はクリスマスらしいので,独り身でもそれらしくと坂本龍一のpiano solo

"Merry Christmas,Mr.Lawrence" のLive録画映像をみたけど,中々いいですネ!

皆さんも静かな聖夜をお過ごし下さい.


2021年12月3日金曜日

ヤバシ!

2021.12.03

 この1ヶ月以上前から,歯科通院している.

 左上の奥歯が痛み,大分前に保険で被せた銀歯の中が悪くなっていたようで,引越し前の山下のアパート付近の歯科に通っている.早く直してもらいたいのだが予約が中々取れず,まだ通い続けている.

 今日は型取りされた歯が入りそうだったのだが,何と数日前にその隣の奥歯の被せた銀が取れて,取り敢えず治療中のところは仮止めになった.

 しかし,今日の歯科衛生士(らしい)の女性は,まだ神経が残っている歯と新たな歯のアタッチメントをする際,ギリギリと削ったり,被せては外し,また水洗いしてははめてという作業を何回も繰り返すので,その度に触られている歯は鋭く痛んだ.

 私が少し顔を歪めながら治療を受けていると,その彼女は『痛いですか? ゴメンナサイね...』などと言いながら,それでも言葉だけでギリギリとまたその動作を執拗に繰り返す.

 私は日によって代わるが,同様治療を施す彼女たちを,頭の中で「サディスト」と呼んでいる.今日も「サディスト」たちは元気に私の歯をいたぶってくれた.


 さて,ようやくその治療も終わり,買い物をして高野山の部屋に戻りまたテキストを読むなどしていると,まだあの時の痛みが少々ぶり返してくる.そこで,鎮痛剤のロキソニンを1T飲んだ.そして,またテキストに目を通していると,この1~2週間,急に寒くなってきたせいか風邪気味で,鼻水が鼻の奥から垂れてきた.

 「こりゃダメだな」と思い,数日前から何回か服用している葛根湯を1包飲み様子を見ていると,次第に眠気が出てきて,それでもテキストと格闘していると,その内,体内の鼓動がどんどん昂まり,心拍が強く感じられるようになる.

 念の為と思いパルスオキシメーターで測ると,Spo2はいつも通り92~95辺りをウロウロしている(私は血中酸素飽和度が前から低い)が,PR心拍数が87を上昇中で,更に脈拍の圧迫感が強いので測り直すと,ついに101となってしまった.しかも,昂揚感は更に上昇中.

 「ヤバシ!」と思い,布団を敷き,仕方なく横になった.

 約1時間半後,少し落ち着いたので今これを書いているが,Spo2値96, PR値90で,普段より心拍は高いまま.

 う~んと唸るが,横になる前より大分落ち着いてきたので良しとしよう.

 つまり,今回のことは「ロキソニンと葛根湯の組み合わせは心拍に大分影響を与える」という人体実験だったようで,今後はこのペアの服用は控えることにしよう.

 しかし,脈の不可解な昂揚がどんどん高まると,「うん? 大丈夫かな?」とさすがに心配になって,ネットでこの組み合わせの副作用などを調べたが,「偽アルドステロン症(低カリウム血症を伴う)」に似た症状かもしれないというところまでは追えたが,定かではない.

 こういう時,「何かあれば,どうすっかな?」という緊張感が少し走り,また,独り身の辛さが身に染みた.

 どなたか,これを読む医療職の方がいれば,教えてほしい.

 

 実は,今年の6月下旬からTANITAの体組成計で体重や体脂肪率,BMI値などを測り始め,この4ヶ月程はほぼ毎日測っている.体重はほぼ60kg+αで増やさないようにしているので体脂肪,内臓脂肪レベルも下降傾向を維持しているが,10月下旬から測り始めたSpo2値は最高でも97,低いときは92~93で,普段からほぼ低いまま.

 まあ,普段が低いからいいのだろうけど,心拍は低くて72,高いと91~92.30~40代はこんなに高いことはなかったんだけど,やはり歳のせいなんだろうか?

 う~ん,まあ,こういう体調の時もあるってことだろうが,そろそろ倒れた時の緊急対応や周囲の方へのヘルプの出し方など考えなきゃいけないか?って思い知らされる.

 今日午前中,和歌山で急に地震がきて久々にドキッとしたし...

 こういう潮時なのかもしれない...

2021年11月28日日曜日

Burn-out

 2021.11.28

"Why do people  throw away their memories at the end of their journey?

Shadow on train windows are just under heartless over time.

Tears in my eyes, the sound of distant waves are summer investigations of our steps together before.

You know my heart is on the way to breakin' down.

Turn sadness into a song, Goodbye is turned into wind. "

(From "Amour" in BALLAD3 Southern All Stars)


Maybe, I'd like to say so, when I was a worker and administrator at a welfare facility in Tokyo.

But I could't say any words exactly from bottom of my heart then.  


About 20~30 years ago, I was just in the midst of a deeply mentally hurt syndrome, so-called "burnout" as a staff at the facility for Disabled persons.

Now when I'm learning  psychology, especially for the support of people in need, I understood the real symptoms of burnout and meaning of that seriousness.


And so, what shoud I have to do from now on ... !

2021年11月20日土曜日

克己、鼓舞

 2021.11.20

 ある心理学のテキストを読んでいて、すごく気持ちに響く言葉を見つけた.

 これがテキストの一部の文章であることに驚くが、心理学とはそうしたものなのか.

 この言葉を糧に、励みたい.


    自分自身の動機付けに従って、自分の能力を自分のやり方で発揮できる

   環境があるとき、

   人は更にその行動を持続させることができ、動機付けを高めていかれると

   いえる.

2021年11月13日土曜日

浅き夢 淡き恋

 2021.11.13

 瀬戸内寂聴さんが亡くなった.9日午前6時過ぎのことだったらしい.

 数年前,和歌山に来る直前,自分の迷いを聞いてほしくて寂庵の寂聴さん宛に手紙を出したことがあった.

 こちらの勝手な想いを闇雲に綴った一方的なものだったので,返事もいただけなかったが,書いて送っただけで,少し自分がすっきりしたことを覚えている.

 彼女には,「お疲れさまでした」と言葉を添えたくて,これを書こう.

 

 今,私は外界との関係をほぼ断ち,殆どの時間をこの部屋で一人きりで過ごしている.

 通院や止むを得ない用事で下山はするが,買い物なども殆どせず,極力室内で課題に取り組んでいる.有難いことに,知り合いのお弁当屋さんに無理を言い,ほぼ毎日1食届けていただいているので,命は繋がっている.

 「引き籠り」とは違うけれど,でも<孤独の世界>

 全く異質だろうけど,寂聴さんが『作家は孤独な作業』という趣旨の話をされていたことを思い出す.

 

 陽水の「枕詞(まくらことば)」と「結詞(むすびことば)」という歌をご存知だろうか.

 この2つの曲は1つの曲の "another virsion"

 でも,2つは,それぞれ全く異なる趣,世界を醸し出す.

 陽水は,それぞれに深く抱える人の<想い>を,見事に謳いあげる.

 是非,聴いてほしい.

   【枕詞】 浅き夢 淡き恋  遠き道 青き空

        今日をかけめぐるも 立ち止るも  青き,青き空の下の出来事

        浅き夢 淡き恋  遠き道 青き空


          【結詞】 浅き夢 淡き恋  遠き道 青き空

               今日をかけめぐるも 立ち止るも

               青き,青き空の下の出来事

               迷い雲 白き夏  ひとり旅 永き冬

               春を想い出すも 忘れるも

               遠き,遠き道の途中での事

               浅き夢 淡き恋  遠き道 青き空


2021年10月8日金曜日

Today and Tomorrow

2021.10.08

 2ヶ月ぶりの投稿になった.

 久しぶりになったのは,目下,私はあることに専念しているためで,ブログを書く余裕は来年2月までほぼないと思われる.その間は生きている予定ですので,これをたまにご覧になっているかもしれない皆様にはご了承いただきたい. 

 というわけで,最近の高野山の状況を少し記しておきたい.

 この2日ほど,高野山内は「熊の出没」で一騒動起こっている.

 高野山の町内から山間に通じる道の端には,そうでなくても「クマに注意!」などと書かれた標識が立っているが,そうした山間部ではなく,狭い町内に出たのだから大騒ぎだ.

 以前,1ヶ月弱ほど前にも同様の熊出没があったが,今回は町の威嚇作戦(町内全域に何回か爆発音を発する)でも退散しないようで,あちこちで目撃されている.かく言う私も昨日昼前,富貴への給食配達の際,出発して間もなく,上り坂の途中で子熊にバッタリ出会い,ビックリした.

 4~5メートル先から見た子熊は,体長1メートル弱ほどあり,車内運転席から見ているだけなら可愛いものだったが,互いに興奮し接触したら,こっちは大怪我を負うだろうと後になって思った.

 野生の大型動物を,動物園のオリの中ではない普通の道路脇で突然見たので,感覚が少しおかしくなった.出会った瞬間はブレーキをかけ停車した.そして,十数秒見合ったが,このまま止まっているわけにもいかないと,ゆっくり通り過ぎようとしたら,熊は上り坂道路の脇から崖を下って,下の数件続く住宅の方に逃げていった.

 そのままでは良くないので,一応,交番に目撃情報を届けたが,後で「写メでも撮っておけば良かった」などと思いはしても,普段慣れている町中でも突然遭遇すると一瞬冷静判断できなかったので,まして山中でバッタリ出会えば,相当慌てるだろうなと思い直した.

 子熊はまだ町内にいるようで,昨夕もあるお寺の屋根の上で目撃されていた.

 高野町では町内全体放送で注意を呼びかけ,山中に戻るよう対応しているが,これが東京など都心で起こったらすぐさま猟友会などに出動いただき,駆除(射殺?捕獲?)されるんだろうな,と思うと,こうした暮らし方,生き方はイイなと感じる.

 「危険動物」という概念は人間が作ったものだけど,そもそも前から山に住んでいたのはそうした動物を含め彼らなのだから,まさに<共存/共生>ということなのだろう.

 その意味で,高野山入口に掲げられる「生かせ いのち」の文言は,人間だけのものではないのだな,とつくづく考えさせられた.


写真は,山内の知り合いの方が送って下さった,お寺の屋根の上に逃げ込んだ「森のクマさん」(無断でブログに掲載しました.ゴメンナサイ!)

こう見ると,結構大きそうでしょ.でも,私が見た熊と同一だったら,体長は1m弱なのだ... 熊は屋根にも登れる...



2021年8月14日土曜日

五輪はこれでいいの?

2021.08.14

先月、五輪・パラ大会開催について、思い余って購読している新聞朝刊の読者投稿欄に投書したことがあった。それは無事採用されずに?「投書した」という自己満足に終わったが、今朝の朝刊の下記記事を読んで、やはり思いを抑えられずに再び投書した。

投書内容は以下である。

 昨日の朝刊記事『スケボー「新たな世界」開く』を読んだ。コロナ禍での五輪開催の是非は一旦置いて、冒頭の女性柔道選手の自責振りなど読むと、五輪のあり方に大いに疑問がある。即ち、各種競技を熾烈に行い、結果として1~3位の順位を決め優劣を競うやり方が何故必要なのか。
 それは五輪誕生期から同様らしいが、今や国別対抗や国威発揚などの手段となり、他国のどの相手にも勝ることが五輪出場の絶対目的化している。相手に僅かでも勝った結果をメダルで差別化するその「栄誉方式」は、何とも人間の闘争本能だけが美化されているようで心にしこりが残る。
 そうではなく、各種目に鍛錬を重ね出場した選手が、自分の運動能力や種目技術、精神力・勇気などの発揮に挑み、その優秀さを世界中が讃え合う方法で実施したらどうだろう。それは、相手に勝ることではなく、最高記録に勝ることを目的とした競技のあり方だが、それを称賛し合う人の質が大切ではないか。若きスケボーアスリートたちは、それを素直に示してくれた。有難う。



書いたことは以上だが、漠然とテレビ画面に映る各選手たちの競技振りを見ていて、自然に日本選手を応援している自分に気付きはするものの、優勝した選手はともかく、破れた(=決勝で金メダルを取れなかった、予選などで敗退したなど)選手たちの映像を見るのは正直辛かった。
それは、競技後力尽きて独り静かに振り返る時間に浸っていたい時、あたかも無理やりコメントを聞き出すかのようにマイクの前に立たされ、それも判で押したように『開催できるかどうか分からない中で、この困難な大会を何とか開催していただいた関係者の皆様に心から感謝します』と声を震わせながら言っている<負けた>選手たちの心情を慮ると、私自身も針のむしろの気分だった。

金メダリストは、五輪種目の各競技最終時に<優勝(1位)>すればなれるが、それは各種目の世界水準(=世界記録)を更新することとは必ずしもイコールではない。
例えば、私が小学校5年生(1964年)の時に開催された東京五輪の陸上100m走では、アメリカ合衆国の選手が10秒06というタイム(世界タイ記録)で優勝した。しかし、その前の準決勝で、同選手は9秒9の記録を出したが追い風であったため公認されなかった。
そして、世界で初めて10秒を破る記録が公認されたのは、1968年のメキシコ五輪でアメリカ選手が9秒95を出した時であった。以後、100m走の世界記録は1989年に9秒8台が、1997年には9秒7台が、2006年にやっと9秒6台が出て、遂にあのウサイン・ボルトが2008年に9秒58の記録を出した。以後、13年以上経ってもそれを破る記録は出ていない。世界記録を出すというのは、それほど並大抵のことではない。

故に、五輪で優勝(=金メダル)でなくても、世界記録を出すことで競い合うのであれば、それはそれはスゴイことだと思う。
そうではない五輪での熾烈なメダル争いや優劣付けは、何の意味があるのだろうか?
優勝者はいいとして、その影で、SNSなどでの優勝できなかった各選手への誹謗中傷を始め、それまでの労苦を労う話題など全く起こらない世間の冷たい目線は、やはりこうした<優勝絶対化>が至上命題とされる五輪のあり方から生まれてくるのではなかろうか。

こうしたことを考えれば、ボンヤリと五輪競技を眺め、ただ優勝できたかできなかったかに一喜一憂している自分の愚かさは、きちんと反省されるべきだと思い知る。
今回の五輪は、そんな重たいお土産を残していってくれた。

2021年7月2日金曜日

命の値段

 2021.07.02

今日もまた、高野から富貴への路を辿った。

いつも通りに食事を届け、空いた食缶を受取り帰途に着く。

そして、高野の手前数キロの地点を登り続けている時、切立つ斜面を一面に覆っている擁壁に大きな亀裂を見つけた。

その擁壁は、岩肌などの凹凸に沿って金属メッシュを全面に張付け、規定量の砂にプレミックスセメントを投入する「吹付け工法」と言われるもの(和光コンクリート工業k.k記事を参照)のようだが、その擁壁の地上から2.5~3mほど高い所に、1m程の大きな亀裂が走り、中の地盤が見えている。

その時はまだ配送車で高野町に戻る途中だったので、町に戻る時間を測りながら通り過ぎた。そして、センターに戻りその旨報告し、勤務終了と共にその地点に戻り、この写真を撮った。

折からの雨で、この亀裂内部で土塁が膨張し、一気に亀裂を押し破るようなことがあれば擁壁は路面に向けて破裂散在する。それによる大事故など起こらぬようにと、急いで高野町の交番に状況を報告した。

交番に詰めていた数名の警官は、私が写した複数のスマホ写真や、カーナビにマークした地点を何度か確かめ、「然るべき所管に報告します」と答えてくれた。

やれやれと思い、自室に戻って2時間ほどすると、先程の交番の警官から電話があり、以下を報告された。

①当該斜面を管理監督する所管は県の○○局で、早速当該箇所に確認に行ってくれた。

②その箇所はかねてから損壊していることを所管も把握しており、以前と比べて損壊はさほど変わっていないらしい。

③また、損壊している箇所は県内に幾つもあり、当面、当該箇所を補修する予算措置は取れない、との返答であった。


この回答を聞き、私は「財政事情が厳しい地方では、山林管理や環境保全の費用も十分取れないから仕方ないな」と納得しそうになったが、「まてよ、これが東京や首都圏周辺であったら絶対同じようにはならない」と思い直した。

私が知っている東京都の各所管は、仮に当該補修に予算措置が厳しいとしても、それを補修しないことで起こり得る人身事故、特に生死に係る重大事故が発生すると予想されれば、その損害賠償に1つも2つも桁が違う金が動かざるを得ないことを充分承知している。

そうなれば、今のうちに「ない金」を引っ張ってきて、「住民から指摘があった損壊箇所を補修する」方が得策であると考える行政マンが殆どであると予測される。

それは、多くの企業が集合し人の堝である首都圏の行政が、各種の住民交渉や訴訟から学んだ<知恵>なのかもしれないが、目先の予算措置では考えないリスクマネージメントが働いているのは確かだろう。

対して、地方の行政は「ない袖は振れない」ということだろうが、先の擁壁工法を参照した企業の記事によれば、同工法による「補強擁壁工事」は1㎡当たり1~1.3万円で済むらしい。勿論、この面積費用だけで損壊箇所の補修が済むとは思えないが、仮に数百万円かかったとしても、人命が失われれば、どう考えても「死亡慰謝料」だけで最低2,000万円は下らない。

こうした金の損得勘定で、<人身事故が見通せる>補修工事の要否を論じることは不謹慎に相違ないが、では、目先の予算措置が取れないことを理由に、<起こり得る重大事故>に目を瞑っていて良いのだろうか? それとも、殆ど車の交通量がない地域だから、滅多に事故など起こらない、とでも考えているのであろうか。

仮に、高野~富貴路の損壊箇所と同様のものが東京郊外にあるとすれば、そこを通る東京郊外の「人や車の割合」と、高野~富貴路のその割合は、比較にならないほど違うのは確かだ。その比率を、「東京郊外100」対「高野~富貴路1」であるとしたら、では高野~富貴路で事故が起こる確率は、東京郊外の「1/100」と言えるだろうか。

答えは明らかにNoである。

事故が起こる確率を、目下ある人流や物流の割合から推し量ることはほぼ不可能で、それこそ、日本中のあらゆる専門家が様々な優れた検証を行っても尚、あの「東日本大震災」を予測できなかった所以でもある。<事故>の発生とは、人智の及ぶところではないからだ。


そんなことを今日の斜面亀裂から考えていると、そういえば、つい4日前、千葉県八街市で通学路にトラックが突っ込み、小学児童2名が死亡、他数名が負傷する事故が起きた。

運転していた者からは基準値以上のアルコールが検出されたというが、事故現場となった市道はセンターラインも歩道もない上に、速度規制の標識もなかったとのこと。そのため、以前から付近住民は不安を募らせ、テレビでは4年程前から何らかの対策を取るよう市に求めていたと報じた。

これに対して、ニュース画面に映った同市長のコメントは、「付近住民からの要望もあり、市も事故現場を危険箇所として認識していたが、市の財政事情は厳しく、対策の予算措置は今も取れない」というものであった。

この報道を見て、私は「それはウソだよね!」と強く思った。

上述の東京都ではないが、斜面亀裂であろうが市道の交通危険箇所であろうが、人命が脅かされる危険性のある要因への対処は、何にも増して優先されるべきである。

行政の立場に立って考えても、後に起こり得る人命損失の賠償対価を思えば、発災前に数百万の補修費を捻出するほうがよっぽど合理的だと考えるリスクマネージメントは、今の時代によりフィットしている。

また、通常の県や市レベルの財政管理団体であれば、数百万円規模の予算は某かの他予算を補正すれば持ってこれるはずである。むしろ、それを可能にできなければ、当該行政の経営能力は低いということになる。

そのため、『危険回避の予算措置を講じる財源猶予がない』などの釈明は、私に言わせれば自らの自治管理能力の低さを露呈しているようなものである。

賠償対価と補修費用を天秤にかけるリスクマネージメントは、<命の値段>を計っているようで何ともイヤラシイが、それでも自治体管理に要する財源配分を検討すべき立場であれば、こうした判断もあって不思議ではない。


但し、元より、人の<命の値段>を計ることなど、誰にもできない。

危険箇所の補修や整備が、市民、町民の人身保全に必須であるという<認識>は、言い換えれば、"人の命は何ものにも代え難い"という<道理>を、自治体管理のトップがきちんと理解しているか否かの試練といえる

それは、残念ながら、今の時代に一番失われつつあり、経済合理性を優先させてきた現代資本主義社会の<ツケ>に相違ない。

何れにせよ、損得勘定で計るリスクマネジメントでは最後は通用しなくなることは明らかだが、それでも、そのリスクマネジメントにも及ばない行政感覚では、市民、町民の生活リスクは如何ともし難い。


そんなことなどつらつら考えさせられる出来事だったが、あの高野~富貴路の斜面亀裂を思えば、この梅雨の最後の大雨で崩壊し、人身事故など招くような惨事にならなければと願う。

亀裂崩壊すれば、何より私の富貴への給食配達ができなくなり悲しい。

高野町に生まれ住む人々に対して、新参者の私が言うのは無礼に違いないが、お山の傷はすぐ労っていただきたい。それこそ、高野が守るべきアイデンティティー>ではないだろうか。


P.S. これを書き上げ一眠りしていた深夜3:00過ぎ、強い雨脚の音で目が覚めた。

思わず窓のカーテンを開け、外の降りを確かめたが、結構な雨脚は30,40分経ってもまだ続いている。私の不安が杞憂に過ぎないことを祈るばかりだ。


2021年7月1日木曜日

天上天下

 2021.07.01

曇天の空幕の下、今日も高野から富貴へ。

867メートルの天界から550メートルの山間へ下り落ちる路は、クネクネと幾重にも曲がり、今日のようにどこまでも厚い雲が山塊を包むと、それらを繋ぐ谷間からは白煙のように霧が立ち籠める。

今朝からの強い雨は、山路に切立つ斜面の数カ所に岩清水を吹かせ、その水は僅かな小川のように坂路を流れ落ちる。

やがて水は「丹生」と呼ばれる川に流れ落ち、川は土を飲み込み茶の濁流となって、飛沫を上げる。

雨で脆くなった岩壁は路のあちこちに尖った石片を転がせ、車は時速40キロを超えて下り落ちながらも、それらを避けながら進まないと危うい。

ただ、山肌に繁茂する苔は新たな翠を蓄え、山上から滴る水を得て生き生きと映える。

木々の緑の上には新たな翠がそれに負けじと芽吹き、また濃い緑界を重ねていく。

その路の途中で、小さな鳥が車の行く手を遮るように突然横切ると、また路面を舐めるように車の前に飛び込んできて、スイスイと、小さなジャンプを繰り返しながら路を先導する。

それは、まるで路先案内をするかのように何時までも何十メートルも飛び、やがて諦めたように進路を逸れる。

この路を通いだして既に半年が過ぎるが、何時通っても新鮮だ。


聞けば、昔から高野山と富貴の間には何某かの確執があるようで、中々関係が回復されないとのこと。しかし、そんなことには関わりなく、高野と富貴の山は何時も私を包んでくれる。きっと、お山は『愚かな人間どもめ』と嘲笑っているだろう。

お山は深い。

そのお山の懐に抱かれ、蝋燭が消えるように果てられたら...いいだろうが、篠田桃紅さんの境地には中々届かず、独りでいることが試される。

それでも、明日も高野と富貴を通おう。

お山はいつも私を迎えてくれる。

2021年5月26日水曜日

昔日

 2021.05.26

このブログは、私の中でこれを見ていただく方を対象に、表現してきたところがある。というより、その割合のほうが大きいかもしれない。

昨日、ブログを書き始めて、「これでは読む方が文章の脈絡を取れないな」と感じ、それを消した。でも、それも、今、書き留めておきたいと思って書き始めたものではなかったか。

それを消してしまったのは、無意味だと思い直した。

これは、自分の<心象の記録>なんだから。

自分の意識の中に在る事象の記録ならば、文脈がどうの、話の繋がりがどうのと考える必要はない。だって、記録なんだ。メモと言ってもいい。その断片の連続の記録。

そう、それでいい。


今、読んでいる本が数冊ある。同時並行でそれらを読みつつ、<面白い>と感じる本がある。

篠田桃紅という、書家というか「美術家、墨を用いた抽象表現主義者」と著者紹介にある方で、今年3月、107歳で亡くなった。その方の書いた本が数冊あるが、内、2冊を求め読んでいる。


107歳の含蓄。

言いようがない、というより、言葉を尽くしても彼女を表現するには価しない。

でも、彼女が生きる上で最も大事にしたかったこと。それは<自由>。

107年の生の最後に、そこに行きついている。 凄い。

『今の私は、自分の意に染まないことはしないようにしています。無理はしません』

『自由という熟語は、自らに由(よ)ると書きますが、私は自らに由って生きていると実感しています。自らに由っていますから、孤独で寂しいという思いはありません。むしろ、気楽で平和です』

『自由というのは、気儘にやりたい放題にすることではなく、自分というものを立てて、自分の責任で自分を生かしていくこと。(中略)自分の行動を責任持って考え、自分でやる。それが自由で、だから自らに由る(=因る、依る)という字を書く』

『芥川龍之介が「運命は性格の中にある」という言葉を残しているけど、本当にその通り。子どもの頃から、何でも自分でやりたがった性格が、私の運命を作ってきたのだと思いますね』

この部分だけでは彼女の正体(実質)はわからないだろうけど、<何事にも拠らない>という精神の表れを、<自らに由る>と表現できる。すごい。

それが、「1956年に単身渡米し、ニューヨークの一流ギャラリーで作品発表を続け、世界的な評価を得」ながら、国内外の一切の賞や章を断り続け、生涯を独り身で自分を貫き通してきた人の生き様だ。


私は、1996年半ばに、神奈川のある障がい者の入所施設に勤めた。

1階は私が担当した身体障がいの方が、2階は知的障がいの方が暮らす複合施設で、専ら1階でしか仕事をしなかったが、時折用事や会議で2階に上がると、そこにいる利用者の方と出会った。

当時、知的障がいの状態判定は、公設の更生相談機関で行われた。

身体障がいの状態判定もそこで行われたが、知的障がいの判定には、専門の「知能レベル判定ツール」があり、それで一定の検査後、判定医による当事者面接があった。その際、当事者の反応によっては「話の脈絡がつかない」とか「適正反応がない」或いは「言語・発語がない」などの理由から、判定医がその当事者を「知的な遅滞もある」などと判断することも昔はままあった。

そのため、「知的障害」と判定されていても、日常生活上の判断に何らの支障もない方は当然いらっしゃり、よくお話もした。

彼女は、そうした2階の利用者で、Yさんと言った。

ある時、私が何かの用事で2階の公共スペースの廊下を通っている時、彼女は向こうから電動車いすでやってきた。彼女はスズキの初期の、重く大型の電動車いすに乗っていた。

大柄で「水頭症」、かつ歩行困難な彼女はそれに乗って移動する。

上体は大柄で下肢が脆弱、筋力が余りなさそうな彼女は、車いすを操作する時、上体を屈め頭は座った膝の近くまで下がり、「コントロールボックス(操作レバーの付いた箱)」にしがみつくように乗っていた。

その姿は私から見てもすごく窮屈そうで、私はつい、『Yさん、その姿勢じゃ頭落っこちゃうヨ』と、(車いすから身体がズリ落ちそうだよという)軽い声かけのつもりで、そう言った。

そう言われた彼女は、すぐ頭をきっと上げ、『アタマなんか、落っこちませんヨ!!』とキツい表情で私を睨み、そう言った。いつも私には比較的穏やかに接してくれる彼女に、私はそう言われた。

その時、私はハッとした。そうだ! 彼女は水頭症だ。しまった!

「水頭症」とは、脳内脊髄液が適正に循環されず、頭蓋骨内に滞留し大脳を圧迫してしまう疾患で、結果的に様々な障がいが起こることがあった。それには、シャントと呼ばれる体内留置管で他の体腔内に脊髄液を流す処置などをして対処されるが、外見上は頭蓋骨が多少大きくなる傾向がある。彼女も、そうであった。

その彼女に、私は無配慮に『頭が落っこちる』と言ってしまった。

彼女にしてみれば、一番言われたくない言葉であったろう。その言葉を、私は言ってしまった。

もう、取り返しがつかなかった。

彼女に睨まれ、それに気が付いた瞬間、私は反射的に彼女に謝った。

彼女の車いすのすぐ横に跪き、彼女の顔を横に見つめながら、『ごめんなさい...』と二、三度繰り返し謝った。でも、それは許しを請えることでないことは、はっきり分かっていた。

それでも、私には謝ることしかできなかった。

そうしていると、私は涙を堪えきれなくなった。そして、泣きながら彼女に謝った。その後は、彼女の足元で『申し訳ない』と、ただ泣くしかなかった。

その様子を見ていた彼女は、暫くしてから『もう、いいですよ』と、ほぼいつも通りに近い彼女に戻り、言ってくれた。

それは、私の経験の中で、今、思い返しても心が痛くなる<痛烈な失敗>の一つだ。


そんなことをふと思い出すと、その彼女だけでなく、あの当時、日々接し介護や支援をしながらやりとりした多くの利用者、ストレッチャータイプに乗っていたNさんや大柄でいつも笑っているUさん、全身性エリテマトーデスのOさん、筋ジスのケンさんなど、何人もの利用者の顔を思い出す。

もう、天国に行った人もいるけど、皆んな、あの世でもこの世でも、元気でいるだろうか。


最近の自分を見ていると、こういう過去の経験を思い出すことや、<見えないはずのもの>が見えるなど、10年を待たずにそろそろヤバイのかな...と思えることがある。

その怖れが僅かにあるのであれば、もう少し、準備期間がほしい。精一杯やりたいことも、まだある。

でも、当人の想いとは別に、<そんなことはお構いなしに突然来る>ということなんでしょ、桃紅さん。

だから、<やれるところまでやろう>とだけは言える...。



2021年5月24日月曜日

今日

 2021.05.24

今日の富貴への配達時、いつも見慣れた道筋に、何回か、普段は見ない<急に動くもの>が見えた。それは、40~50m先のガードレールの付近をサアッと通り過ぎていき、最初は車が来るのかな?と思い、出会い頭に気を付けなくちゃと思いなが進んでも、一向にその姿はない。

おかしいナと思いながら進んで、また少しすると、同じようなことが先の30~40m付近で起こる。

それを3~4回繰り返すと、「何かがいる」と感じた。それもお山の<何か>が、である。「そういう時もあるのだな」と思い直し、今日は往復した。


ちょっと必要があって、昔の資料が入ったダンボール箱を夜ひっくり返した。

すると、昔インドに行った時の写真が山ほど出てきて、とても懐かしく眺めた。

カルカッタは勿論、マナリ、レー(チベット)などの光景や、ビザ延長のため一時出国したネパールでの写真などもたくさん出てきて、あの時の時間にタイムスリップしたようだった。

そこで共に時間を過ごしたり、すれ違ったりした多くの人達の顔や姿も写っていて、今どうしているのだろうと、少しの間、想いに浸った。


過去の時間は取り戻せない。

あの頃がすごく思い出されても、もう、戻れない。

そんな、少し普段と違う今日を過ごし、<何か>が変わるらしいことを感じる。自分が気付かない<何か>が、変わりつつある(らしい)。

そうした今夜、何度か中断し諦めていたある課題に再挑戦しようと、思い直した。

それを、明日から始めようと決め、今夜はその準備をした。

私を通り過ぎた<過去>は、取り戻すためにあるのじゃなくて、<迷っている今>を導いたもの。そう思えば、<今>を悔いないように過ごさなきゃ、また未来の<悔い>を産み出すことになる。その<分かりきった自明>を、もう何十年も繰り返してきた。

精一杯(という表現しかできないけど)、やってみるしか、ないか。

普段と違う<何か>を背負った今日は、間もなく閉じることに、しよう。


2021年5月12日水曜日

!

2021.05.12

<世界>が開けた!

新しい<世界>が開いた。

自分がこれまで68年間で挑めなかった、新しい<関係>を、これからどう作り出していけるのか。これまで、営む勇気も、知恵もなかったから...。

でも、<何か>を拓かなければ...!

2021年5月11日火曜日

「氷の世界」

2021.0511

昨夜は泣けなかった。

燃え尽きた自分がいた。かなりのエネルギーと精一杯の気持ちを込めて過ごした、この2週間だった。

昨日は、尽きたエネルギーが僅かでも自分を埋めることもできず、ただ、死んでいた。

それが、今日は泣ける。泣いて、泣いて、そして涙は流れるが、ふと我に返り、涙を止める。

そんな出来事が、この2週間の内にあった。


私は1972年、都内のミッション系の某(三流?)大学に入り、そこで出会った車いすの聴講生(脳性麻痺の男性)の介助をしていた。そのきっかけは、聴講生の学内生活の介助をしていた私の友人がある時急に介助の都合が悪くなり、「どうしても頼む!」と言われピンチヒッターを務めたことだった。

聴講生が受ける授業の教室に彼を連れていき、お昼には学内唯一の学食に彼を連れて行き、食事介助をした。しかし、その学食の入口には数段の階段があったので、車いすを彼に教えられるまま力づくで引き上げたりして、介助した。

車いす聴講生を受けながら、学内にスロープ1つなく、エレベーターがある建物も1つしかなく、彼にとっては移動1つとっても介助なしにはいられなかった。そのため、介助する学生たちは大学当局に「せめて学食入口にだけでもスロープを作って」と請願したが叶わず。

それは、後に介助者を中心とする学生数人が「スロープを創ろう会」という集まりを自主的に作り、最後は大学の夏季休業中に勝手にスロープを作る工事を始めて、学内処分の対象になるなどの結末になった。しかし、そうした彼への介助が、以後、40~50年に亘る私の人生を決めてしまった。


ピンチヒッターが続いたある日、私は初めて彼と学食に行き、彼の注文を聞いて、自分が食べるもののチケットも買い、用意できた食事を彼が待つテーブルに持っていった。そして、彼の注文品を彼の前に置き、私は「いただきま~す」と言い食べ始めた。そして、少し経ち彼を見ると、彼はそのままじっとしていた。

『あれっ? どうしたの?』と、食事に手を付けていない彼を見て、私は言った。

すると、彼は『あの~、自分じゃ食べられないんだ...』と答えた。『えっ!そうなの?』と答えた私は、食事を彼の口に運ぶ必要があるまでは分かったが、どうしてよいか皆目分からない。

『あの~、どうしたらいいの?』と、彼に彼が食事を食べるには私がどうしたらいいかを聞いた。『あの~、じゃ、最初にカレーライス(彼の注文品)とご飯をスプーンで半分くらいすくって、口に入れて』と彼は言った。

『あの、カレーって、ご飯と混ぜて一緒にしていいの?』と私。

『いや、混ぜなくて、ご飯すくった後、カレーをスプーンの先に付けて...』と彼。

それが終わった後、することを聞くと『福神漬を1つ2つスプーンにすくいちょうだい...』

こうして、私は彼の口にスプーンを運び終わる毎に、『次はどうする?』って彼にやり方の全てを聞き、彼が言う通りの食べ方で(介助を)行った。


彼は、それから確か1~2ヶ月後、私の6畳のアパートに転がり込んできて、私と彼との華麗な?同居生活が始まった。その生活は、程なく友人たちも巻き込み、私の部屋の空いた隣室や近くのアパートに皆が移り、彼への24時間の介助生活を行った。

その間には、今から48,49年前に車いすに座ったまま東京都営バスに毎日のように乗った私達に、東京都からの圧力もあった。それは、『都バスの運営規程に則り、車いすの方は車いすを畳み、座席に座っていただかないと乗車できません』というものだった。

『そんな、彼は通路に前向きに、車いすに乗ったままいるのが一番安定して安全なんです』と訴えても『他のお客さんにも迷惑がかかるから...』と運転手は繰り返した。

私はバス内の乗客に『皆さん、運転手さんは「迷惑がかかる」と言ってますが、ご迷惑でしょうか? 彼はこのまま乗ったほうが一番安定するんです!』と訴えると、『いいよ、いいよ、そのまま乗れよ』などとお客さんが言って下さるなどもあった。しかし、その内、東京都の都営バス所轄部署から、『今の(車いすにのったままの)バス乗車を止めないと訴えます!』と恫喝?され、『そんなこと、できるものならやってみろ!』とケツをまくった。

そうは言ったもののそのバス乗車は翌日から止め、ほとぼりが冷めるまで、彼の車いすを長い時間押して通学したなどもあった。

また、ある時は彼と通った銭湯で、これから入ろうと彼の服を脱がせていると、『こんなヤツ、ここに連れてくるんじゃねえ!』と、背中に花柄の墨の絵が入った強面のお兄さんに凄まれ、『そ、それって、どういうことだ!』と、腹の底から勇気を振り絞り立ち向かったこともあった。その時は、強面のお兄さんが何となく引き下がってくれたから事なきを得たが、彼との共同生活では、それこそ色々なことがあった。


後日、彼に『何故、俺の部屋に転がり込んで、一緒に生活しようと思ったんだ?』と聞くと、『俺の介助をしてくれる人は大勢いたけれど、あの食事介助で、1つずつを俺に確かめ介助してくれたのはN君(私のこと)しかいなかった。それは、俺にとって、すごく大事なことだったんだ』と彼は言った。

「そうだったんだ...」 私は、この経験で、<介助をすることの意味>を教えられた。

少しボランティアに慣れると、多くの人がそれまでの経験から、<要介助者の口に運ぶ食事の順番や運ぶ量などを、介助者の判断で決める>ことが多い。これが「介助~非介助」の当たり前の暗黙のルール。

「それはおかしいでしょ?」 その当たり前の疑問に従い、私はこの40~50年の多くを、要介助の障害当事者たちと過ごした。


その当時、巷でよく流行り、私達も毎日のように聞いた井上陽水の「氷の世界」を含むアルバムを、今、聞いている。あの当時、あれだけのエネルギーとパトスを注ぎ、燃え尽きそうなほど燃えた時代が私にもあった。

それがザアー!と、ここでフラッシュバックする。

陽水は、今、その時代を呼び起こし、48年後の、<私>を揺さぶっている。

私のこの68年は何だったんだろう。そんなことすら、揺さぶられる。


この悲しみに、耐えたい......


2021年5月3日月曜日

「遺言プロローグ」

2021.05.03

 既に0時を回ったので、今は5月3日。

 連休に入ったばかりではあるが、私は相変わらずStay Homeを保持して、部屋で腐っている。

 でも、この数日、私にはかなり大きな変化があった。その内容をこのブログで書くには少々恥ずかしいので、またの機会に譲る。

 標題の「遺言プロローグ」とは、その出来事の相手になる方にも送ったが、私が過去40年余過ごした東京・神奈川の、未だに連絡を下さる数少ない友人たち宛にこの2月末に送った 、私の半生ともいうべき<想い>を綴った私文である。

 その中では、近況になる私の職場や暮らしの中での出来事、大いに遡って30年以上も前になる稀有な経験などを通して率直に感じてきた<想い>を綴った。

 その中身を書くには、こういうブログって、多くの未知の方に公開される恐れがあるので控えるが、今後も生きている限り、「遺言プロローグ」は書き続けようと思っている。


 私は正直、自分のリミットは後10年と思っている。

 その10年で何ができるか、そう考えるとかなり10年は短い。

 そうであれば、あまり時間を無駄にできない。<やれそうなことは精一杯、今、やる> これが最近の私のポリシーである。

 その「遺言プロローグ」の序文にも書いたが、私の母親は一昨年年末を待たずに逝き、すぐ上の姉も10年前に60歳で逝った。2人とも消化器系のガンだった。

 自分のこれまでの経験から、人の<死>は散々見てきた。

 その息を引き取るすぐ側で看取った人も、1人や2人ではない。最期までさぞ無念だったろうと思える人、「もう精一杯やったよね。本当にお疲れさま...」と声をかけ見送った人、誰が居なくても私が看ているよ、と寂しく送った人...。人の死は様々だ。


 私は小学校1年生の1月1日、長野県長野市の市内で、正月で酒に酔った人が運転するバイクの後部席に乗せられ、停車しているバスにそのまま突っ込み、大事故に遭った。

 その時、何故か私は私の身体を離れ、道路の電柱よりもっと高い所から、事故で倒れているバイクや運転していた人、何より自分自身が見えた。そして、その車道脇に続く歩道上から、正月に行き交う多くの人が、殆ど自分の口に手を当て血相を変えて、事故の惨劇を見守っている表情がリアルに見えた。

 それは、きっと「人」が言う「幽体離脱」というものだったのだろうと後になって分かったが、私には衝撃的な経験で、その時、私は子供心に「あ~、これがいつもお母さんが口酸っぱく『車には気を付けなさい』と言ってた「交通事故」っていうヤツなんだ」と、妙に現実的なことを思ったことまで覚えている。

 その事故後、私は救急搬送された「日本赤十字病院長野支部病院?」で、奇しくも新年会?で集まっていた県下の数名の名医?たちによって、『正月早々、事故起こすなんてメデタイ子供もいたもんダ!』と、寄ってたかって「俺にもやらせろ、俺にもやらせろ」と皆で手術され、無事にオペが終わったと聞いた。

 そのせいか、私の骨折した左足は、その後、高校時代には長距離走の選手として県の競技大会にも出られるほど回復した。確かに事故後、僅か6歳にしてほぼ1年弱も家を離れ、入院しなければならなかったことや、退院後、ギブスで凍りついた左足の屈伸を回復するため、今の時代のリハよろしく、マッサージの方に毎日のように炬燵に腹ばいになった後ろから、泣きながら曲げ伸ばしされたことは、苦い思い出としてよく覚えている。

 でも、その時の<自分を上から見た経験>は、私の中で決して風化しない。今でもほぼ鮮明に蘇る。「あれは、一体なんだったんだろう?」

 そう繰り返すことは何度もあったが、今はもうその現象自体の原因は考えないことにしている。だって、見たものは<見た>としか言いようがないからだ。

 でも、それが、私が<この世>と<別の世界>を微妙に感じる、最初の<入口>になったのかもしれない。その自分の6歳の<経験>が、私をこの<人を相手にする世界>に招いたのかもしれない。

 そんな<不思議>を思うと、今こうして<いる>こと自体が、私にはとても摩訶不思議なことに思える。そして有り難い。

 それを感じられる<齢>に、ようやくなったのかもしれない。

 68歳、あと10年...。

2021年4月28日水曜日

<原点>

2021.0428

 この4月の半ば以降に、神奈川の友人2人からそれぞれ連絡があった。

 1人は一昨日のブログにも書いた、神奈川県某市にある障害者支援施設のナース。

 その施設は、旧名称で「身体障害者療護施設」という種別で、重症心身障害児者の施設を除けば、障がい系施設の中で唯一「診療所(入院病床を併設しない、または19床以下の診療機関)」を併設する施設である。

 そこは医者の常駐こそないが、医師と看護師数名を抱える診療所が併設された、常時介護を必要とする身体障がいや難病のある利用者をケアする入所施設である。とかく医療職と介護職の対立が起こりがちな施設の中で、施設ナースとして次第に数多くの介護職と強力な連携を組んで、しっかり役目を果たしてくれた。

 ご本人は当時、馬主でもある(今もそうかな?)乗馬好きで、中々の切れ者、ハキハキした口調で鋭く意見する姿は小気味よく、カッコよかった。現在は私が勤めていた施設の隣市の同種施設でナースをしているとのこと。

 ただ、彼女が私に連絡してきた理由は、一昨日私がブログに書いたような「事情を心得た裏技」を聞きたかったなどという不心得なものではなく、彼女が送ってくれたメッセージには『Nさん(私のこと)から福祉的なものの見方を教わって、その後のナース人生でどれだけ助けになったか』というを文面を拝見すると、真摯に施設への外部医療導入のあり方を考えたいという、彼女の真面目さからであったことが分かり、一人赤面した。


 もう1人は、やはり同施設で介護職として働いていた人である。彼女は外見上も魅力的な女性だが、その表面だけに見とれ迫ってくる男が多い中で、しっかりいい旦那を捕まえた、根は極めて真面目な人である。

 その人とは、実はコロナ禍が起こる前に高野山で会おうという約束があったのだが、次第に状況が悪化したため、今も予定は保留中だ。その彼女が先日くれたメールの中で、『私はあの時期にあの年齢で、S施設でNさん(私のこと)の元で働けたことはとても幸せな期間だったと今でも思っている』との言葉をいただいた。

 自慢話に聞こえたら恐縮だが、昔の仲間である2人から、最高の褒め言葉を同時期にいただいたことは、偶然なのだろうかと思ってしまう。きっと、この歳になってもまだ迷っている私に、神様が<もう少しガンバレ>と送ってくれたラブレターに違いない。

 何れにせよ、この予想外の嬉しい出来事2つは、自分を<自分の原点>に立ち戻らせる。

 2人が褒めてくれたように、人の暮らしや命を支える<人が放つ技>のあり方は、時代がどれほど移っても、福祉でも医療でも、基本は変わらないはずだ。

 この<原点>にもう一度帰り、何をすべきか、改めて考えてみよう...。

2021年4月26日月曜日

今日、という日

 2021.04.26

[注] 前回分ブログは実際は4.01の記述であったが、公開日が今日であったため、前々回4.11ブログの後に公開されてしまった。本来の順序が狂ってしまったが、訂正する方法が分からないので、その旨御理解の上ご覧下さい。


 今日は、私にとって転換の日となった。

 1つは、この1ヶ月悩みに悩んだ末の結論を出したこと。

 2つは、私の嘆きにすぐ呼応して、慰めにわざわざ来ていただいたご家族とその友人ご家族。

 3つ目は、数年振りの突然の電話(前回もそうだった)があったこと。


 1つ目の出来事は、「やはり自分は馴染めない」と腹の底が言っていると自覚した時、今月就いたばかりの職を辞する結論を出した。

 後5~10年スパンで向き合うべき質が職場にあり、その10年に自分が本当に向き合えるのかと自問した時、申し訳ないが、私に残された時間の限界までその仕事に費やす決意がつかなかった。そのため、非礼を承知で、本午前、辞職願を本部に郵送した。

 勿論、それまでには経営者に2,3度メールで訴え、またいただいた電話でも長々と話をしたが、経営者との意識のズレは修正できなかった。

 2つ目は、そうせざるを得なかった自分の情けなさに耐えきれず、親しくしていただいているご家族にLINEして自分の情けなさをついぼやいてしまった。それに直ちに返信をよこして下さり、少しやりとりした。

 そのLINEに添付されたご家族のお子さん(こども園園児)の写真を見ていると、気持ちの揺れは大分治まってきた。こども園では色々ありやはり悩んだ末に辞めたのだが、在職中に出会った何人もの子どもたちにどれだけ自分が救われていたか、今回のことでもよく分かった。ありがとう...。

 しかも、私が仕事を終え住宅に戻ると、階下の友人ご家族共々顔を見せて下さり、お子さんたちの笑顔で私は慰められた。この親身さは、今までの暮らしの中でも殆ど経験したことがない。人への<優しさ>って、こういうことなのだろうか...と、何かが揺さぶられる。

 3つ目は、以前勤めた神奈川の障害者支援施設で職員として働いてもらっていたナースから突然電話があったこと。内容は、「診療所併設の同施設入所者に訪問看護を導入することは可能なのか」というもの。この辺りの疑問は、確かに微妙な判断が必要で、医療サイドからすると「診療報酬」が請求できるか否かの境界になる問題であり、彼女は施設運営の裏技を知っている中村に尋ねようと発想したのだろう。

 私はその施設を辞めて既に17年も経つのに、携帯番号を変えていないからだろうが、昨日まで話をしていたかの感じで電話してきた彼女の変わりなさには脱帽である。なんとも不思議なご縁である。


 そんなこんながあった今日。

 ここにいることが不思議であり、ここで生きていられることも不思議な感じがする。

 それに、ちょっとつまずけば『大丈夫?』と声をかけて下さる方がすぐ側におられることも、私には有り難く、不思議な世界。これが<高野山>か!

一度の別れと新たな出会い

 2021.04.01

 昨日、高野山にある某保育施設で最後の勤めを終えた。

 その最後の送迎バスの添乗が終わった時、バスの終点で待っていて下さったある保護者の方から、「子どもたちのワクワクドキドキが一杯の毎日を作って下さり...いつも笑顔で暖かく迎えてくれ...子どもたちと一緒に精一杯元気に遊んでくれ...その姿はもう一人のおじい…お父さんのようで、子供達や親に安心感と笑顔を与える存在でした。その愛情に感謝を込めて...」という有り難いお言葉を手書きされた「感謝状」をいただいた。

 その親御さんは、私が2年前に保育補助で一時就いた3歳児クラスから在籍している園児のお母さんで、その園児は私がその施設で一番馴染みがあるクラスの子どもたちの一人だった。

 その園では午後3時前に職員も一緒におやつをいただくが、ある夏の日、1人の園児から『先生が飲んでいるのはな~に』と聞かれたことがあった。私は思わず『これは魔法の水で~す』と答えた。『え~、ほんと~?』と子どもたちは興味津々。

 その時はそれで済ませたが、それがきっかけで、私は家から持参するペットボトルの水に色を付け「魔法の水」に見せようと工夫しだした。最初は紅茶を薄めて皆に『今日の魔法の水は赤で~す』などと言いながら見せていた。しかし、赤だけが続くと飽きられるので、次には市販の黄色い「午後の紅茶」を用意した。

 しかし、毎日『きょうの魔法の水はなにいろ?』と聞かれると、赤と黄色だけでなく、何とかもっと子どもたちの目を引く色付けができないだろうかと考えた。その結果、色鮮やかな「かき氷のシロップ」を希釈することを思いつき、以来、青や黄色、緑色などのシロップを買い込み、或いは抹茶粉などを使って日毎に使い分け、皆の前で見せるようになった。夏場、私はそのクラスだけでなく、その上の年長クラスの園児たちにもせがまれ、「魔法の水」は子どもたちの間で一時有名になった。

 クリスマス期には、送迎バスの運転や添乗の際に、100均で買ったイルミネーションツリーを光らせ、カモシカの被り物などを頭に着けるなど、送迎待ちする子どもたちの笑顔を誘い穏やかな乗降ができるようにしたことなどを評価していただいたのだと思う。

 そんな園児とお母さんの心のこもった贈り物が、何よりのご褒美となった。

 有難うございました。

2021年4月11日日曜日

新年度

 2021.04.11

 新年度となり、私は職場が変わり、今までいたこども園の園児や卒園した児童は新学期を迎えた。きっとそれぞれに希望や不安を抱きながら過ごしていることだろう。

 私は早速行政との多少のすれ違いを起こし、数年前までそうした対応を含め施設運営に苦心したことが思い出された。新しい職場のことは何れ書くとしても、もう少し咀嚼する時間がほしい。

 先日、こども園でお世話になったご家族で、階下にお住まいで卒園となったOくん、年長園児となり手製の「感謝状」まで作ってくれたAさんのご家族から、辞める際にバーボンをいただいた。4/8、お礼の意味を込め、2人の園児にそれぞれご本を贈り、Aさんには私が東京・神奈川の友人たちに送った「遺言プロローブ」を併せてお届けした。理由は、この高野山にも私のことをよく知っていただいている方がいて下されば...という、勝手な私の思いからだった。

 それをお渡ししようと思った時、階下にお住まいのOさんご家族も出てこられ、2世帯の皆さんと一頻りお喋りになった。そうこうしていると、そこに団地別棟に住まわれる外国人で高野山で働いている方も加わり、子どもたちは団地の入口で遊びながら、大人たちはお喋りに花が咲いた。

 そんな何でもない夕方の一時を過ごしていると、こうして少しずつ地元に馴染んでいくんだな...と、温かい気持ちになれた。


 さて、今日は久々の休みという感じで、天気も良いし、朝8:30頃から洗濯を始め、干し終わって食事を摂り、シャワーを浴びて、昼過ぎ12:30頃に富貴に出かけた。富貴は小学校分校に昼食配達している所だが、その道中の景色や富貴の町をゆっくり見て回ったこともないので、バイクで出かけた。

 途中は勝手知ったる路なので、それほどこれまでと変化はなかったが、先日、友人たちに送った「遺言プロローブ」(上述)の中で、富貴について書いている部分『今はかろうじてほぼ舗装路ですが、路面はヒビ割れ、穴あき、欠落、継ぎ足し甚だしく、ガードレールなど僅かしかない狭い道..』と記述した部分があるが、この一部を訂正しなければならない。

 今日バイクでゆっくり走ってよく見ると、雪や緑に埋もれた景色の中で紛れていたが、「ガードレール」はしっかりあることに気が付いた。むしろ、『ガードレールがない部分は僅かだが...』と訂正しなければならないほど、ずっとあった。

 多分、富貴の雪や緑に心奪われ、ガードレールは私の視界の中で姿を現さなかったのだと思う...? 改めて富貴の皆さんにお詫びしなければいけない。ゴメンナサイ!


 その富貴のある高台の一角に、「ヒマラヤカフェ」というお店がある。

 そこは何と、私が3月まで勤めていたこども園のある園児のお母さんが営んでいるお店で、しかも私の新しい職場の出店があるセンターで働いていらっしゃる方であった。更に、その園児のお姉ちゃんは、やはり一昨年度こども園を卒園したお子さんで、私が昼食を配達している小学校分校のたった一人の小学生(3月まで)だった。私もよく顔を見知ったお姉ちゃんだが、今日はお友達の家に行き私は会えなかった。

 そのカフェは今はお休み中のようだが、お母さんは私が訪れたチベットのタンカ(仏画?)を描く画家で、旦那さんはフランス人である。彼女は18歳でインドに渡り、10年程チベットでタンカを書く修行をされたようで、普段もチベットの民族衣装を着られる素敵な方だ。

 そのお休み中のカフェにいきなりお邪魔し、体調を悪くし回復してきたばかりの顔馴染みの園児やお母さんとお話した。そのお家の裏にはグラススキーができる傾斜地があり、とてものどかでゆっくりできる、活き活きした場所だった。

 昼食配達の合間や、休みの時に、またお邪魔しようと思う。

 また、素敵な知り合いの輪が広がった。

2021年3月23日火曜日

再会

 2021.03.23

 18時までの勤務を終え、3日前に久し振りに作ったカレーライスを温めていると、珍しく携帯電話がなった。慌てて出ると、宮古市田老のMさんからだった。今年もMさんと話ができることを嬉しく思いながら話を聞くと、昨年10月からMさんの周辺には色々がことが起こったようだった。

 アルコール性肝炎を患っていた息子さんが片足を切断し義足になったこと、そのため家の中をあちこちリフォーム、バリアフリーにしたこと、知り合いの方がお2人ほど亡くなったこと、私も被災地支援中に何度も通った商店の女将さんが癌になりお店をたたみ加療中であること等々、いつもどおりのMさんらしく、全て笑いながら話してくれた。

 私より僅かに年上のMさんご自身は相変わらずお元気だそうで、声の調子も決して悪くはない。それがMさんの<生きる秘訣>なんだろうなと、お声を聞くたび思う。


 Mさんが住む岩手県に入る時、私は三陸海岸をずっと辿っていくのが通例だが、やはり甚大な被害に見舞われた宮城県南三陸町を越えると「鹿折」という地区がある。

 その地区に、海岸から数百メートルも内陸に打ち上げられた「第十八共徳丸」という巨大漁船が、遂に解体処分されたというニュースを先日聞いた。震災遺産として保留しようとする市の意向はあったが、多くの被災者の反対があったためだという。

 その解体処分は、あの震災を目の当たりにした<余所者>として多少無念に思うが、それが被災者の<想い>なのだろう。



 一方、その鹿折から更に進むと、岩手県釜石市の「唐丹町小白浜」という唐丹湾を一望できる場所がある。そこは、3度目になる被災地訪問を5月初にした時、立ち寄った場所で、湾から町への津波の侵入を防ぐためにそびえ立っていた堤防があっけなく崩れた地域だ。

 そこには、盛岩寺という地元漁師の方が中心に祀っているお寺がある。そのお寺も屋根が崩れ落ちるなど大きな被害にあったが、その荒れた境内にお参りした時、何本かの慰霊碑があった。

 その碑には、江戸時代以前から何百年以上にも亘ってこの地を襲った津波の数々の歴史が書かれてあった。その歴史を見ると、如何にこの地が<厳しい海>との闘いの連続であったかがよく分かる。

 でも、その時、何故、この地で、ここの人たちはずっと生きているのだろうという素朴な疑問が湧いた。<その地>は、彼らにとって、先祖から受け継ぎ、ずっと以前から生き続けてきた土地に違いない。それでも何故、「津波」という何時起こるか分からない、急な大悲劇を常に身近に置きながらこの地で生き続けるのか、不思議でならなかった。

 実は、今もその疑問は解けていない。

 土地への愛着、などという生易しいものでないことだけは確かだろうが、<そこ>に生き続ける<訳>は、結局、その土地の者でなければ<余所者>には分からないのかもしれない。

 

 私が電話をいただいたMさんに感じることは、その<明るさ>だ。そのMさんも、田老という昔から津波との闘いを続けてきた土地にずっと住んでいる。

 <知り合いの死>や<ご子息の不運>さえ笑い飛ばしてしまう彼女の根本にも、どこかで唐丹町小白浜に住み続ける人達にも共通するであろう<地への執着>を感じる。

 「地震」と「津波」の上に立つ日本だが、その<悲劇>を決して忌避すべき、或いは逃避すべき対象としていないように見えるのが、三陸海岸の人たちの暮らしなのかもしれない。

 そんな<暮らし>がこの国の中にある、ということも、東日本大震災は教えてくれた。


 私が垣間見た「小白浜」は、グーグルマップで「盛岩寺」を引いてもらえば、その辺りがすぐ出てくる。添付した写真と現在の町の違いを見ていただき、感じていただければと願う。




2021年3月11日木曜日

合掌

 2021.03.11

 去年もそうだったが、今年もこの日が来てしまった。心重い日が、数日続いていた。

 そのせいか、今週月曜夜から喉が痛くなり、痛みは収まる気配がなく身体がだるくなってきたので、誕生日の9日管轄の保健所に連絡すると、山下の病院でPCR検査を受けるよう指示された。同日夕に結果は陰性であると連絡をいただいたが、体調戻らず、今週は大人しく休ませていただくことにした。

 今年もあの時間が来てしまい、この高野山で何もできないまま、東北に向かってお祈りを捧げた。また、宮古市田老でお世話になったMさんにメールを送った。

 思い起こせば、あの震災が起こってから、TVなどでその規模の大きさや被害の甚大さが刻々と伝えられるにつれ、全く連絡が取れなくなった東北地方の障碍者支援施設が心配になり、いても立ってもいられず、4月に入った最初の休日(4/2,3)に毛布一枚を車に積み彼の地に向かってひた走った。

 高速の東北自動車道を上るにつれ、次第に「災害救援車」などと書かれた自衛隊の車両が目につくようになり、仙台に入った時、少し食料を買おうと立ち寄ったコンビニには、食料品は本当に何もなかった。何十台も並ぶスタンドでガス補給してから、三陸海外沿いに道を走ると、石巻に近づいた辺りから次第に道沿いに転がった車や潰れた家屋などが見えるようになってきた。

 後は、気仙沼、陸前高田などに近付けば近づくほど被害は一層酷く、確か大船渡を過ぎる辺り(釜石手前?)で、海外線の高台にある地点から道を下ろうと車が傾いた瞬間、海外線を一望できる広大なエリア一帯が全て何も無くなっている、信じられない状況が運転席にいる私の眼に飛び込んできた。

 そこに近付けば近づくほど分かってきたのは、津波で全て洗い流され礎石だけが残っている海外線一帯で、その所々にはかろうじて瓦礫が引っかかり、空には自衛隊の大型ヘリコプターが数台ホバリングを続け、そこからロープで降りてきた自衛隊員何人もが長い棒を持って地面を突き、地下に埋もれているであろうご遺体などを探している凄ましい光景だった。

 皮肉なことに、標高の違いにより津波の被害に遭ったエリアとそうでなかったエリアの差で、それははっきりと命運を分けた。そして、海岸線に近いエリアに降りてからはもう、道などない所も多く、洗い流された諸々の残骸や瓦礫を自衛隊員が押し分け造った






僅かな通路を走り、更に上に向かったことを記憶している。

 それもこれも、以後、私が勤務していた障碍者支援施設の全国加盟団体と行った支援活動の記録(写真媒体を含む)と共に残してある。

 震災の記憶を風化させてはならない。

2021年3月8日月曜日

GOLD

 2021.03.08

いこう 遠くまで二人きり

捨てよう 何もかも笑いながら

いこう 真夜中に出る舟で

今日までの二人に 手を振って

見知らぬ街 僕らは 別々の場所に振り

はぐれそうになったら 追いかけるのは止めて

思い馳せよう 星屑と地の果てへ

あの頃の二人に 辿り着くから

黄金色に輝く 天使に導かれて

独りぼっちで寂しかった その手に舞い降りるさ

だから

いこう 星屑と地の果てへ

もう一度 もう一度 生きられるから

笑いながら

いこう...


 これは、歌手の玉置浩二が作詞作曲したGOLDという曲の歌詞だ。

 この歌を始め、彼の歌には心揺さぶられるものが多い。

 かつて神奈川県某市にある身体障害者療護施設(現、障碍者支援施設)の運営をしていた頃、法人理事に頼まれて白梅学園短期大学で介護概論などの講義をしたことが数回あった。その講義には数十名の女子学生が出席していたが、授業が終わる前、質問などを伺う紙を配り確認したところ、その中に『先生は玉置浩二に似ていると言われたことがありませんか?』と書かれた紙があった。

 講義内容に関する質問票であったにも拘らず、そんな質問が書いてあり思わず苦笑したが、その玉置浩二は私が大好きな歌手である。特に、彼が書く歌詞は心の奥深くに触れられ、聞いていていつも泣けてくる。

 また、明日、10年目の東日本大震災がやってきてしまう。

 私はここ高野山で、何をしたら良いのだろう。

 岩手県の田老に行きたいがそれは叶わず、ここで彼の地の皆さんの心情を思い図ろう。

2021年3月3日水曜日

お礼と訂正

2021.03.03

  約4ヶ月かかって書き上げた友人たちへの便り「遺言プロローグ」を、2月末にようやく郵送できた。友人各位には長(超?)駄文ではあるが、我慢して読んでいただけるよう願うばかりだ。

 さて、その便りの中で「日本の自死率は世界最高である」旨の記事を書いたが、私のデータ確認ミスで、正しくは「G7加盟国中で最高」と訂正していただきたい。私が確認できたデータでは、世界最高の自死率はどうやらロシアのようで、次いで韓国、ラトビアと続き、日本は7位となっている。何れにせよ高い自死率であるのは変わりなく、このままで良いはずはない。

 そう思っている今日のTVニュースで、政府は先月「孤独・孤立担当大臣」を設定し、孤独・孤立に対応していく方針を示したとのこと。しかし、その担当大臣誕生の背景には、2018年に世界で始めてイギリスで同担当相ができた理由と同じく、自死による「経済的損失」が大きくあるらしい。

 「自死」という、人間の生存や暮らしにとって最も重大な事態に対する対応の背景にも「経済的損失」が大きく存在するというのは、如何にも現代の資本主義社会の効率が見え隠れし、朝から嫌なニュースを見たなと落胆した。

 さあ、気分を変えて、今日は富貴小への給食配達を楽しむぞ!